ブラザーコンプレックス 兄がいなくなった。 いなくなったのはいいが。寧ろ大歓迎なのだが。 「あのー…向坂さん?」 「はい」 「俺、トイレ行きたいんだけど」 「はい」 「……ついてくんの?」 「未奈人様に『便所の小窓から逃げ出す可能性があるから目を離すな』と言い付けられてるので」 「……」 どんだけ俺はアクロバティックと思われてんだよ。 いやまあ確かに逃げるけどさ。 「ついてくんのはいいけど、見んなよ!」 屋敷内、廊下。 どこを曲がっても襖が立ち並ぶそこは幼い頃よく道に迷っては泣き喚いていたが、今でも迷ってしまいそうだ。 目印に障子に穴を開けて行ったら迷わずに済むかもしれない、なんて思いながら背後からついてくる向坂さんに声をかければ、少しだけ困ったように向坂さんは眉尻を下げる。 「しかし、その、毎朝欠かさず採尿をするように言われてまして」 「いいから!しなくていいからそんなの!」 どんだけ徹底してるんだよ、あいつは!俺の担当医師か! 今はいなくなった兄に見張られてるような気がしてならない。というか実際見張られているのだろうが、ここまでくると俺の我慢も限界に達するわけで。 「いくら佳那汰様でも困ります、未奈人様の言いつけを守って頂けないと」 俺への態度を決め兼ねているのだろう。どこか腰の低い向坂さんだが、その言葉は兄の犬だと公言しているものと同じだ。 だからこそ、ここにきてずっと兄に振り回されていた俺の我慢の尾はあっさりと断ち切られる。 通路のド真ん中。 ぴたりと足を止め、振り返った俺は向坂さんを睨み付けた。 「向坂さん、あんた今誰の召使だよ。俺だろ?……俺の命令を優先させろ」 昔からだ。皆、いつでも兄の意見を尊重する。 確かに兄は頭がいいし俺は馬鹿なことも重々承知しているが、やはり、コンプレックスが刺激されないというわけでもない。 だとしても、向坂さんには関係ない話だ。 つまり俺のヤツ当たりなわけで、びくりと肩を震わせそのまま硬直する向坂さんに、『またやってしまった』と後悔する。 当たったところで、向坂さんに罪はない。 「……悪い、でかい声出して」 なんだか急に恥ずかしくなって、俺は小さく謝罪し、そのまま歩き出した。 大人気なかったかな。これだからお兄ちゃんにガキ扱いされるんだろう。気をつけなければ。 もっとクールに、もっとクールに、と暗示のように呟きながら俺はお手洗い場へと向かって足を進めた。 後ろからついてくる向坂さんが、どんな顔をしているのかも知らずに、ただ前を向いて、ひたすらに。 |