限りなく1に近い0 「なんだと?原田が辞めるって?」 『…店長声うるさい』 だからそう言ってんじゃん、と携帯越しに聞こえてくる紀平の声に俺は硬直した。 都内某所にあるマンション前。 原田佳那汰の履歴書に記入された住所までやってきていた俺は、入る直前に掛かってきた紀平からの電話に頭を殴られたような気分だった。 いや、だって、あいつが自らこのバイトを辞めるはずがない。 それなりの確信と根拠を抱いていた俺にとって紀平からの通達はショックなもので。 『ま、辞めるって本人から聞いたわけじゃないらしいけどね』 「どういうことだ」 『司君、パス。君から説明してやって』 こいつ面倒だから部下に仕事押し付けやがったぞ。 ガサガサとノイズが走り、隣にいたらしい時川がそれを受けとる。 『代わりました、時川です』 受話器から聞こえてきた相変わらず無愛想なその声は、ことの事情を説明始めた。 司の口から語られたそれは、なんとなく不穏なものだった。 「ふむ…それは、なにか事件の香りがするな」 『店長、サスペンスの見すぎですよ』 受話器から聞こえてきたのは笑う紀平の声だった。 いつ代わったんだこの野郎。 『というか、店長今どこにいるんですか』 「原田のマンションだ」 『わあ、相変わらず無駄な行動力ですね。その内ストーカー行為で訴えられないよう祈っときます』 「人聞きの悪いことをいうな。電話に出ないからこちらから出向いただけだ」 『で、どうでした?かなたんいましたか』 にやにやと笑う紀平の声になんとなくムカつきつつ、ロビーを遮断する自動ドアの前に立った俺は「今からだ」と呟いた。 無駄にでかいこのマンションの507号室。 そこに原田佳那汰の佇まいはあるはずだが、正直、いるかわからない。 というかあの原田がこんな大層なマンションに暮らしているということに驚いた。 高校中退でまともな職歴がないあいつ。 育ちがよさそうにも見えなかったし、実家が金持ちのようにも感じなかった。 考えた結果、原田を養っている人物の影が見えた。 先ほど司から聞いた原田の代わりに出てバイトを辞めさせるよう言った青年か。 思ったよりも原田は面倒な環境にいるのかもしれない。 そんなこと思いながら自動ドア横のインターホンで原田を呼び出してみるが案の定留守で。 管理室にいって適当に鍵開けてもらうか。 なんて思いながら踵を返したときだった。 入れ違うように、マンションに一人の男が入ってくる。 小綺麗に整えられた清潔感漂う黒髪に涼しい顔。 どこかキツい目元に、一文字に結ばれた口許は頑固そうで。 どこか見覚えのある顔だった。 グレーのスーツを着た細身の男はそのままインターホンの前に立ち、とある室号を入力した。 『0507』 原田の部屋だ。 やはり出ない住人に小さく舌打ちをしたスーツの男はそのまま苛立たしげに靴を鳴らしてマンションを出ていく。 擦れ違い様、俺の視線に気付いたスーツの男はこちらを一瞥し、そして駐車場に止められた車に乗り込んだ。 助手席には若い女。 かかるエンジン。 走り出す車を見送り、俺は手元の携帯電話に目を落とす。 店との通話はいつの間にかに途切れていた。 収穫はゼロ。 |