病床

暑い。
なんだか無性に暑いのだ。
私の前後左右に鎮座する壁が僅かに、少しずつ、徐々に私に迫ってきている。そんな妄想に取り憑かれた。

私は肺を患っている。
幼い頃より体が弱かった。風邪から幼い私には到底理解できない病名の何かまで、様々に冒された。よく学校を休むので望みもしないのに目立ち、元より華奢な体つきから女の様だと同級生に囃し立てられていた。
二十代を過ぎるともう普通の人の様に生活をするのが困難だった。自分でももうどんな病をやったか覚えていない。
ただ肺は疼んでいた。

私はもう暫くしたら死ぬのだろう。
十代の後半は死ぬことばかり考えた。先日病んだものが治れば次また何かが調子狂う。いつもそうなのだ。もう辛いのは嫌だ。だからもう死んでしまいたい。
私は死を願った。

でも生きている。
こうして部屋に閉じ籠ったまま歩きもしない生活が果たして生きていると言えるのかは判らないが、文字通りの意味では私は生きているのだ。
あんなに切望した死が今では一番恐ろしい。

死んだ者は一体どうなるのだろう。天国や地獄というのが大変一般的な見方であろうか。そして転生。百年もしたら私はまた生きているかもしれない。そうしたら今度は健康な体を寄越せと天国か地獄で叫んでやるのだ。
もう辛いのは嫌だ。

「望、入るよ」
襖の向こうで聞こえた声は自分によく似ている。
「やあ、今日は顔色がいいじゃないか」
誰も好き好んで病人の部屋に来たりなどしない。彼は医者だ。
医者で私の兄。
「兄さん私は暑くてたまらないのです!其処を開けておいてください!」
私の癇癪に兄は最早微塵も驚かない。厭らしい猫撫で声とは違う、優しく諭すような兄の話し方には全く棘がない。その一言一言に至極安堵するのだ。
「落ち着きなさい。そうだ今日はとてもいい天気だからね、少し開けておこう。あまり苛々するものじゃあないよ。身体に障る」
ああ金木犀の馨りがする。どこか余所の家だろうか。
「少し風にあたってから診察しよう。縁側に出てみないか」

私が立つのを手伝いながら兄は先ほど金木犀が庭に生えている家の前を通ったが馨りが強すぎてかなわない、やはりこれくらいの距離を置いた方が丁度いいと言った。
風が気持ちいい。
「兄さん、水を」
頂いてもいいですか。そう続けるつもりだったが咳が出た。ああ目眩がする。いつもこうだ。またあの赤い痰がでるのか。折角外に出たというのに。
「飲めるかい?」
ヒューヒューと瀕死の何か醜い生き物の様に音をたてながら浅い呼吸を繰り返す私の背を兄が擦ってくれた。
空気が欲しい。吸っているのに。
「深く吸ってご覧。そう、上手だ」
まるで子供をあやすように呼吸をコントロールする。飲み下せなかった水がだらしなく垂れ流れるのを兄がハンカチで拭ってくれた。
「すまない、無理をさせてしまったね」
痰は出なかった。

抱き抱えられるように寝床へ戻ってから兄が枕元に何か置いた。
「お前が好きな作家が新作を掲載していたから来る途中で買ってきたんだ」
私に小説のことはよく解らないけどね。
そう言って兄がそっと置いた雑誌を横目で窺うと、それは私が毎号購読していた文学雑誌だった。贔屓にしている作家がよく掲載されているのだ。
彼は私と同じ病で先月死んだらしい。つまりその新作とは遺作なのだ。
彼はどうだっただろう。やはり苦しみながら死んだのだろうか。直に私もこの布団から這い出ることすら儘ならない体になるのだ。それまで精々読んでやろうではないか。この、お気に入りの消えゆく紙の連なりを。
「有り難う御座います」
「いや、いいさ。しかし今日はもう止めなさい。明日調子がよくなってから好きなだけ読むと善いよ」
明日調子がいいだろうか。

兄が帰ってから暫く私は放心していた。何も考えていない、心が空なのに眠っていない。不思議な感じがした。
嫌な予感がする。部屋が橙色になり始めた。兄はもう自宅へ帰っただろうか。
―――――
蟾蜍を踏み潰した様な音がして目の前に真っ赤な染みが現れた。まだ産まれたばかりで酷く鮮やかだ。
乾いて褐色になったやつが私は大嫌いだ。あれは頂けない。汚くて仕様がない。
「兄さん」
目の前の真っ赤を抱いた。なんて温かいのだろう。
もう壁は迫ってこない。

兄の優しい笑顔を思い浮かべた。謝りたい。会って目を見て謝りたい。私がもっとしっかりしていれば。
兄が異様に恋しくなった。
次はいつ来て呉れるだろう。私は耐えきれず言い付けを破り雑誌を手に取った。

縋る思いで開いた彼の遺作は、今の私にはあまりに残酷だった。