刃物では切れないもの

どうすれば、やつを忘れて平穏に暮らすことができるか。
考えて考えて考えた結果がこれだ。
短絡的と言われようが、相手は普通のやつではない。
普通の対処では、間に合わない。


「どうしたんだよ、キョウ」

「煩いっ、黙れ!今すぐ失せろ!俺に近付くんじゃねえ!」


早く、刺せ。
そう、自分に命令するが、ガタガタと震える指先の振動が刃先にまで伝わり、焦点が定められない。
刃物を扱うこと自体に、恐怖は感じない。
しかし、もし、これで狙いを外した時のことを考えたら、闇雲に動くことは出来なくて。
僅かに緩くなったヒズミの手の拘束を振り払い、後ずさる。
とにかく、距離を取りたかった。
距離を置けば、体の震えも止まるはずだと思ってた。
だけど。


「キョウ」


真っ直ぐにこちらに向けられたレンズ。
その下の目が俺をじっと見ていると思えば、凍りついたように体が動かなくなる。
笑みを消したヒズミは、悲しそうに眉尻を下げた。


「ダメだろ、人にそんなこと言っちゃ。……ほら、それも人に向けちゃダメだぞ。怪我しちゃったら危ないだろ?」


一歩、また一歩とヒズミがこちらへと歩み寄ってくる。
刃先との距離も考えずに、まるでそれが見えていないかのように、当たり前のように歩み寄ってくる。
今度は、俺が退く番だった。


「来るなっ、来るなってばっ!」


なんで、こいつは刃物を怖がらない。
普通、こんな、嘘だろ。
目の前までやってくるヒズミに焦り、つい、冷静を失った俺は釣られるようにしてナイフをヒズミの喉目掛けて横に引いた。
なのに、ヒズミは避けようともしなくて。


「は……っ?」


どうやら手の震えのせいで上手く裂けなかったらしい。
首横一文字にできた薄い線から微量の赤い液体がやつの白い首筋を汚すが、相変わらずヒズミは平然と俺を見つめていて。
それどころか、


「……これで、満足なのか?」


ゾッとするほど優しい声。
咄嗟にナイフを持ち直したが、遅かった。
次の瞬間、赤く濡れたナイフの刃先を掌で包み込むように握り締めるヒズミ。
肉が切れる感触が柄に伝わり、なにをしているのかわからず目を見開いた時、まるで柄を掴むように刃先を握りしめたままヒズミは俺からそれを取り上げる。
そして、からんと音を立て、床の上へと捨てられるナイフ。
ヒズミの血で赤く汚れたその刃先は、ぐにゃりと曲がっていた。
全身から、血の気が引く。

微笑むヒズミに、優しく抱き締められた。
赤く染まった掌が、子供をあやすように俺の背筋を撫でる。
暖かい血の感触に、視界が歪んだ。
我慢の糸が解けたみたいに、溜まった涙がポロポロと落ちていく。


「ぅえ、っく」

「わかってるって、久し振りだったからな。だから、緊張してるんだろ?この前も、ちゃんと話せなかったしな。でも、安心しろよ!これからは俺もキョウと一緒に勉強できるんだ!会おうと思えばいつでも会えるし、前みたいにまた遊べる!嬉しいだろ?俺は最高に嬉しい!」

「…っや、だぁ…っ」

「ははっ!そうかそうか!キョウ、お前も泣くほど嬉しいのか!」

「いや、だ…っも…っ」


酷い脱力感。
なにをしても、ヒズミには効かない。
その事実は俺にとって大きなショックを与え、絶望にも等しかった。
どうやったらこいつを離れさせれることができるのか。
そう、考えるのもバカバカしくなって、それ以上に、自分を殺そうとした相手に関わらず変わらない愛情を向けてくるヒズミがひたすら怖かった。


「ああ、わりー。強く抱きしめ過ぎたか?でも、キョウって抱き心地いいからさぁ、つい腕に力入っちゃうんだよな」


込み上げてくる嗚咽を隠すことも億劫で、しゃくり上げて泣く俺の前髪を指で掻き分けるヒズミはちゅっと音を立て、額にキスを落とす。
そして、俺の顔を覗き込み、はにかんだ。


「大丈夫、今度は優しくするから」


「な?」と真っ直ぐにこちらを見て笑うヒズミ。
制服を汚すヒズミの血が絶望感とともに体に染み込んでいく。

mokuji
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