月夜

私は月が嫌いだ。

だってあなた、月を良く良く見た事が御座いますか?ほら目を擦って、良くご覧なさい。
ああ何と悍ましい!
金色に輝いていると見せ掛けて茶色にくすんだ斑点が見えるでしょう。それの何と汚ならしいこと。まるで腐りかけの梨だ。
あれを美しいと崇めて剰え可愛らしい兎が住んでいるなどと言うのです。
妙に橙色をしてまるで太陽の顔を気取っている日だってあります。月は一体私達に何を与えてくれるのでしょう。見当もつきません。


「私は月が嫌いです」
月ではない人工的な光を浴びる果実の様に小さな顔。睫毛の翳が瞬くのをじいっと見た。
「どうせまたお兄様のつまらない偏屈でしょう」
あなたに嫌われたって生き物以外のどんな存在でも小指の甘皮程も気にならなくてよ。
お得意の皮肉で私を馬鹿にする我が妹は白い小さな饅頭を山から一つ摘まみ上げそれを口に放り投げた。薄い唇は紅を塗らなくても紅く美しい。
「行儀が悪いですよ、倫」
私の目線は妹の顔に釘付けだ。
断じて私に妹をどうこうしてやろうなどの気の迷いはない。ないが、妹の顔は実に美しい。今、歳が丁度善いのだ。少女とも女性ともつかぬその狭間で表現するには難しい色気を無意識に放ち続けている。同じ年頃の生徒達の教育者として有るまじき意見だろうがこの際目を瞑って戴きたい。
性格だとか品行などはこの際無視するが頭だけを取り替えて妹の顔をそのまま人形にしたいと思う程気に入っている。
「お兄様、いい加減にしてくださいな。顔に穴が開いてしまいます。私、刀が使えるのよ。ご存知でしょう」
「私を斬るつもりですか」
「ええ。きっと御父様は大いに笑われますわ。可笑しな事が大好きですから」
「そうでしょうね」
妹はまた一つ饅頭を口へ運んだ。芒が風に揺れ不愉快な音をたてた。
「十五夜なんて馬鹿らしい」
こんなことをして一体何の意味があるのだろう。
供えられた酒に手を伸ばし自分で注いだ。妹はそんなに気の効く奴ではない。
「お兄様は月に対して欧羅巴的なんですわ」
「欧羅巴?」
「日本は代々月を愛でているのに、月に対してそのような意見をお持ちになるなんて欧羅巴的だとご自分で思いません?」
「別に私は…」
「ほうらご覧なさい。お兄様はすぐ憶測で物を言うんです。やれあれは駄目だ、嫌いだと」
まるで聞き分けのない子供だわ。みっともない!
相変わらず厳しい物言いだが罵倒されるのが私は嫌いではない。慣れてしまっているのだ。
「どうも倫には勝てないね」
乾いた笑いを含ませて言うと妹は汚物でも見るような顔で今日初めて私を見た。
「お兄様が笑うなんて気味が悪い」
「満月だからね」
「ふん。お兄様は―」
「倫!」
足音もなしに突然後方から声がして私も妹も吃驚してしまった。
「一体何時だと思ってるんだ。子供はもう寝なさい」
私の一つ上の兄がそう言う。いつの間に此処へ来たのだろう。
「あら、私だけ?此方の方が余程子供だわ。お兄様、添い寝して差し上げたら?この方は月が怖くて寝れないそうですから」
「倫!私はそんな事言って―」
「二人ともいい加減にしなさい」
やや怒った口調の兄は妹の腕を引っ張り無理に立たせ批難を浴びていた。
「一人で立てます!」
部屋の明かりが届かない廊下に出た妹の顔が月光に曝される。
白い肌が妖しく発光して見える。ああ矢張月は駄目だ。厭らしい。
「お兄様、精々満月をお楽しみになって!おやすみなさい!」
恐らく私に言ったのだろう。
開けっ放しの襖を閉めもせず大袈裟な足音を立てて去って行った。
「まったくあの子は。望、駄目じゃないか。今何時だと―」
「知りません」
善いんじゃないですか?十五夜ですから。
私が憎まれ口を叩くのが珍しいのか兄は暫く黙ってしまった。
虫の鳴き声が煩い。
「月が嫌いなのか?」
漸く口を開いた兄は盃を傾けながら私を窺った。
「知りません」
もう話すのが面倒だ。折角倫の顔をまじまじと見ていられたのに。
「お前は本当にあの子が好きだね」
「知りません」
鼻で笑っている兄はきっともう酔っている。私も兄も酒には滅法弱い。弱いくせに飲む。
「月は―」
「知りません」
「まだ何も言ってないじゃないか」
兄は上機嫌で笑い私に徳利を傾けた。
「いいじゃないか。こうして酒を飲む口実になる」
「そんな事を言って、倫が聞いたらあなたまで馬鹿にされますよ」
「そうだろうね」
他愛もない会話をこうして交わすのは久しい。月が私達を此処へ導いたのだろうか。
「兄さんは何故今日此処に?」
「私は野暮用があったのさ。お前こそ実家に居るなんて珍しいじゃないか」
「十五夜ですから」
吹き出して床を叩きながら下品に笑う兄を一瞥しながら私も笑いを禁じ得なかった。
「月が好きになったのか?」
「知りません」

私は月が嫌いだ。だが今日の月は、今日の月だけは愛でてやらないこともない。明日になれば―