こいしさ
数日、国を空けることになった。
近隣数国の要人たちとの会合が、近海の船上にて開催される。当然ながら、邦国国主もそれに出席する流れだ。己はそれの追従として、しばらく陸 から離れる用が出来た。
「……それで、なんでそんな格好なんだ」
「あちらの国の催しだから。……合わせないとならんらしい」
今回、こちらは呼ばれた客分の身であるから……身に纏う礼服も、他国の習いに従うようにと。そういう訳で、給仕長が新しく服を誂えてくれた。
……いわゆる、洋装である。
「そんなに布が少なくて……ほんとうに礼装なのか?」
「……らしい」
常の一枚布で成る巻衣と違って、この装いは上と下とが分かれていた。おまけに、脚部の布は皮膚をぴっちり覆うような二股だ。ゆえに布地の量は少なく、その軽さは心許ない気がした。
下半に回る革帯、それから縫い込みの金具。上着と切り離されているから、腰から布がずり落ちないよう留めるためのものらしい。
……履き慣れないものだから、どうにも窮屈に感じた。
特に腰回りなんか、締め付けられて落ち着かない。どうして緩い布帯ではいけないのか。やたらと併せが硬くて重い金具も、なんだか大仰すぎる気がした。
「……へんちくりんだな」
また、訝しげな声。それは頭上の階段から。
落ち着かなく留め具を触る手を止めて、上を仰ぐ。手摺の向こう、ひょっこり覗くは女の顔。
……その身に纏う装束は、普段の巻衣。今回、この同居人は国許にて留守番であった。
「そう言うな。……せっかくの誂えものなんだから」
……とは、宣 うものの。馴染みのない質感は、どうにもしっくりこなかった。
……ひとつ、嘆息し。
それよりと、上の女へ口を開く。
「……おれが居ないあいだ、ちゃんとひとりで飯を食えるか…?困ったことがあったら、テラコッタさんへ直ぐに言え。それから、火の扱いには……」
「ひとりで平気だ。……子供じゃあるまいに…」
不機嫌そうな声色。もう結構と小生意気な返答。ろくに聞いてやいないくせに。
ああ心配だとまた長息 した。
……そうすれば、板の軋れが降りてくる。
振り向く先、相手は顔を顰めつつ……けれど、その目に隠し得ない好奇の色を浮かべていた。
邸より持ち出す荷の幾らか。それらを纏めるこちらの背後、段からそろりそろりと下がってきて……目を細めつ首を傾げる。そのまま、同じくそろそろと寄ってきた。
まるで、人見知りの猫のような……
じりじりとやってくると、人の身体を無遠慮に眺め始める。
普段は下腹に境界のない巻布だから、珍しいのは分かるが……やたらと脚やら股間の辺りを見てくる。なんとはしたない女だろうか。しっしと手で追い払った。
「……へんなにおいがする…」
一度はささっと離れたが、また遠巻きに近寄ってくる。その面持ちは、相も変わらず不機嫌そうに。けれど、まなざしだけは物珍しげなふうに。不躾な物言いと同時、すんすんと鼻を鳴らした。
……やっぱり、猫のような。
香水だと答えれば、途端に顔を顰める。うへえと餓鬼のような声。年甲斐もなく鼻を摘まんで大騒ぎする。
「くさい」
「うるさい」
「おまえにぜんぜん合ってない」
「……しょうがないだろう」
確かに指摘の通り、どうにも奇妙な調合の香りではある。任の合間に携帯すべしと手渡された瓶も、へんに斬新なふうの形状だった。
洋装の生地では、いつものように香材を焚くこともできないからと……第一、香りは衣に合わせるべしとは装身係の言である。
断れもせず、言われるままに丸め込まれ……そも、あの給仕長に口答えできる者などいないが……そういう訳で、なす術もなく更衣部屋にて噴霧器掃射を食らった直後であった。
「こっち来るな、頭が痛くなりそうだ」
やたらとでかいこの猫は、そう生意気に鼻を鳴らす。
においの大元は己自身であるから、その気持ちも分からんではないが……もっと言い方というものがあるだろうと思う。
まして、こんな時に………
……幾分むっとして、わざと相手に近寄ってみる。途端、女はするりと後退した。
それにまた、じわりとにじり寄ってみる。
来るな来るなと嫌がる背中を、なお追い掛けてやった。
「……なんだよ、ついてくるな!」
「なんだも何も……」
するする逃げる後ろ襟を、とうとうがちりと捕まえた。
暴れる背中を抱き込んで、そのままうりうり頬を擦りつける。
……わざわざ、香りが移るように。ちょっとした腹癒せだ。
「あっちいけ!くさい…!」
「良いじゃないか、もう少しだけ……」
「気色の悪い…!」
その口より生じる言は普段と同様、つれなく尖って愛想の欠片もない。
これからの数日、互いの声すら交わせないというのに……
……相変わらずだと嘆息する。
もっと惜しんで欲しいと言ったところで、鼻であしらわれるのが目に見えていた。
「おまえ、さびしくないのか…?」
それでも、わびしさには抗えず……この大柄な女体へ、女々しい限りに縋り付いてみる。
「しばらくはよく眠れそうだ。じつに清々しい」
……あんまりな言い草である。
「薄情な女め……」
渋い顔になりつつ、小癪なまでの頬を挟む。あおく、血色の悪いそれ。
引き寄せれば、またくさいくさいと暴れた。
……構わず、くちびるを押し当てる。幾度も、その薄いやわこさを吸う。
相手はしばらくじたばたとして。
……けれど、やがては大人しくなる。
そうして、不承不承とばかりに目を閉じた。しょうがないとでも言いたげな顔で。
……そのくせ、あえかにあまい息を吐く。
天邪鬼は、いつものことだった。
****熟柿 の如きに淀んだ大気。
布地に染み付く煙脂 の臭気は、烟 って辺りを覆い尽くした。
かつて、澄んだ氷と玻璃杯へ入っていたであろう酒精。けれど、それらは人身に収まった途端……生ぬるく気化して宙を漂う。
この海域の気候に於いて、時節は冬の頃。だと言うのに……だだっ広い空間は、熱気とも似て不快なふうで。犇 めく人の体温を吸い、気塊は緩慢に巡る。
どんなに換空が為されようと、そこかしこへ溜まった淀みは消しようもなく。すべては気怠く混ざりあい、ますますと瘴気 じみて覆い被さってきた。
──その合間。
この口の、うんざり長息しそうになったのを……辛うじて堪える。人目を憚ってのことだ。
主へ従う任のうち。先ず日中は、格式張って謹厳とした要談が延々と。
……集いの由 はそのゆえであるから。それのみならば、追随するになんの障りもない。
……ない筈なのだが。
身じろぎした皮膚の外側。脚部へ纏わりつく布は、あまりに窮屈で。ごわごわと不愉快に感じられた。
ここ数日、この誂えものの扱いには……心底苛々させられている。
肢体の動作は布量の狭苦しさに制限され、腰元の締め付けは息苦しいまで。脱ぎ着は愚か、厠に立つ時さえも……煩雑な留め具やら、金具やらが上手く外せず面倒だった。
ようやく慣れたは慣れてきたが……それでも、違和感は拭えない。
……もう、慣れた巻衣を纏えず幾日を強いられているのか。
……頭の中、指折り日にちを数えてみる。
大した数ではないというのに……また、嘆息しそうになったのを慌てて止めた。
要の談義に区切りがつけば、そのあとは延々と歓談がある。その実、名ばかりの腹の探り合い。心の休まる暇はなく、漂う暖気は重粘り……纏わりつく。夜会には、酒と煙草と人温との臭味。不慣れな装束の憂 さ。
それらの不快で満ち、淀んだ宴場にて……外の空気も自由に吸えず、主の側へ張り付く毎日。
……それが連日ともなれば、流石に嫌気が差す。
だが、今宵でようやく終いだ。
ちいさく、首を鳴らし……猫背になりかかった筋を伸ばす。
……そのまま、徒然と見遣った先へは……造り物じみた小綺麗さ。
つやつやと光る小料理たち。……せっかくの心尽しは、けれど飾りも同然だった。
湯気を立てるなにかの乳煮や、赤黄緑で彩られた蔬菜 の森。巨大な鶏の丸焼きに、塊肉の赤みが強い薄炙りやら。色硝子めいて飾り切られた果実。山と盛られた砂糖模様の焼き小麦。愛らしい大きさは、陶器の如きになめらかな……白や薄茶でその身を包む、洋菓子片の隊列に至るまで……すべてが。
華やかしの為ばかりに装われた、むなしい背景でしかない。
この場へ参じるその大数は異国籍の貴人たち。それらはみな……立ち話のはらわた覗きに忙しい。付き合い程度に酒を舐め、つまみを齧るばかりである。
当然、それら雅びやかな御人方の合間へは……皿を平らげ走る下々などいない。
ゆえこそのお飾り。どんなに見目よく盛られていても、行き着く先は棄却の炉。
………勿体無いと、大息が出るのは……所詮臣民の貧乏性ゆえか。
だれかが聞けば、こっちにくれよと如何にも悔しがりそうだ。
あのむっつり面のまま、地団駄でも踏みそうな……
……ふと。
あの、不機嫌な猫面を想った。
今はとおい本国の上、留守居を守るあの女性 を。
幼き王女の側ででれでれとする他は、ただただ食うことだけが楽しみのような女である。もし、このお役があれに回っていたら。……並んだ馳走の数々に……あの仏頂面を必死で保ちつつ、目だけはぱっと輝かせたに違いない。職務の間はまったく興味のないふりをしながら、僅かな交代時間にこっそりこそこそ摘まんで食い散らすのだろう。つくづくがめつい女である。
……とは言え、こんな務めの様相であるから。あれにしてみれば、食うにも食えずに生殺しのようなものか。むしろ幸いと言うべきだったかも知れない。
………いま。
どうしているのか。
私事を挟めぬ職務の合間。あの低女声を、もうしばらく聴いていない。
今頃……国許でひとり、ちゃんとやれているのか。ひとりきり、なにか不便は起こっていないか。
……考え始めれば、きりがない。
腹を空かせていないだろうかとか。まさか、うっかり竃を燃やしたりはしていないよなとか。あのろくでもない不精はまた皺だらけの服を着ているに違いないとか。きっと、帰ったら散らかし放題の床を片付ける羽目になるのだろうなあとか。
たったひとり。
寂しがってはいまいか、と………
都合の良いこの脳裏。物想いの描くなかへは、部屋をぐるぐると歩き回る猫の画。
不満と不安が入り混じり、その顔はますます不機嫌に。落ち着かなく長椅子に乗ってみたり、降りてみたり。帰りはまだ先と知りつつ、とてとてと玄関へ行って耳を澄ます。消沈したように寝室へ戻って、ひとりごろごろ布団を転がる……あの、猫のような女。
………とは言え、全ては願望に沿った空想だ。
現実の奴はきっと、邪魔者のいない寝台ですやすや呑気に眠っているのだろう。朝昼夕を食堂でおいしく食べ、平時の職務に絞られつつ、心癒みに王女と戯れ……己の居らぬ自由を謳歌しているに違いない。
想像しただけで腹立たしいような、もの悲しいような………
……知らず。
ひそりと、嘆息していた。
はっとして口を噤めば、果たして周囲に客人はいない。
会場の壁際、そのほとんど目立たないような一角。脇の主は小休止がてら、立ち身に酒杯を舐めていた。同じ護衛の片割れは、交代で席を外している。
……すこし、放心が過ぎたか。
「……寂しいか?」
ひとり、自戒に身を締めれば。横からくつりと笑い声。
見遣った先、王の召物はこちらと同じ趣きだ。我々の装束は、かの人のそれに倣った形となる。
……布から視線を外し、その顔色を伺えば。くいと上がったえくぼの口角。童の如きに純真なふうの笑み。
……油断ならない笑い方だ。
いつも、この御人がろくでもない遊びをお閃きになる折の……
「………いえ…」
「そう、強がることもないだろうが」
にひひと。主はまた、得体も知れずに笑う。
……あまつさえ。退屈だなあと、聞こえよがしに呟いてくる。
「国王……」
咎めを含めて視線を遣れば、躱すようにへらへらと。そっと辺りを見渡す限り、幸い他国の耳はない。
「そのようなことを……」
もし、誰かに聞かれたら。
小言に開いたこの口は、けれど終いを吐かなかった。
「かわいい猫のいない夜 は………
さぞかし、せ つ な か ろ う て」
ひゅうと鳴った喉笛に、言葉は何処かへ消えてゆく。
ちらりとこちらを盗み見て、主はまたにんまり笑んだ。
「一人寝は寂しいよなあ……」
「……!」
「やもめじゃ布団はつめたいし……」
「………」
「比べれば、羽毛の枕もちっともやわこくないんだもの」
「……お戯れを…」
常時でさえ、火急の案がなければ政務をうっちゃり愛娘を追い掛けるような御人である。官吏や臣下の阿鼻叫喚もなんのその、好き放題の脱走騒ぎは日常茶飯事だった。
……ゆえに、数日に渡るこの会合……国交の絡みもされど、船上であるから逃げ場もないこれは……この主にとって、余程退屈だったらしい。
それこそ、若い臣下を与太話などで揶揄う程度には……
要するに、自分はちょうど良い暇つぶしの贄なのだった。
それを、分かっていながら………
……瞬刻、頭を過った光景。
あの、あえかな恋人の吐息………
否応なく、顔へ昇った血色は……修行が足らぬということか。
意思の弱さはそのまま口へ。はああと嘆息すれば……胸の内、会いたいなあと虫が騒ぐ。
「私もビビちゃんに会いたい…」
「……どうか、ご辛抱を。あと少しだけなんですから…」
「そうだなあ……お前も、あとすこしの我慢だもんなあ…」
「…………」
片辺に置かれた柱時計。木目のなか、振り子の揺れるその上を……ひそかに盗み見る。真珠とも似た薄淡の文字盤、こちこち揺れる針の先。
迎えの船が着くまでに、あと数時間………
****
見渡す限りの闇の色。
海鳥さえも眠りに就いて、潮騒は冷ややかに。振り仰げば、丸々太った盈月 が金光を放つ。照らし出された波間の下は、それでも底の知れない黒。海風が頬を打ち、髪を乱す。
……抉るようにつめたいそれ。
帰りの海路、寒空の水の上……しかし、暖められた部屋の中へは誰も入って行かなかった。
……ようやっとの、澄んだ空気だったから。
あれらの夜に溜まった淀みが、未だ鼻腔に染み付いている気がして。凍えたって構わないから、鋭利な風に洗って欲しいくらいだった。
……ひとつ、冷えた鼻梁へ触れ。
嘆息するまま見渡せば……少し離れた甲板の上、やたらとでかい巨躯の影。
……もし、辺りが暗くなかったら。あの褐色の褪せそうなのが見えたことだろう。
寒風に髪を舞わせつつ、常と同じくどっしり伸びた体躯の筋。それでも、身内の視線に……じわりと漂う、哀愁とも似た草臥れは見逃しようもない。
犬の尻尾も垂れていそうなその様相。
……鼻の利きすぎるかの同輩に、あの場は相当つらかったらしい。或いは、己と同じく毎日のように噴霧を受けた香料のせいか。
……解放された今この時、その窶れ具合は哀れなまでだった。
不憫に思う闇の先、暗影で埋まる長躯の根元。
……唐突に、そこからひょこりと。ちいさな輪郭が生じた。
前触れのない分裂に、ぎょっとまなこを瞠る。
夜目の良く利く自身のそれを、慌ててよくよく凝らして見れば……かたちは見知りの影だった。
巨体の傍のちいささは、ほとんど子供と同じそれ。けれど、国許で待つ幼齢の王女よりは年嵩なふうの身の丈。だがなお以って、いとけなさは余るばかりに。
その実齢を知りつつ眺めても……未だ、立ち姿は危うげにおさないような。
大影ですっぽり覆われて、ぴったり奴と馴染んでいたから。その存在に、今の今まで気がつけなかったのだ。
──…あれなるよその細君は、此度の遠出に随行していたんだったかと。
ぼんやり眺めたその先、ぴとりと立った短身が動き出せば……その辺りだけ、空気が賑やかなふうに様変わりしていた。仔兎じみた忙しなさで、ぴょこぴょこ一生懸命に巨漢の世話を焼いている。
……焼かれている男の背中も、よくよく伺ってみれば。
漂う哀感のなか、それでも何処かしあわせそうな……
……あそこでも、任の外ではそういう具合に慰められていたのかと。そうかそうかと。
……思えば、憐憫の情は途端に消え失せる。もはや、他国の耳を憚る必要はないから。──堪える意味すら感じずに、大声量で舌打ちした。
……残念ながら。それらは風と潮騒に掻き消され、獣の耳でも届きはしない。
もうしばらく、爛れた鼻に苦しんでくれれば幸いだ。
また、大きく舌を打てば。……けらけらと笑い声。
じつに軽快な足取りは、背後から。……そろりと向いた反対側、そこにはあの胡散臭い笑み。
「うらやましいか」
「…………」
「あとすこしで港なのになあ」
任を終えた誰もかも、疲れ果ててぐったりしているというのに……激務の主役の当人は、未だなお元気いっぱいに動き回っていた。この中年の何処からそんな精力が湧いて出るのか。是非とも平時、その活力を愛娘の尾行ではなく積まれた政務へ向けて頂きたい。
「なんだなんだ、不機嫌そうじゃないか」
……絡まってくる戯れへ、応じる声すら曖昧に。
揶揄の色付き言のなか、この場に居ない面影へ……あの、むっつりとした仏頂面を想って……ただただ、むなしく息を吐く。
疲弊とわびしさは混ぜこぜになり、浮かぶ思慕さえあやふやな。
……揶揄い甲斐が減ったのか、王はちえーとむくれてみせる。
女子供がやるならまだしも、良い年をした小父の膨れっ面では癒しの欠片もない。心の底からお引き取りを願いたい。
……願っていれば、天にそれが通じたか。暇つぶしの標的は、朋輩夫妻へ移ったらしく。その靴音はまた軽快に鳴り始める。
お気の毒と、せせら嗤う気力もなく。……ただ、ほっと一息し。
「あっ、そうだ」
刹那に止まったかの背中。やっぱり純真なふうの声色、振り向いた満面の笑み……
今度はなにを仕出かすお積りか。悪寒にぴしりと凍り付けば、主はごそごそ懐を漁った。
……黒の上着の内隠し。何処へどう仕舞っていたのか、現れたのは拳大の白布包み。膨らんだ絹色は、すらりとあわ光る。
……器用に畳んであるそれは、会食の際の膝掛けだった。
いつの間に失敬していらっしゃったのか……この、やんごとなき高貴の御人は。
「ほれ、これを……」
手渡された包みは軽く、かさりと小さな音を立てる。
呆れながらも受け取れば……ほのかに、あまさとからみのかおり。ぴりりとした微かなそれは、桂皮と生姜を混ぜたような……
ぺらりと捲れた布の端。覗いていたのは、濃茶に焼かれた小麦の肌目。淡色にやさしい砂糖模様は、可愛らしく人形面やら横縞やらを描く。如何にも子供の喜びそうな。
ぽかんと見上げたその先に、主は笑って踵を返す。
……からから揺れるその後ろ背。笑声は、最後にひとつを響かせ消えた。
お前のところの飼い猫へ、と………
****
扉を開いたその先へ、薄闇がひやりと流れる。灯りも炉も、既に消されてあたたかみは失せていた。
残っているのは、白灰ばかり……
気怠く凝った肩を上げ、重たい上着を脱ぎ捨てる。くたりと、厚い布地が長椅子へ落ちた。窮屈な襟元を緩め、銀針留めと首布を解く。
……結びの嫌に煩雑だったそれ。しかし、脱離に於いては存外するりとほぐれる。
もたもたと手間取りながら、革の金具を幾らかずらした。腰元からがちゃがちゃと、間の抜けた音が静けさへ響く。
勾配の急な上、軋れの酷いがたがたの階 。余計な音を立てぬよう、そろりそろりと慎重に段を登った。
……その最上。床の穴から抜け出せば、戸立てすらないぶち抜きの部屋。降り立つ木目の床接ぎは、どうにも斜角を持っている。露台の擦り戸の輪郭も、いびつなふうに歪んでいた。
……めちゃくちゃな設計は、過去の大工のあやまちか。それとも、妙な建て増しを繰り返した先人たちが短慮のゆえか。下賜物とは言え借家管理の杜撰な国府に責があるのか。
ただでさえ、窮屈に狭い地所である。傾いて軋む階上は、ほとんど物置と言える様相。
……だが、そこが女の書屋であり…寝間でもあった。
………今では、己にとっても。
床のがたつきに気を遣りつつ、やはり無音に足を運ぶ。三歩も行かない間隙に、その木骨組みの台はあった。
……果たして、其処へはあおく女の顔。
その色は、注ぐ月影のゆえもそう。しかし、多くは職分の所以だ。
……日夜閉所に篭りきり、机を睨んで陽射しも浴びれぬ算用者。武官の吏人で軍吏と呼ぶも、それらの顔はみな患 いじみて蒼い。
その元締めの長ともなれば、なおいっそう………
そっと屈んで顔を寄せれば、目元の隈は常より薄い。激務の時期はいま少しの先らしく、頬の痩けもすくなかった。
……これと別れる前の言、この数日はその通りによくよく眠れていたらしい。
小癪な奴めと呆れるような、それでもほっとしたような……
木綿の貼られた寝具の上。女はその身をちいさく屈め、端へ寄り……すうすう寝息を立てていた。
……大兵柄に誂えられてはいるものの、所詮は独り身用の台だから。ふたりで入れば狭苦しく、いつも身を寄せ合って眠っていた。互いに並より躯積が多いから、窮屈さはなおいっそう。
こちらの留守の間くらい、のびのび使えばいいものを……
……それとも、もはや無心の習性になっているのか。
いま、この時もまた……目前の女人は、いっそ律儀なまでに。
その骨靭 く頑丈な長駆を折り曲げ、ひ弱さとは無縁の双肩を窄め……ちょうど半分、余白を空ける。
たったひとつぶんだけの、つくり置かれた浮きの場所。
………じわりと、あたたかな。
人肌とも似たそのぬくさ。この胸郭へやわこく沁みる、なにか……
……起こさぬよう、またそうっとそばへ寄り。厚みのうすい頬肉へ触れた。
……じんと、染み込むようなぬくもり。熱のつよく感じた表皮。……それで初めて、己の指がうんと冷えていたことを知った。
しまったと、そう思った刹那。青い血筋を透かしたまぶたが、ぴくりと動く。
ややあって、うっすら開いたそのまなこ。なめらかな望月のおもてと似て、色合いはほの光るような……
眠たげなまなざしは、二三ゆるりとまばたきし。ぼんやりと、その眸子 へ己を映し。また、しばたかれ。
……そうして、その両眼はひろく瞠られる。相反して、虹彩の点はきゅっと窄まった。
──ただいま、と………
開きかけたこの口は、けれど終いの音を吐かない。
……胸の内。
どっとぶつかり痛いのは、体格の靭い女人の肢体。目覚めたばかりの体温は、冷えた身体にあたたかく。見下ろせば、胸板のなかへうずまる髪際。
女は、躍り掛かった勢いのまま……その筋張った腕を回し……ぎゅうぎゅうと、みずから己へしがみつく。余白の合間へ寄せるように。
──たいへん稀なことだった。
つれなく澄ました成猫 の、不意に起こった乳ねだりの腹踏みとも似た……
………どうした、と。
そう、問い掛けるいとますらなく。
腹と胸の境目へ、あおい額はぐりぐり沈む。筋のちかくに鼻骨の感触。
両腕は依然しっかりと締められ。常では平坦に低い女声も、いまだけ堰を切ったように。
煙草くさい酒くさい香水似合わないと……発せられるのは、やっぱり尖ったふうなおと。
散々に罵り、文句を垂れ。
それでも……ぎゅうぎゅうと、顔をひた押しするのはやめない。
ぬくもりは離れず、ますますとあたたかに………
「……ただいま」
「………おかえり」
寂しかったのかと問えば、べつにとつれない返事。ぶつっとしたような。
今は見えないあの顔も、きっと不機嫌そうなのだろう。いつものように。
……巻きつけられた靭骨は、躊躇うように緩められ。けれど、ほどけることは出来ずに。
……口にも、面にも。衝動のあとのその身へすら……心のままのあまえを出せない。
いっそ愚かと言うまでの……この女の、なんという不器用さ。
「……おれは、さびしかった…」
「……ふうん」
だから、いつも……この身を、この女へ寄せてやるのだ。
飼い鳥の歌う撫ぜ求め。すり寄りあまえる鸚鵡 とも似て……ぴっとりと。
……そうすれば、渋々構うふりをして。その実、あちらもあまえてきてくれたから。
嘴でさえずり、喉を鳴らしてじゃれあうふうに。いとおしみあえたから。
……布目の上へ腰掛けて、半身立の肩を引く。
常ならなにかの嫌味が出るが……今このとき、その屈口は不思議と素直で。
……また、じわりと沁みた情のまま。
………ぺたりと、その額へくちづける。
すこしも暴れず、おおきな猫はおとなしい。
頬を挟んで見つめれば、委ねるようにまぶたを閉じる。
なんて、あいくるしい………
堪らずちゅうと口を吸えば、喘ぐように息を吐く。みゃあとでも啼きそうな。
啄ばみを重ね、何度も触れあって。触れあうだけでは足りなくて。
……舌を差し込もうと、今日ばかりは逃げ回りもせず従順なふうで。
睫毛を閉じた下方のかんばせ。その眉間は、ほんのすこし顰められ。
垂れる互いの液汁に、しばらくふうふう苦しんだあと……こくこく素直に飲み下す。
元よりここは寝間のなか。
……すこし押せば、肢体はふんなり綿へ崩れた。
くちづけのあとの息荒く、その上へと覆いかぶさる。
「………いやにがつがつしている」
「ほとんどなんにも食えんかったから。腹ぺこなんだ」
ちらりと光る双眸の、その目尻もまたあかいろに。薄らと潤んだ端っこを、啄 くふうでべろりと舐め上げた。
「……みやげは」
びくりと肩を揺らしつつ。
けれど、なんとか強がろうと……うすいくちびるは、そんなことをぶつりと言う。
……かわいいものだと思うほど、自らの目はでれでれ下がった。気色悪いとののしりが飛ぶより先、あかく染まった耳介へささめく。
「国王が、おまえに菓子をくれたよ」
……言えば、ほんとうかと嬉しげに。低くも、子供のように純なこえ。
顔を起こして見てみれば、ぱっと輝くまなこがふたつ。怜悧できついような風貌のくせ、いとけないまでの表情。
ああ……このおれのねこよ………
いとしさと、昂ぶりと。
それらに荒い呼気と手で……筋張ってなおやわこいふうな肢体を撫ぜる。
……ひそりと、口を開いて。
「だから、あとで、ふたりで………」
たべよう、と。
あまい声でささやいた。
………囁こうと、したのだ。
「いまたべる!」
──どすん、と………
喜色いっぱいの声が響いた、その刹那。腹部に鉛のような衝撃が奔 る。木槌の先で打たれたような。
うっと呻き、布へと突いた腕 は震え。背中ごと、直下のままに崩れかけ。
……下方の女を潰すまいと、それでも必死に持ち堪え。
………けれど、あまりに無情な追撃。今度は鳩尾に。続けて腹にもう一発。
いよいよ駄目だと崩れれば、落下のうちに胸板を押され。
……いや、肋骨をぶん殴られ。
勢いのまま、この肢体は寝台の下。頭部もろとも硬床へ落ちた。
「いただき物があるなんて…!はやく言ってくれよ!」
小躍りするような声は、直上のあたりから。
軽やかな足取り。それが、伏せた己をととっと飛び越える。
「お茶淹れておく!」
猫の歩調はてててと滑り、そうして階下へ降りたらしかった。
……ひとり。
つめたい床にてぜいぜい喘ぐ。
天災とも似た理不尽さは、つむじ風のような。
……否、もはや竜巻と同等。
ひとつなにかに気を取られれば、もうなんにも考えない。辺りのすべてを薙ぎ倒し、ただただ猫じゃらしへ突っ走る。
だれかをうっかり引っ掻こうが、間違えて噛みつこうが……すこしも気付かず夢中なまま……
……積もった疲弊と毀傷とで、薄れつつある意識の中。
あいつはそういう女だった、歩く食い気が本性だったと……曇りゆく髄は繰り返し。
大地を頬に感じれば、脳裏で主がにひにひ笑う。つめたい布団は寂しいと、これ見よがしに言ってゆく。
この床は、一人寝の類いに入るのであろうか。
こいしさ ↓
相変わらずの記念日ほぼ関係ない&大遅刻……
くりすますってなんだっけ……?くりすますっていつだっけ…?感……
13年前時点だとアラバスタ男勢の誰も洋装してないどころか洋装の影も形もなかったので。色んなお洋服に慣れてそうなコブラ様とイガラムさんは良いとして、守護神はズボンにすごく戸惑うんじゃないかなあと。各年代総括で見てもゆるゆる楽ちん衣装ばっかなペルさんなんか特に。
どうして彼はアクションに出た時ことごとく理不尽受難を受けているのか。
それでもお茶とお菓子を前にしていつまでもペルさんが降りてこないから一人で食べ始めて、ちょっと迷うけどペルさんのために半分残しておいてあげるぐんりちょはやさしい(やさしい)
寝ようと寝室戻ったらペルさんが床で寝てて、ベッドに持ち上げてあげられなくはないけど面倒くさいから放置するも、すごく寒いのに半分こ精神で掛け布団一枚床に分けてあげるぐんりちょはすごくやさしい(すごくやさしい)
今後はちょいちょいSSの更新頻度を下げて長編改稿に集中します……改稿……ホンキ…
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