若燕

「智恵が若い男を連れて歩っているのを見たわ」
私は噂と言うものがどうも好かない。自分に纏わるものだとより不愉快で堪らない。
学生時代の友人から聞いた話は噂と言うよりは最早嘘の範疇だったし、和服を着た眼鏡の青年など私の周りには一人しかいない。
生憎彼とはそんな関係である訳がなく、そもそも彼と二人で出歩いた事などただの一度もない。

「智恵ったら、あの若者は医者だったのね。年下を捕まえて玉の輿なんて羨ましいわ」
もう訂正すらしなかった。

「糸色先生。あなた、お兄様があって?」
「はあ。兄は三人居りますが」
疑い深く私を見上げる彼の目は安易に例えるなら死んだ魚の目だといつも思う。ぼやけて、濁っている。
「お医者様?」
「一人は。まあ、そうですが」
「そう。よく似てらっしゃるの」
「ええ、まあ。親族の中では一番似ているとは思いますが」
歯切れが悪い。何度言葉を交わしても、彼との会話に耐久性が持てない。
「兄が何か?」
「いいえ、何も」
「そうですか」
教師という立場にありながら、彼はどんな生徒よりも子供染みているし、一番扱い辛い。あまりに腑抜けているから、からかう気も起こらない。人一倍感傷くさいので冗談で嫌味の一つも言いたくない。一蹴り入れて男の癖に泣かれても嫌だ。
ああ、でも泣いたらどんな顔をするのだろう。顔立ちだけは善いと初め見た時から思った。授業さえも満足に行えない教師が女生徒に人気があるのも、まあ頷ける。彼の、その医者だと言う兄上も同じ様に端正な顔立ちなのだろうか。
「いえ糸色先生、実は最近あまり調子が良くないの。目眩がするのよ。お兄様の病院紹介してくださらない?」
「別に、構いませんが」
構わないと言うわりに実に不愉快そうだ。
「何か問題でも?」
「場所を教えるのは構いません。でも、私からの紹介だとは言わないでください」
「何故?」
「借りを作りたくありません」
同僚一人紹介したぐらいで何が借りだと言ってやりたくなったが飲み込んだ。
「随分ケチね」
これでもうんと甘やかして答えた方だろう。
「借りは返して戴くものです。どうせ返して貰えない借りなら私は初めから致しません」
この時ばかりは生き生きと絶望したと口にするのだから、矢張彼が解らない。
「お兄様がお嫌い?」
「いえ、兄は――」
そのまま彼は黙って何も言わなかった。

「新井さん、どうぞ中へ」
目眩がする、吐き気がする、腹が痛くて仕方がない。さてどれを使うか迷ってしまった。
私は確かに病院へ来たけれど、別にどこも調子が悪くなかった。
「今日はどうなさいました」
成る程、同じ顔が言った。
それでも目だけは違かった。透き通ってまるでドロップの薄荷の様だ。すっきりとして気持ちが良い。確りと意思を持った芯のある瞳だ。
「弟さんの、望さんのご相談に参りました」
「望の?ああ、また弟が。そうですか」
同じ高校に勤務している教師だと告げると彼は大層嘆いた。
「弟がまた何か仕出かしましたか?ご迷惑ばかり掛けて本当に申し訳ない」
「いいえ、弟さんは少し純粋過ぎるのです。だから傷付き易い」
「そうでしょうか」
眼鏡の端を指の腹で押し上げる仕草は如何にもインテリゲンチア臭いが、嫌味はない。
「弟さんが苦手ですの?」
「いえ、弟とは――」
彼も口を噤んでしまった。仲違いしているのだろうか。
それにしてもよく似た顔だ。
「本当によく似てらっしゃるわ」
「ええ。幼い頃からよく言われます」
それでも矢張目が違う。
――そうだ、あの噂を真実(ほんとう)にしてしまおうか。
そうは思ったが少し在り来たりな気がして止めた。まだ焦らなくていい。焦らずとも向こうから勝手に落ちてくる。
「お忙しいところ突然お伺いして申し訳ありません。またお会い出来たら光栄ですわ」
「はあ。えっと新井さん、あなた」
「ええ、何か?」
「いえ。なんでもありません。わざわざこんな所まで来て戴いて有り難う御座いました。また弟に何か問題があれば遠慮せず言ってやってください」
――あの子はもう少し大人になるべきだ。
そう言って曖昧に微笑んだ彼は、私を出入口まで見送る中々の紳士だった。
「では、また」
「ええ」
奇妙な意思の疎通を以て私は満足した。孰れまた会うだろう彼を想って笑ってしまいそうになる。

「燕の巣は高いのよ」
私はなんて厭らしい女だろう。
友人の減らず口が、また噂を運んで来るのが今度は楽しみで仕方ない。