胴輪

──きしんと、ちいさく軋みの音がした。
 うっすらとまぶたを開く。……月のない夜だった。
 暗やみが、墨液じみた濃淡を漂わせていた。
 屋内にはびこる・・・・夜陰の暗さにとろりとたゆたう色あいは、ところどころに粒子のような、翳りに近いひかりをまじえる。
 墨をうすめる真水のように夜闇のうちに混ざるのは、天からようやく地にまで届いた星あかりの残滓だろう。
 窓辺の布地のすき間から、かたちも留めずふるえるように微かな光線。それはほとんど、きぬむしの吐いた繭糸けんしとおなじ繊弱さ。
──まよい子のようなひかりだ。
 夜空の母神のむなもとと、わかれわかれに剥がれ、降ってきた……。
 とばりの引かれた玻璃はりのさき、銀にくすんだ星あかりはほそぼそと脆弱だ。

──静けさのうち、また、きしんと小幅に音ゆれ。
 厚く貼られた綿の下、組まれた木骨が鳴るそれは、ほとんどささめきのような。耳介に届く空気の震えはひっそりとつつましい。
……音は、ささやかながらも、きしきしと止まずに続く。懸命で、せわしない。
 真夜中、餌を探して梁をあるく矮小ないきものの、かそけきつま音に似ていた。
 ほそい視界をとどめたまま、そろりと目玉を横ずらす。
 ほんの、すぐ脇のあたりへ──、ずり落ちてゆく影を見つけた。
……もぞもぞとうごくのは、ちっぽけにまるこい輪郭。
 しかしながら鼠と言うにはあまりに大きい。
 きしきしつづく弱音じゃくおんは、高い台へと必死に登るその矮躯へ連なった。

──あぁ、踏台、片付けてしまったのだった──、まどろみながらひとりで思う。
 悪いことをしたなあと……。



 このたいそう寸足らずな新妻と過ごすいまの日々には、少々滑稽な問題が生じている。
……いや、当人にしてみれば、じゅうぶん深刻な問題だろうが──、つまるところ、こまい小人が巨人の家で暮らしているのに近いのだ。
 小人にとっては巨人の家もそこの調度も、何もかもが不必要に大きい。
 ゆえに小人は、足台なしには何をするにも始まらない。……たとえば、寝床の上に這いあがることさえも。
 しかしながら、あの台が寝所にあると寝ぼけまなこで蹴つまずくし、たいへん危ない。
 さっきもこちらは気がつかないままじぶんの足をがつんと引っ掛け、ひっくり返りそうになって、この脛にはまた痣が──……。
 割合と、いたかった。

 きしんと、また寝台の木組みが鳴った。
……ややあって、ぶじ、牀榻しょうとうの上へ登頂できた短身は、すこし疲弊しふすんふすんと鼻がかった息を吐く。
 耳を寄せれば、ことことと落ち着きのない心音が聴こえるのだろう。
 ちいさな指がくいくい毛布をひっぱるさま。さながら、巣材をならしていそいそと寝支度に入るけいのたぐいだ。

(……きょうは、ずいぶん……)

 長かった、と……。
 こころうちでひとりごち、すんと大気を吸ってみる。
 鼻腔のうちにひやりと残った青っぽさ。
 若草の香りだ。いまだ薄くやわらかく、爪の先がこすれただけでも裂けてしまうような。
 この少女の、ちんまりとしたくびすが踏んだ庭草の汁がもとだろう。
……つい先ほど、このちいささがもぞもぞ起き出し、離れの手水へさむいさむいと歩いてゆくのを聴いていた。
 あんまりどうかとも思うが、この矮躯が戻ってくるまで、微睡みながらも気をそば立てて待っていたのだ。外の気配をさぐりつつ……。
 当人の身にしてみれば、余計な──ともすれば嫌悪的でさえある──ことだったかもしれない。
 けれど、夜の深さは人のまなこにうんと暗いし。
 このちいさく脆いからだで蹴躓いたり、転げたりしないかが気掛かりだったから。
 からだはうんと小さくとも、もう年頃の娘だ。
 ついて行こうかなどと言ったら、ふざけるなときいきい叱られただろうし……。

「……チャカさま」

 耳元へ、ほわほわぬくい気体が触れる。
 確認のような呼びかけは、ほとんど無声にちかい音。
 いささかの気後れに、そら寝のていを解きかねた。
 知らぬ振りで寝息を出せば、ぬくい温度がもぞもぞ近寄る。
 ばれたろうかと、眉間と鼻梁に小皺が寄りかけ──、しかし、そこに咎めは降りてこない。
 どうしたものかと案じた刹那に、あたたかさが面皮にかかる。
 ああ成る程と思うあいだに、鼻梁のあたりへ、ほこほことした湿っこさがくっついた。
……触れてきた口のうすさは、張り出た鼻骨にやわらかい。
 ぺとっと、離れる。
──欺瞞を知らない未熟さは、似非えせに騙られやすいのか。
 そら寝の真偽をいっこう知らず、少女はぺとぺといそがしい。
 いっかい、にかい、さんかい……。いったん離れて、もういっかい。
 自身のちいさなつぼ口と、ひとの鼻とで上手にあわせてあそんでみるのが好きらしい。
 終いには、ぺろっとちいさく舐められた。
──うさぎのようだ。あまえてぷうと鳴き走り、毛づくろいにぺろぺろすり寄る仔うさぎ……。

「おやすみなさい」

 あどけない声色は、ひとりっきりでえへえへ照れる。
 耳介に掛かるやわやわとした吐息のぬくさ。そのこそばゆさに耐えながら、
──なぜ、鼻だったのか。
 ひとりきり、脳裡でぽそりとつぶやいた。
 腹のどこかにひそんだ声は、
──口もとでも良かった。
 そう、贅沢を抜かす。……どこか憮然とも、している。
──恥ずかしかったのか。
 詐術の真似をあきらめて、そう尋ねてみても良かった。……気が咎め、やめにしたが。
 こんなに小さないきもののことをいじめてやるのは、可哀想だ……。



 しとった冷気が匂う。
 それは、この少女が身にまとい、庭から寝屋へと持ち帰った草の香りとまざりあう。
 ただよう夜気を、またすんとひとつ吸ってみた。──そのつめたさを、嗅ぎ分けてゆく。
 肺臓には夜の庭が充たされた。
 ひんやり濡れた外気の混沌。
 そこには、土弄りの道具が錆びた鉄臭やら。
 降雨の季にだけ青あおとそぼつ苔の清げな匂いやら。
 時期が終わって萎びながらも幾らか残った花香のもとやら。
 鉢にやろうと少女が購い、庭の隅に積まれたままの肥やしが発する障りについては、正直なところ急いでどうにかして欲しい。
──それら全てとまざりあい、晩春の土の臭がある。
 散った花弁が色を失い徐々に朽ち、とろけ、粘こい土に変質してゆく……。この物寂しい腐臭は、いまの時期、道でも歩けばそこかしこに漂っていた。
──さびしい季節だ。
 花卉かきにしろ花樹にしろ、金糸入りの絨毯カーリみたくなその原色はすっかり咲ききり散り落ちた。けれど若葉は、未だ伸びきらない。
 はなびらの腐れてゆく臭いばかりが鼻につく。
……さびしい季節だ。
 むなしいとさえ、思う。
……呼気を長く長く吐き、肺臓に溜まった澱みを追い出した。
 けれど、吐き出したなら、必然として吸わねばならない。
 夜のまつろう清冽さと澱みとを、また、鼻腔へ通した。
 ふたたび、夜の庭があばらの内部で積を増す。
 ひとより敏い嗅覚は、意思の有無に関わりもなくそれら全てを選り分ける。
──わか草の汁。錆。夜つゆ。苔。花香の名残りと肥。そうして、葩びらの生み出す腐土……。
 そのほかには……。
──あとはただただ、やわこいような風あいに、おさなさの体臭がのこる。
 なまあたたかくぬくまった、ひと肌にちかい乳の臭。それとよく似たかおりをそなえる発汗は、乾いてなおもあえかにあまく鼻梁へ届く……。

──えいっえいっと、不意に声がした。
 薄眼で見やったその先、寝支度が整ったらしい少女は、毛布を引っぱりこの身の横へもぞもぞと潜り込む。
 寝台のうんと上端へ、尻たぶをってずりずり移動し、顔の位置をこちらと合わせる。
──その足元、寝具の上に余った積へはこの矮躯がもうひとり、ぐうと伸びて寝られるほどだ。
 それから、ふにふにとした手のひらは、まくらをいそいそ積み上げて……、つむりの高さをこちらに合わせた。
 また、ちょんと触れたつぼ口は、変わらずに鼻の先。

(……また。)

 人より張って目立つからか。
 立ち姿からそのまま屈めば、この鼻梁のもった高さのぶんだけ鼻先が下向いて、顔に付いたどの部位よりも矮躯の背たけに近づくからか。
……少女のくれる接触は、たいていそこからはじまる。いつも、

「……鼻ばかりだな」

 言ったところで手遅れか、とは、わかっていた。
 案の定、返り来るのはただただぷうぷう寝息のみ。
──相変わらず、眠りのはやい娘だ。
 時おり、そのおとがいがぷかっと開く。
 塞げば呼吸を妨げる気がして、すべすべとしたうす皮が覆うその箇所を吸ってみるのは、ためらわれた。
 手持ち無沙汰のまま、ぷくぷくやわこいほほ肉へ、ふにりと指を這わせ。額の髪をさらさらのけて、自身の口を近づけて。
 けれど、なんとなく。……触らなかった。



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