釣った魚は逃して大きく育てましょう

「くそ、翔太のバカ野郎…」


なんかケツに感触残ってるしぬるぬるして気持ち悪いし、ほんとなんなんだ。
ばくばくうるさい心臓も、未だ静まる気配はない。
最悪だ。
なんてことを思いながら、便所から出た時だった。


「どうしたの?痴話喧嘩?」

「なにが痴話…って、紀平さん」


通路壁際。
「や」と爽やかな笑顔で手を振ってくる紀平さんに、まさかこんなところで会うとは予想だにしていなかった俺は凍り付く。


「い、いつから、そこに」

「ん?ついさっきだよ。翔太君の『脱いで』の辺りから」


ほぼ最初から…!しかもしっかり聞きれてる…!
あの野郎無駄に声がでかいんだよちくしょう聞かれてんじゃないかよ翔太のバカ、バカ翔太。


「薬塗ってもらってたんだって?どこ怪我してるの?」

「え、や、その…膝小僧を」


歩み寄ってくる紀平さんは俺の顔を覗き込む。
人によれば人懐っこく感じるであろう笑顔だが、今の俺にとってはただ恐ろしい。
「へぇ?」と薄く唇を歪め、笑う紀平さんに俺は目を泳がせる。


「いまの、み…皆には言わないでください」

「言わないよ。そんな面白いこと。どうせ、この間司にヤラれちゃったときのでしょ?あいつ、遠慮ないからねえ」


いつもと変わらない調子で続ける紀平さんの言葉に、全身から嫌な汗がどっと噴出す。
目を見開き、紀平さんを見上げた。
目があって、紀平さんは優しく微笑む。


「大丈夫、言わないよ。司君のことも、しょーた君のことも。あ、でも、うっかり口滑っちゃうかもしれないなぁ」

「な…なんですか、それ」

「口封じ、してくれないの?」


つまらなさそうな、それでいてどこか甘えるような、そんな誘い言葉だった。
顔が近付く。
至近距離にたじろぎ、俺は一歩後退った。


「なんで、そんなこと」


しなきゃいけないんですか、の言葉は飲み込んだ。
静かな通路。
店内の方から聞こえてくるBGMがやけに遠く聞こえる。

この空気は、よくない。


「紀平さんは、そんなこと言いません。…信じます」

「信頼してくれるねー。嬉しいよ」


美味しくはないけど、と紀平さんはゆっくりと体勢を戻す。
離れていく紀平さんに安堵を覚えると同時に不安を感じた。
「あの、」と紀平さんを見上げれば、目だけを動かし紀平さんは俺を見る。
そして、笑った。


「ああ、もういいよ。仕事戻るんだよね。店長がテンパってるみたいだから手伝ってやりなよ」


そう言って、軽く手を振る紀平さん。
これは、見逃してくれるということなのだろうか。
「あ、はい」と、思わず頷き返してしまい、慌てて顔を上げた。


「…っと、その、ありがとうございました」


そして俺はそれだけを言えば、逃げるような足取りで慌ただしくその場を離れた。




「そこでお礼言うんだ?…俺に」

mokuji
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