本文:店長がそっちに行った!

やばい。
これは、やばい。

咄嗟に服を直したが、言葉が出ない。
なにか、言わなければ。


「いや、あの、俺は、ただの通りすがりの……」


そして、そうようやく口から出た言葉は誤魔化すもので。
声が震え、視線が泳ぐ。
全身が緊張し、しどろもどろと言葉を紡ごうとした時。
手が、伸びる。


「久し振りだな、佳那汰」

「っ、ぁ」


優しく腕を掴まれ、服の山の中から引っ張り出された。
照明の明るさに一瞬視界が眩み、フラつきそうになったがすぐに支えられる。


「お兄、ちゃ……」


懐かしい、優しい目。
つい、昔に戻ったみたいに兄を呼ぼうとしたのと、騒がしい足音とともに店長がやってきたのはほぼ同時だった。


「お義兄さん!お待たせしまし…」


瞬間、パン、と乾いた音を立て、目の前が真っ白になった。
大きくよろめき、俺はそのまま床へへたり込んだ。
顔を上げれば、眉間にシワを寄せ、冷たい目で俺を見下ろす兄。

一瞬何が起こったのかわからなかった。



「……え?」


じんじんと火照り始める頬を抑え、俺は呆然と兄を見上げた。
一部始終を見ていた四川たちは目を丸くし、翔太は呆れたような顔をし、丁度乱入したばかりだった店長は何が起こったのかわからない顔をしていて。

殴られた。
そう、理解するのに然程時間はかからなかった。


「うっわー…」

「あーあ」


溜息混じり、呆れたような野次の声。
憐れむような向けられた複数の視線に、動けなくなる。
そんな俺を、ただ兄は蔑むようにこちらを睨んでいて。
「立て」と、髪を無理矢理掴まれ、強引に立たされる。


「なんだこの頭は。なんだその男は。なぜ嘘をつく。お前がここまで阿呆とは思わなかったぞ。この愚弟が」

「、……っ」

「来い、これ以上野放しにして悪影響を受けられちゃ溜まったものではない。その性根から叩き直してやる」


言葉も出なかった。
抵抗しないと、そう思うのに、体が動かない。
代わりに、視界がじわりじわりと滲んで、昔みたいに泣きそうになる。
いやだ、いやだ、行きたくない。
そう思うのに、呪縛にかけられたみたいに体が動かない。

あそこには、帰りたくない。


「ちょっ、ちょっと、ちょっと待って下さいよ!お兄さん!」


兄にされるがままになりかけたときだった。
慌てた翔太が兄の目の前に立ち塞がる。


「退いて頂けませんかね、中谷君。君には長い間面倒をお掛けしましたが、それもこれまでです。また後で連絡しますので、話はそれでいいでしょう」

「良いわけないじゃないですか。取り敢えず、佳那汰から手を離してください。落ち着きましょう、お互い」

「落ち着く?このような猥褻そのものを具現化したような空間で落ち着けと?」


口元に浮かべた冷ややかな嘲笑。
その遠慮ない言葉に、黙って聞いていた面々も僅かに不快感を顔に出す。
特に、あの睫毛は。


「お義兄さん、少々待っていただきたい」


聞き捨てならないとでも言うかのような勢いで仲裁に入ってきたのは案の定店長だった。
こうして兄と店長が並ぶと同じ高級感漂うスーツを着ている二人でも店長がやはりホストにしか見えなくなってしまうのは内面の問題なのかもしれない。
しかし、今日の店長はいつもに増して真剣な顔をしていて。


「そこのお義兄さんの可愛い弟さんはあくまでもこの店の大切な店員でもある。勤務中の連れ出し行為はマナー違反同然。社会人であるならばルールの大切さというのをご存知でしょう」

「ほぉ、その勤務中、人目を盗んでいかがわしい事をしているバイトを取り締まることすら出来ない店のルールですか」

「い、いかがわしい事だと?!おい、どういうことだ時川!」


指摘を受け、狼狽える店長に司は「実は赫々然々」となんとも投げやりな説明をするがどうやら伝わったらしい。


「なに?!けしからん!四川貴様減給だ!」


舌打ちをする四川に内心ざまあみろ!と思ったが、今は人を笑える状況ではない。
寧ろ減給どころかもう給料貰えることがなくなる可能性のある俺はちらりと兄を見る。
兄はなにか考えるように店長をじっと見つめ、そして、重い口を開いた。


「…時に、貴方がこの店の責任者のようですが、名前を聞かせていただいても」

「ああ、これは失敬。自分は井上と申します。一応、この店の店長などを…」


「井上…井上、利人?」


店長の言葉を遮って、そう呟く兄に店長は「え」
と目を丸くし、兄を見上げる。
心底驚いたような顔だった。


「なるほど、どこかで見たことのある睫毛と思いきや…貴方でしたか。十年ぶりですね、井上君」

「え、え」

「覚えてませんか、俺ですよ。高校の時はお世話になりましたね。井上君」


あくまでも淡々とした調子で続ける兄に、みるみるうちに青褪める店長は「あ……あぁ……」と思い出したように兄を指差す。


「ミナト、先輩……っ!」


え、なにこの展開。

mokuji
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