窓枠の揺れる音がする。……上層は風が疾いのか、夜空に雲はない。
しかしながら、月は、死んでいる。
……朔月だ。地表の暗さは曇天の夜とたいして変わらぬように思う。
──いま、何刻だろうか。
この宵、欠落の黒に塗りこめられ、ぽっかり消えた月影からは時刻を計るすべがない。
窓辺の布の、ほんのりめくれた透き目には、ただただくろく闇がある。
時節柄、夕刻に降る驟雨 のために、たたえられた夜半のいろみは塵も含まず澄んでいる。……それでなお、底も見えずにふかい。
しっとり濡れた地表に冷やされ、硝子のように冴えざえとした黒曜の夜──とばりの布地のわれた目が、その色あいをほそ長く切り取っていた──、ひとひらの星空は、なめらかに研磨されている。
そのもっとも上端へは、磨き抜かれた石盤にうつる艶みたく、天 の大河がすがたを見せる。
──うまれ、呼吸し、食べ、やすらう地表のすべてが、いつかは戻る。
数えきれない星屑でなるその河は、女神のとっため牛のかたち──その下腹にひかり、巨 きなる母胎を示す乳白のながれだ。
(……よるの、ははの、胎盤。)
ふと、物思いにかられた。
人智を超えた存在も──、その胎 は、ひとや、けもののそれとおんなじふうなのだろうか。
……その内部にふくらむ胞衣 のなか、大地に歩く数多の生のもと ──あらゆる魂はみな、臍帯 のひもで繋がれているのだろうか──あの星屑が在りかを示す、夜空の、肉の容器に。
うす暗く、なまぬるい場所に、幾つも、幾つも、ゆわえられている──もし、そうだとしたら──、実母の胎にやどるよりもずっと以前、原始のいのちが、その魂が在る宮とは、まるで犬舎のような光景ではないか。
(あの、ほぞ のおびにいましめられ……)
◆
あどけなく眠る、そのかんばせを眺めている。
脆そうにほそい星あかりの他、この膚 の乳白を照らすものは、ない。
もやもやとした闇の中、弱い光はあらゆるものの輪郭を鈍らせる。この目に映るおさなげな面ざしは、曖昧な稜線でしかない。
──もっと見たい。
欲し、望んだのと同時、視界が一挙に明度を増した。そのぶん、色覚は粗雑になったが。
おのれの目玉は、いまきっと、ぼうっと暗い緑金色の反射を帯びた──、その変化を自覚する。
──けものの目玉だ。
見てくれは似たようでも、もう、ひとのそれではない……。
──音が、さとくなった鼓膜に刺さる。
窓の枠が軋れて、うるさい。
……ひそやかな夜であったのに。
◆
いつの頃だったか。
ある日。ふと、わか芽の木の葉や季節の花、それらの五色があまた映った池のみなもを覗き見た。
おのれの躰のすぐ真下。褐色の膚の、大柄な男児が、水の中からこちら側を見かえした。
──火焔のような春。
あざやかな世界が、すぐうしろにあった。
写し身も、樹花たちの原色を背負い水の下に立つ。
……水鏡に投影されたそのかんばせ。
その口もと。
──くちびるとくちびるを、上と下とで貼り合わせたかのような……。
その口角は硬く、気づいた時にはつねに下向き変わることなく垂れていた。
……噛み合わさって離れない、物憂い二枚の貝石みたく。
傷を樹液でがんじがらめに塗り固めた木皮のように。
『──うつお な児 だ。』
あの男 はそう言った。
言った父の口もとも、けれど、似たようなものだった──。
◆
ちいさな躰だ。
もっちりとしろい膚。
血の気を透かす乳白のいろ。闇夜に見れば、星のひかりがうす皮のうちへ染み渡ったようでもあろう……。
──それは、下がる。
おさな顔を縁取った、繭糸 のような星明かり。
膚の上になよなよ垂れるひかりの糸を、傾 いだ暗さが断ち切った。
……半身立のおのれの胴がうっそり落としたその影は、矮躯をぺろりと呑んでいる。
影法師は重さを持たない。
のしかかった分身に、このおさなさは気づきもしない。
──だんだんと近くなる。
ゆっくり、降りてゆく。ほそい肢体を覆った影と重なりそうに。
影のそれと変わらぬほどに嵩が張る。……けれど、影とは異なり肉をもつ。温度も、重量も。
矮躯のうえに凝った影と、ひとつところに融けあいそうに。血潮の熱い生身の巨躯が前のめる。
……すこやかに睡るおさな顔。
そのしろい頬にうっすら透けた、毛細の管の網目模様。
けもののそれでない、この眼で──、もし、視られたなら。いろは、青磁に浮かぶ、淡 あわとした釉薬に似るであろう。
そう、きっと、血潮のものとは思えぬような……。
──愈 として近くなる。
少女のそれとは対照的に色濃いだろうおのれのまぶた。
そのうす皮の蓋を瞑って、するりとひらいた。
眼窩の球があらわにされる。
ひやりとした夜気を、粘膜は、感じ取る。
まばたきのほんの一瞬あと。鮮明になった視界の、そのすぐ鼻先に、乳色の表皮があった。
……子どもの、ふにふにとした肉。
けものの視界には、たいそう美味そうに映る。
節くれた、茶褐色の指が──人間 の指だ──あたたかな乳白の頬をつつくのが、見える。
……次いで、それはすべすべと手触りの良いまぶたに浮いた球形をなぞる。
指は、おさなげな鼻すじに沿う。──その華奢な軟骨はあまりにほそく、繊細で、ちいさい。
──下へ下へと、降りる。
あたたかく湿されている少女の息が、厚皮のいびつに割れた指頭を濡らす……。
そうして、さいご、肌理 の荒れた茶の指は、いたいけな口もとを覆った。
せわしない吐息が、あどけない寝顔に掛かる。
寝苦しそうに少女が呻いた。
おのれの喉も、また、呻いた。
……唸りながら躰を離した。
口腔がひどく渇いていた。
この少女の口もとから出る湿こい吐息は、かわいた喉を潤すのにちょうど良い……。そのように思えて、ならなかった。
……かぶりを振って身を横たえた。
遠く、窓の外、どこかで野犬が鳴くのを聴いた。
まぼろしの声だ。
声は、長く長く尾を引いて、次第にほそく掻き消えた……。
乳色のほほに、ただ、頬を寄せる。
……妥協のように、ただ寄せた。
寝入った少女の体温は、夜気が冷やしたおのれの皮膚にたいそうぬくい……。
──こんなにもぬくい生きものだ。いまきっとこの膚は、乳色の下につややかな赤みを帯びているのだろう……。
色の乏しい視界を閉じて、ひとり、そう思った。
あどけない少女の、未発達な下あごの斜線に、おのれの持った鼻梁のかたちがぴったりくっつく。
──ごく、ちいさく。この鼻先はすり寄った。……あまえる犬のように。
乳臭が鼻腔をみたす。
こうするたび、もっと深いところも、ひと肌をした水によってみたされる……。
水──。そう、それはまるで、ぬるま湯のような水で……。
──そう。
みたされているのだ。
……それ以上をと望むのは、罪であるように思う。
── ……あぁ。
──でも……。
やわこいほほに接した額が、ずるりと真下へ落ちてゆく。頭部の位置は枕元から逸脱する。
──鼓動をよく聴くふりをして、そこに、耳を当てる。
横這う、頬ぼねへ──、ぺたりと、貧相きわまりないみずおち。
浮いたあばらは、ぽこぽこと硬く……、それでも、あんまりに、もろい気がする。
いつもいつも思うことだが、この娘はほんとうに──、こてんと転げた拍子にでも、ぽっきり壊れて死んでしまいそうだ。
煮豆やら、葉野菜なんかをしゃくしゃく食べるばっかりで……。肉でもなんでも、もっともっとたくさん食べて、大きく──、たとえ、もう骨がのびなくたって、太らなくてはならない。
──そうしてくれなくては、こまる。
地に根を張った丈夫なすがたでいて欲しい。
……花期のみじかい活けものみたく、気づいた時にはそこにない。そんなふうなのは……。
…………。
震えかかった吐息を吸って、額と鼻梁を矮躯の夜着に擦り付ける。
また、その細すぎるあばらを感じた。……あえかにあまい、未熟な乳臭も。
嗅覚は研ぎ澄まされる。
下がりつつあるかんばせに、毛布がゆるく被さった。……もぐり込み、進む。
くらやみのうち──、つるんと平らにまっすぐな、僅かのくびれも見つけ出せないその腹部。
夜着のうす布越し、しらはだの下──、ちんちくりんに相応の、ぺったり薄いあぶらの厚み。
鼻先でなぞり、額ですべってゆくのには、あまりにたやすい扁平さ。
──額をそこにすりあわせ、つよく、かたく、目をつむる。
ちいさくやわこい手のひらが、縋るような巨体の頭部にやさしく触れた。
──まだ、少女は、まどろんでいる。
いまだ夢の中にありながら、それでもこの身をほつし、慰撫する。
ほとんど、反射のように……。
── ……あぁ、
うなりにちかい嘆息は、歯肉のあいまへせり上がる。
……この喉からはすすり泣きに似通って。臍 もとのそば、ちいさくむせぶ──、悲哀のような悦の声。
犬のように丸まって、ちいさな肢体を抱き込んだ。
……或いは、おのれこそが抱 かれていたのだろう。
(あぁ………)
………情けない。
うめきは、己 がはらわたのうちで腐りもせずに吸い上げられる。……この、ちっぽけな少女の寝息に。
その肺臓へ。
薄っぺらな腑のうちへ。
……ちいさな、ちち色の掌中へ。
(……なんて、情けない)
……いつだってそうだ。
目に見えず、ほうっておいてじゅくじゅく膿んだ胸の奥の傷だって、見逃されずに舐め取られ、きれいにしてもらえる。
こらえにこらえて諦めのついた何もかもを、蒸し返すように与えてもらえる。
──この矮小な存在に。
ただ、ねだれば──、すべてを差し出してもらえる。
そう、まるで我が身は、乳呑み子のように……。
(……こんなざま を……)
……晒したくは、なかった。
声にならないつぶやきに、脳裡へ浮かんだ二者のかげ。
──とおく霞んだ、おさなさふたつ。
あの幼友たち……。
いつだって、よちよちちょろちょろ付いてきた。
おとうと、いもうとのように……。
ぴいぴい泣けばあやしてやって、笑えばいっしょにほほ笑んだ。
兄のようなかおをして、つねに見栄よく在りたかった。……あの、遠い日々。
(……情けない。なさけない……)
……あぁ過去よ。
そうやって、庇護のかたちを繕って──、だあれもいない、ひとりの頃からそこにある、胸 くうのうろを誤魔化した。……その、さびしさを。
あれらの雛をかまうすがたで、真実じぶんの虚無の、そのすき間を塞ぐに執心していた。
こころの芯部、そこにある裂け谷から流れ出た膿……、その臭気が、がらんどうなあばら の奥に澱んでいるのを見過ごすために。
それを、だれにも──おのれにも──、悟らせぬために。
ただ、ただ、揺るがぬ年強のもの──つよき、兄分で──在りたかった。
……いつまでも。
そう、きっと、いまでさえ……。
◆
──浅黒い膚の児 。
父譲りの鷲鼻。下顎。
……武臣の父。
図体ばかりは大きかったその子ども。
……そういうような、者が、いた。
──むかしのことは……。
さがしていた。
この手を、やさしく、握ってくれる。
そんなだれかを。
──もう、忘れた。
厚く、硬く、ひび割れた。
古木の樹皮のように。
◆
からだの、目では見られぬ深部。
その場所はえぐれ裂け。
捲れ上がり。
虫に食われてなお、ただひたすらに硬化した。……まさしく古木の肌だった。
深緑 色の針葉を付ける常盤 木、そのいびつに捻れた木肌のように内部を守り。同時に、そのなかみの脆い部分は、かたく隠された。
(……それなのに……!)
おのれの隠したそのすべてを見取り、看過せず、声高に弾劾したのは──、このこども だ。
腕中の矮躯。夜陰の内にほの光るような乳白の膚を睨 めつける。
あまくくるしいあおい花──。あの、ひつじぐさのかおりを纏い、潮 のようになにもかもを呑み込んだ、この小娘!
膿口をえぐり出し、ためらいもせずに舐め吸って……、生傷のいたみを、さぐり当てたのは。
真水で洗うくるしさに、逃れようと走る術すら塞いだのは。
このおさなさだ。
──このこども のせいなんだ。
すべてを、突き崩したのは。
遺忘の安らぎを掻き乱したのは。
わすれてしまったさびしさを。
──あの、あえかな乳汁のかおりを……。
(見ないでくれ……!)
在りし日のかげに乞い願う。
……見られたくない。こんなざまを。
だれにも。
だれにも見られたくない。
──ことりのように、こねこのように、無邪気にあとを追ってきた。
あのふたり。
あのちいささは、既にない。
幼獣は、いつかその身ですべてをおぼえ、庇護者の陰から去ってゆく。……なんの未練も残さずに。
相応のつがいを見つけ──、はじめから、たったのふたつであったかのように。
──置き去られたこの身のうちに、ただひとつだけ残された……、ふさぐものがなくなって、じくじく開いた壊疽の場所。
その、もっとも深いところから、それは溢れた。
──あの温度を欲していた。遠くうずまく原始の記憶、なまあたたかくこの身を湿した、あの、ひとはだの海……。
……ゆるく振ったこのかぶりさえも駄々子の意地に過ぎなかった。
丈の短い木綿を捲れば、やわこいままに乳白の膚が晒される。
ぽつんと、へその孔。
もっと、たくしあげれば……、扁平に、未熟なままの一対がある。
(なさけない……!)
満たすすべ を、ゆるされるすべ を知ってしまった。
骨に巣食った形を持たない渇望は、もはやただただ震いつき、ぶざまにくうくう鼻を鳴らす。
浅黒く、この図体を間抜けに縮こめ、こどもの白膚 に吸いついた。その、いたいけな腹部へと……。
(……なさけない………)
この下に、はいり込めない無垢がある。とおい夜空に、星の大河が飾ったみやが。
繋がれていたあのおび は、とうのむかしに外されて──、かえりつけないあの場所が。
(あぁ………)
──救 けてくれと。
そう、冀 うことを──、この娘は、わたしに唆した。
そうして。
あぁ……、
おのれは。
──布が覆った闇のうち。舐めるような接吻は、それでも祈りに近かった。
すでに目覚めたちいさな指は、けれどなんにも咎めずに。膚の上にすがりつく、みじめな巨体のつむりを撫ぜた。
膝を折って丸くなる、獣の寝相。
……ほとんど、胚のかたちを模したそれ。
ぬるまった乳臭は、胎水のようにこの身をくるんだ。胴輪
鼻梁:愛玩
腹部:回帰↓
去年の五月 キスの日にやろうとしてダメで 七夕(去年)にやろうとしてダメで 秋にやろうとしてダメで 春のチャカ誕にやろうとしてダメだったやつ。です…………(死んだ魚の目)
いまは 8月 です ね
はちがつ……。
………。
それでも言いたかった
これだけ伝えたかった
チャカさま、
生まれてきてくれて ありがとう……(ペディーグリーwithおリボンを出しながら)
◆
犬のハーネスのことを胴輪って言うらしいです。
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