指切

不自然に膨らんだ宛名のない封筒が置かれていた。持ち上げると中でビニールの擦れる様な音がして少し重みがある。
鋏で封を開けて私は腰を抜かした。
小指が入っていた。

ああ、誰だろう。私を呼ぶ声がする。心地のよい女性の声だ。
この起きるか再び寝るのかの微睡みは気持ちがいい。布団の白に身体がめり込んでいくような錯覚がする。私をも白く塗り潰してくれるような気がして微笑んでしまう。寝惚けているんだ。
「糸色先生」
まだ寝ていたい。
「糸色先生、いい加減になさい」
ベッドごと引っくり返す様な乱暴な起こし方で私を睨みつけている女性。顔が見えない。ああ眼鏡を掛けていないんだ。
「眼鏡が」
「さっさと出ていってくださいな。私まで陰気臭くなりそうだわ」
冷徹な声色で私の眼鏡を投げ付けてきた彼女は今日は虫の居所が悪いらしい。静かに怒りを露にされるととても恐ろしい。
「申し訳ありません。すぐ出ていきますよ」
眼鏡を掛けて確りとした視界で彼女を捉え無意識に手を、いや指の本数を数えてしまった。
十本ある。いや、いけない。あれは悪い夢だ。

微かな重みを従えた不思議な封は真っ白で何も書かれていない。確りと糊付けされている。
雑に開けてもよかったのだが送り主が折角綺麗な封で寄越したものを蔑ろにするのも憚り丁寧に鋏で封を切った。
中には小さなビニールの袋が入っている。真っ赤だ。何だろう。ビニールを摘まみ上げて私は悲鳴と共に腰を抜かし、その場に倒れた。
「ひい!」
指だ。恐らく女性の、第一関節のあたりで切断された小指。
抑えきれない嘔吐の予感に汗が噴き上げてくる。

「先生?」
ああまた私は夢に囚われていた。目を覚まさなければ。
首を左右に振り乱し気を落ち着かせようと試みた。
「先生、大丈夫ですか?」
「ええ」
青ざめた顔で私を訝しげに覗き込んでいる彼女の方が大丈夫なのかと訊きたくなった。
下げた視線が自然と手元へ導かれる。
「ひっ」
一瞬だ。ほんの一瞬彼女の小指が――
「先生!本当に今日はどうしたの?大丈夫ですか?」
また吐き気がせり上がってきた。気持ちの悪い汗が再び背中を伝う。
「何でも…何もありませんよ」
無理に微笑んで唇が引き吊ったのが自分でもわかる。なんと厭らしい笑い方だろう。生徒に向ける顔ではない。
「何でもない訳がないじゃないですか。はっきりしてください!」
心配して戴けるのは有難い。有難いのだが今はあまり干渉して欲しくない。
私は少し頭を冷やすべきだ。
「大丈夫です。大丈夫ですから、あなたは教室へ戻りなさい」
必死に諭すと納得のいかない表情を隠しもしないで彼女は制服を翻し去っていった。
「勝手にしてください」
言われずもそのつもりだ。

「此処に居たんですね、先生」
今日はよく話し掛けられる日だ。
「先生の様子が奇怪しいと話題ですよ。どうかしたんですか?」
眉をほんの少し下げながら微笑んだ彼が何故此処に来たのか考えたが止めた。どうせ私を教室へ引き戻そうとか思っているんだろう。
今日はもう何もしたくない。
「悪い夢でも見ましたか?」
「えっ」
素っ頓狂な声を上げて彼を窺ってしまった。私はなんとわかりやすい人間なのだろう。
「図星ですね」
楽しそうに笑う彼からは微塵も悪意を感じない。そうだ彼はそういう子だ。酷く羨ましい。
「そうですね、図星です」
最早嘘も必要ない。彼に隠し事は通用しなそうだ。
夢の話をしてやった。

「へえ、指切りですか。随分と古風ですね」
「夢ですから」
私の焦燥感などものともせず愉しげに笑う彼は矢張底知れない。きっと身体の芯から皮膚や爪の隅から隅まで彼は真っ白なのだ。何にも染まらず永遠に純白で私の様な人間とは次元が違う。
私が汚してはいけない。だが私のような塵ごときに彼は冒される訳がない。彼はずっと白いのだ。
「でも常月さんなら考えられますね」
「縁起の悪い。やめてください」
彼女なら本当にやりかねないから恐ろしい。可笑しな知恵を吹き込んだら最後。痛い目を見るのは私だ。
「僕、屋上に出たのは久しぶりです」
「今度此処で本を読んだら如何です?きっと気持ちがいい」
彼に打ち明けたことで私の靄は頭上の空の様に晴れてしまった。なんと単純なことだろう。
「それはいいですね」
「ええ」
時折風によって頁が捲れてしまうのがかえって楽しく感じさせるだろう。
「その時は是非先生も。何か面白い本を見繕っておきましょう」
「私も?」
「はい。先生も一緒に」
ね?と子供染みた問い掛けと共に小指を立てた右手を差し出された。
「指切りです」
「えっ」
ね?とまた念を押す彼に従う他なかった。小指と小指を絡め上下に振る。
「指切り拳万、嘘ついたら針千本呑ます、指切った」
離れた小指を見詰めたまま暫く動けなかった。指切りの歌は改まって聴くと意外と残酷なもので彼の口にはそぐわない。
「ふふ。指切りより針千本の方が怖いですね」
「万回殴られるのも嫌です」
「そうならない様に約束は守ってくださいね」
「ええ、必ず」

もしこの指切りさえ夢だったなら私は彼に針を千本呑ましてやろう。