一時退散 あの男と純の姿が見えなくなった途端、まるで嵐が去ったあとのように辺りに静けさが戻る。 「っは、……っ」 先ほどの不意打ちに、まだバクバクと煩い胸を抑える俺は唇を拭った。 何度も、残った微熱を拭い捨てるように。 俺のことをキョウと呼ぶ人間は少なくない。 事実、自分がそう呼ぶように言ったからだ。 親に付けられた自分の名前が嫌いで、親と同じ苗字が嫌いで、だから、反抗期真っ盛りだった俺は周りにキョウと呼ぶように強制した。 仙道京という自分を忘れたかったから。 呼び名を変えたら、自分も変われるような気がしたから。 だから、当時、俺のことを知っているやつらはキョウと呼ぶ。 だけど、チームのやつら違う。 俺がヒズミに負けて、チームを解散させたとき、誰も俺のことをキョウと呼ばなくなった。 今度はキョウという名前を捨て、仙道京に戻った。 でも、今ならわかる。 名前を捨てたところで、全てを断ち切れるわけではないと。 俺のことをキョウだと呼んだ男には、見覚えがない。 あんな失礼な奴、接触していたら一発で覚えてるだろうが、正直、あまり人の顔を覚えることが得意ではない俺は記憶力に自信がない。 興味ない人間の顔は片っ端から忘れていく性質なのだ。 「仙道さん!」 やがて、遠くから複数の足音が聞こえてきて、赤と黄がやってきた。 青い顔して駈けつけてくるやつらに「大丈夫、大丈夫だから」と宥めた時、 「なにも大丈夫じゃないだろ」 「…ユッキー」 騒ぎで駆け付けたのかもしれない。 赤と黄たちの後ろに立っていたユッキーは、俺の目の前にやってくる。 その顔に、いつものような人良さそうな笑みはない。 …………やばい、怒ってる。 「なんで見張りを置いていくような真似したんだ」 「……やっぱり、ユッキーの仕業なわけ。この子ら」 「一人のときを狙われたら厄介だからな」 「要らないし、そんなの。俺一人でもあの程度ならやり返せるから」 「そうだな、あの程度が一人だけならな」 そう言って、ユッキーは視線を逸らした。 どこか含んでようなその言葉に、俺は目を細める。 ピリつく空気の中、「すみません!」と赤と黄の声が重なった。 「雪崎さん、仙道さんは悪くないんです。俺がトイレ行こうとか切り出したばかりに」 「夜食べ過ぎなかったら…」 しょんぼりと項垂れる二人に、冷ややかな目をしたユッキーは「ああそうだな、今度から仙道を見張る前は断食しろ」と素っ気無く答える。 刺々しいその一言に、なんとなくカチンと来た。 けど、後輩に庇われるのは少しだけ癪で。 「別に、君らは悪くないよ」 「そうだ、悪いのは無鉄砲なこいつだ」 この野郎。 そう、俺がユッキーを睨んだ時。 「ああっくそ、逃げられたっ!」 吼えるような怒鳴り声とともに、壁が小さく軋んだ。 戻ってきた純は、イラつきが収まらないようだ。 再度乱暴に壁を蹴りあげた純は、大きな舌打ちをした。 どうやらあの男、純を撒いたらしい。 あの純を撒く人間は少ない。 やはり、只者ではないということか。 「純、お前、保健室にいろって言ったろ。足の怪我は大丈夫なのか」 そんな中、闘志を燃やす純に歩み寄るユッキーの言葉に俺は目を丸くした。 「怪我っ?」 「はぁ?あんなもんどうってことねえっすよ…つーか、それ言うなって言ったじゃないですか!」 慌ててユッキーの口を塞ごうとする純。 しかし、もう遅い。しっかりとこの耳で聞いたからには無視することができなくて。 「純、怪我してるの?」 それなのに、あんなに全力疾走したのか。 おまけに壁まで蹴って。 呆れて純の足元に目を向ければ、純はバツが悪そうに顔を逸らす。 「べ…別に、着地しくじって捻っただけですよ。こんなの、痛くねえし」 そう言うなり、強がって足を動かす純だったが、足首をぐるりと回した瞬間その表情が僅かに引き攣るのを見逃さなかった。 それはユッキーも同じらしくて。 「……っ、ほ、ほら、平気……」 「お前、鏡見てみろ。ひでえ顔になってるから」 呆れ顔で突っ込むユッキーに、なにも言い返せなくなる純。 純がなんで怪我したのかということも気になったが、自分のせいでそんな状態の体を酷使させたと思ったらなんとなく急に弱気になってくる。 「ごめん」 そう、小さくつぶやけば、目を丸くした純はそのまま硬直し、そして顔を引き攣らせた。 「やめて下さい。あんたに謝れるとここらへんがゾワゾワする」 言いながら、胸の辺りを摩る純。 もしかして気を使ってくれているのだろうかとも思ったが、本人の様子からするにまじで薄気味悪がっているようだ。 まさかそんな返しをされるとは思わず、ちょっとムッとなって「なにそれ」と唇を尖らせたとき。 「仙道、取り敢えずここを出るぞ。今の騒ぎで誰か来たらお前も困るだろ」 ユッキーに、腕を掴まれる。 大きな手。 「今度は逃げるなよ」 咎めるような視線を向けられ、なんだか捕獲された珍獣のようで面白くないが、俺としてももう逃げる気はなかった。 ヒズミと出会ったことによって植え付けられた嫌な記憶は、思いの外俺にとって大きなハンデになっていたようで。 小さく頷き返し、俺達は夜中の校舎を後にした。 |