窓枠の揺れる音がする。……上層は風が疾いのか、夜空に雲はない。
 しかしながら、月は、死んでいる。
……朔月だ。地表の暗さは曇天の夜とたいして変わらぬように思う。
──いま、何刻だろうか。
 この宵、欠落の黒に塗りこめられ、ぽっかり消えた月影からは時刻を計るすべがない。
 窓辺の布の、ほんのりめくれた透き目には、ただただくろく闇がある。
 時節柄、夕刻に降る驟雨しゅううのために、たたえられた夜半のいろみは塵も含まず澄んでいる。……それでなお、底も見えずにふかい。
 しっとり濡れた地表に冷やされ、硝子のように冴えざえとした黒曜の夜──とばりの布地のわれた目が、その色あいをほそ長く切り取っていた──、ひとひらの星空は、なめらかに研磨されている。
 そのもっとも上端へは、磨き抜かれた石盤にうつる艶みたく、あまの大河がすがたを見せる。
──うまれ、呼吸し、食べ、やすらう地表のすべてが、いつかは戻る。
 数えきれない星屑でなるその河は、女神のとっため牛のかたち──その下腹にひかり、おおきなる母胎を示す乳白のながれだ。

(……よるの、ははの、胎盤。)

 ふと、物思いにかられた。
 人智を超えた存在も──、そのはらは、ひとや、けもののそれとおんなじふうなのだろうか。
……その内部にふくらむ胞衣よなのなか、大地に歩く数多の生のもと・・──あらゆる魂はみな、臍帯さいたいのひもで繋がれているのだろうか──あの星屑が在りかを示す、夜空の、肉の容器に。
 うす暗く、なまぬるい場所に、幾つも、幾つも、ゆわえられている──もし、そうだとしたら──、実母の胎にやどるよりもずっと以前、原始のいのちが、その魂が在る宮とは、まるで犬舎のような光景ではないか。

(あの、ほぞ・・のおびにいましめられ……)



 あどけなく眠る、そのかんばせを眺めている。
 脆そうにほそい星あかりの他、このはだの乳白を照らすものは、ない。
 もやもやとした闇の中、弱い光はあらゆるものの輪郭を鈍らせる。この目に映るおさなげな面ざしは、曖昧な稜線でしかない。
──もっと見たい。
 欲し、望んだのと同時、視界が一挙に明度を増した。そのぶん、色覚は粗雑になったが。
 おのれの目玉は、いまきっと、ぼうっと暗い緑金色の反射を帯びた──、その変化を自覚する。
──けものの目玉だ。
 見てくれは似たようでも、もう、ひとのそれではない……。
──音が、さとくなった鼓膜に刺さる。
 窓の枠が軋れて、うるさい。
……ひそやかな夜であったのに。



 いつの頃だったか。
 ある日。ふと、わか芽の木の葉や季節の花、それらの五色があまた映った池のみなもを覗き見た。
 おのれの躰のすぐ真下。褐色の膚の、大柄な男児が、水の中からこちら側を見かえした。
──火焔のような春。
 あざやかな世界が、すぐうしろにあった。
 写し身も、樹花たちの原色を背負い水の下に立つ。
……水鏡に投影されたそのかんばせ。
 その口もと。
──くちびるとくちびるを、上と下とで貼り合わせたかのような……。
 その口角は硬く、気づいた時にはつねに下向き変わることなく垂れていた。
……噛み合わさって離れない、物憂い二枚の貝石みたく。
 傷を樹液でがんじがらめに塗り固めた木皮のように。

『──うつお・・・だ。』

 あのひとはそう言った。
 言った父の口もとも、けれど、似たようなものだった──。



 ちいさな躰だ。
 もっちりとしろい膚。
 血の気を透かす乳白のいろ。闇夜に見れば、星のひかりがうす皮のうちへ染み渡ったようでもあろう……。
──それは、下がる。
 おさな顔を縁取った、繭糸けんしのような星明かり。
 膚の上になよなよ垂れるひかりの糸を、かしいだ暗さが断ち切った。
……半身立のおのれの胴がうっそり落としたその影は、矮躯をぺろりと呑んでいる。
 影法師は重さを持たない。
 のしかかった分身に、このおさなさは気づきもしない。
──だんだんと近くなる。
 ゆっくり、降りてゆく。ほそい肢体を覆った影と重なりそうに。
 影のそれと変わらぬほどに嵩が張る。……けれど、影とは異なり肉をもつ。温度も、重量も。
 矮躯のうえに凝った影と、ひとつところに融けあいそうに。血潮の熱い生身の巨躯が前のめる。
……すこやかに睡るおさな顔。
 そのしろい頬にうっすら透けた、毛細の管の網目模様。
 けもののそれでない、この眼で──、もし、視られたなら。いろは、青磁に浮かぶ、あわあわとした釉薬に似るであろう。
 そう、きっと、血潮のものとは思えぬような……。
──いよよとして近くなる。
 少女のそれとは対照的に色濃いだろうおのれのまぶた。
 そのうす皮の蓋を瞑って、するりとひらいた。
 眼窩の球があらわにされる。
 ひやりとした夜気を、粘膜は、感じ取る。
 まばたきのほんの一瞬あと。鮮明になった視界の、そのすぐ鼻先に、乳色の表皮があった。
……子どもの、ふにふにとした肉。
 けものの視界には、たいそう美味そうに映る。
 節くれた、茶褐色の指が──人間ひとの指だ──あたたかな乳白の頬をつつくのが、見える。
……次いで、それはすべすべと手触りの良いまぶたに浮いた球形をなぞる。
 指は、おさなげな鼻すじに沿う。──その華奢な軟骨はあまりにほそく、繊細で、ちいさい。
──下へ下へと、降りる。
 あたたかく湿されている少女の息が、厚皮のいびつに割れた指頭を濡らす……。
 そうして、さいご、肌理きめの荒れた茶の指は、いたいけな口もとを覆った。
 せわしない吐息が、あどけない寝顔に掛かる。
 寝苦しそうに少女が呻いた。
 おのれの喉も、また、呻いた。
……唸りながら躰を離した。

 口腔がひどく渇いていた。
 この少女の口もとから出る湿こい吐息は、かわいた喉を潤すのにちょうど良い……。そのように思えて、ならなかった。
……かぶりを振って身を横たえた。
 遠く、窓の外、どこかで野犬が鳴くのを聴いた。
 まぼろしの声だ。
 声は、長く長く尾を引いて、次第にほそく掻き消えた……。

 乳色のほほに、ただ、頬を寄せる。
……妥協のように、ただ寄せた。
 寝入った少女の体温は、夜気が冷やしたおのれの皮膚にたいそうぬくい……。
──こんなにもぬくい生きものだ。いまきっとこの膚は、乳色の下につややかな赤みを帯びているのだろう……。
 色の乏しい視界を閉じて、ひとり、そう思った。
 あどけない少女の、未発達な下あごの斜線に、おのれの持った鼻梁のかたちがぴったりくっつく。
──ごく、ちいさく。この鼻先はすり寄った。……あまえる犬のように。
 乳臭が鼻腔をみたす。
 こうするたび、もっと深いところも、ひと肌をした水によってみたされる……。
 水──。そう、それはまるで、ぬるま湯のような水で……。
──そう。
 みたされているのだ。
……それ以上をと望むのは、罪であるように思う。

── ……あぁ。
──でも……。

 やわこいほほに接した額が、ずるりと真下へ落ちてゆく。頭部の位置は枕元から逸脱する。
──鼓動をよく聴くふりをして、そこに、耳を当てる。
 横這う、頬ぼねへ──、ぺたりと、貧相きわまりないみずおち。
 浮いたあばらは、ぽこぽこと硬く……、それでも、あんまりに、もろい気がする。
 いつもいつも思うことだが、この娘はほんとうに──、こてんと転げた拍子にでも、ぽっきり壊れて死んでしまいそうだ。
 煮豆やら、葉野菜なんかをしゃくしゃく食べるばっかりで……。肉でもなんでも、もっともっとたくさん食べて、大きく──、たとえ、もう骨がのびなくたって、太らなくてはならない。
──そうしてくれなくては、こまる。
 地に根を張った丈夫なすがたでいて欲しい。
……花期のみじかい活けものみたく、気づいた時にはそこにない。そんなふうなのは……。
…………。
 震えかかった吐息を吸って、額と鼻梁を矮躯の夜着に擦り付ける。
 また、その細すぎるあばらを感じた。……あえかにあまい、未熟な乳臭も。
 嗅覚は研ぎ澄まされる。
 下がりつつあるかんばせに、毛布がゆるく被さった。……もぐり込み、進む。
 くらやみのうち──、つるんと平らにまっすぐな、僅かのくびれも見つけ出せないその腹部。
 夜着のうす布越し、しらはだの下──、ちんちくりんに相応の、ぺったり薄いあぶらの厚み。
 鼻先でなぞり、額ですべってゆくのには、あまりにたやすい扁平さ。
──額をそこにすりあわせ、つよく、かたく、目をつむる。
 ちいさくやわこい手のひらが、縋るような巨体の頭部にやさしく触れた。
──まだ、少女は、まどろんでいる。
 いまだ夢の中にありながら、それでもこの身をほつし、慰撫する。
 ほとんど、反射のように……。

── ……あぁ、

 うなりにちかい嘆息は、歯肉のあいまへせり上がる。
……この喉からはすすり泣きに似通って。ほぞもとのそば、ちいさくむせぶ──、悲哀のような悦の声。
 犬のように丸まって、ちいさな肢体を抱き込んだ。
……或いは、おのれこそがいだかれていたのだろう。

(あぁ………)

………情けない。
 うめきは、おのがはらわたのうちで腐りもせずに吸い上げられる。……この、ちっぽけな少女の寝息に。
 その肺臓へ。
 薄っぺらな腑のうちへ。
……ちいさな、ちち色の掌中へ。

(……なんて、情けない)

……いつだってそうだ。
 目に見えず、ほうっておいてじゅくじゅく膿んだ胸の奥の傷だって、見逃されずに舐め取られ、きれいにしてもらえる。
 こらえにこらえて諦めのついた何もかもを、蒸し返すように与えてもらえる。
──この矮小な存在に。
 ただ、ねだれば──、すべてを差し出してもらえる。
 そう、まるで我が身は、乳呑み子のように……。

(……こんなざま・・を……)

……晒したくは、なかった。
 声にならないつぶやきに、脳裡へ浮かんだ二者のかげ。
──とおく霞んだ、おさなさふたつ。
 あの幼友たち……。
 いつだって、よちよちちょろちょろ付いてきた。
 おとうと、いもうとのように……。
 ぴいぴい泣けばあやしてやって、笑えばいっしょにほほ笑んだ。
 兄のようなかおをして、つねに見栄よく在りたかった。……あの、遠い日々。

(……情けない。なさけない……)

……あぁ過去よ。
 そうやって、庇護のかたちを繕って──、だあれもいない、ひとりの頃からそこにある、きょうくうのうろを誤魔化した。……その、さびしさを。
 あれらの雛をかまうすがたで、真実じぶんの虚無の、そのすき間を塞ぐに執心していた。
 こころの芯部、そこにある裂け谷から流れ出た膿……、その臭気が、がらんどうなあばら・・・の奥に澱んでいるのを見過ごすために。
 それを、だれにも──おのれにも──、悟らせぬために。
 ただ、ただ、揺るがぬ年強のもの──つよき、兄分で──在りたかった。
……いつまでも。
 そう、きっと、いまでさえ……。



──浅黒い膚の
 父譲りの鷲鼻。下顎。
 ……武臣の父。
 図体ばかりは大きかったその子ども。
 ……そういうような、者が、いた。
──むかしのことは……。
 さがしていた。
 この手を、やさしく、握ってくれる。
 そんなだれかを。
──もう、忘れた。

 厚く、硬く、ひび割れた。
 古木の樹皮のように。



 からだの、目では見られぬ深部。
 その場所はえぐれ裂け。
 捲れ上がり。
 虫に食われてなお、ただひたすらに硬化した。……まさしく古木の肌だった。
 深緑しんりょく色の針葉を付ける常盤ときわ木、そのいびつに捻れた木肌のように内部を守り。同時に、そのなかみの脆い部分は、かたく隠された。

(……それなのに……!)

 おのれの隠したそのすべてを見取り、看過せず、声高に弾劾したのは──、このこども・・・だ。
 腕中の矮躯。夜陰の内にほの光るような乳白の膚をめつける。
 あまくくるしいあおい花──。あの、ひつじぐさのかおりを纏い、うしおのようになにもかもを呑み込んだ、この小娘!
 膿口をえぐり出し、ためらいもせずに舐め吸って……、生傷のいたみを、さぐり当てたのは。
 真水で洗うくるしさに、逃れようと走る術すら塞いだのは。
 このおさなさだ。
──このこども・・・のせいなんだ。
 すべてを、突き崩したのは。
 遺忘の安らぎを掻き乱したのは。
 わすれてしまったさびしさを。
──あの、あえかな乳汁のかおりを……。

(見ないでくれ……!)

 在りし日のかげに乞い願う。
……見られたくない。こんなざまを。
 だれにも。
 だれにも見られたくない。
──ことりのように、こねこのように、無邪気にあとを追ってきた。
 あのふたり。
 あのちいささは、既にない。
 幼獣は、いつかその身ですべてをおぼえ、庇護者の陰から去ってゆく。……なんの未練も残さずに。
 相応のつがいを見つけ──、はじめから、たったのふたつであったかのように。
──置き去られたこの身のうちに、ただひとつだけ残された……、ふさぐものがなくなって、じくじく開いた壊疽の場所。
 その、もっとも深いところから、それは溢れた。

──あの温度を欲していた。遠くうずまく原始の記憶、なまあたたかくこの身を湿した、あの、ひとはだの海……。

……ゆるく振ったこのかぶりさえも駄々子の意地に過ぎなかった。
 丈の短い木綿を捲れば、やわこいままに乳白の膚が晒される。
 ぽつんと、へその孔。
 もっと、たくしあげれば……、扁平に、未熟なままの一対がある。

(なさけない……!)

 満たすすべ・・を、ゆるされるすべ・・を知ってしまった。
 骨に巣食った形を持たない渇望は、もはやただただ震いつき、ぶざまにくうくう鼻を鳴らす。
 浅黒く、この図体を間抜けに縮こめ、こどもの白膚ひふに吸いついた。その、いたいけな腹部へと……。

(……なさけない………)

 この下に、はいり込めない無垢がある。とおい夜空に、星の大河が飾ったみやが。
 繋がれていたあのおび・・は、とうのむかしに外されて──、かえりつけないあの場所が。

(あぁ………)

──たすけてくれと。
 そう、こいねがうことを──、この娘は、わたしに唆した。
 そうして。
 あぁ……、
 おのれは。

──布が覆った闇のうち。舐めるような接吻は、それでも祈りに近かった。

 すでに目覚めたちいさな指は、けれどなんにも咎めずに。膚の上にすがりつく、みじめな巨体のつむりを撫ぜた。
 膝を折って丸くなる、獣の寝相。
……ほとんど、胚のかたちを模したそれ。
 ぬるまった乳臭は、胎水のようにこの身をくるんだ。



鼻梁:愛玩
腹部:回帰










去年の五月 キスの日にやろうとしてダメで 七夕(去年)にやろうとしてダメで 秋にやろうとしてダメで 春のチャカ誕にやろうとしてダメだったやつ。です…………(死んだ魚の目)

いまは 8月 です ね
はちがつ……。
………。
それでも言いたかった
これだけ伝えたかった
チャカさま、
生まれてきてくれて ありがとう……(ペディーグリーwithおリボンを出しながら)



犬のハーネスのことを胴輪って言うらしいです。

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