望郷。 | ナノ

1−2


───おれは、おまえがいてくれるだけで……いい。それだけで。おまえだけを想っている……



奴が研究室に来れば、することは決まっている。
掃除は遠い昔と違って機械がしてくれるから必要ない。……だが未だに、食事は真空パックへ一言ある奴の領域だ。相変わらず。
弱った顎に生野菜は硬い。食事が終わると、あとは………



……不毛だ。
暗い仮眠室で、配管の這う天井を見上げた。素肌に、空調が生ぬるい。
隣の男がひとの頬を突つく。振り払って、背を向ければ腕で身体を締め付けてきた。……煩わしい。


「……また、前より痩せたな」

「前っていつだ」

「三ヶ月前」


浮き出た肋骨を、節くれた指がなぞる。


「……仕事は」

「休暇」


ふんと鼻を鳴らしてやれども、相手は目に見えて嬉しそうだ。


「……しばらくは、おまえといられる」

「………早く帰れよ」

「何年経ってもつれないな」


……男は、くすくすと笑う。
じろりと、めつけた先……撫でつけてあった髪が崩れて、一筋頬に掛かっていた。何気なくそれを摘まんで……腕が、凍りつく。

……白いものが、一本。


───時間が、ない。


人の生は短い。何度繰り返しても一瞬だ。例え、そこに次の生が待っているとしても……後は無限と胡座をかいて構えるほど、己は日和見ではない。
……今、この輪の中で。その時を、一番あの場所へ近くする。
今までも、そうしてきた。……これからだってそうだ。確実に、確実に……討究は進んでいる。

だから、必ず、この生で………


老いてゆく。……この男も、私も。
手遅れになる前に。早く、はやく………


「……どこへ行く」


シーツから身を起こせば、低い声が咎める。


「ラボに」

「……今日はもう、寝ろ」

「十分寝た」


腰に絡まる白い腕。その筋張りを引き剥がし……非常灯の弱光が指す、薄い扉へ目を遣った。


「……そんな顔色で、おまえの方がよっぽど早死するぞ」


立ち止まっている暇なんて、ないのに。


「…………」


……返せる言葉は、ない。
立ち上がったこの腕を、男が引く。……結局、その胸板へ逆戻りだ。

焦燥ばかりが、積もる。


「少なくとも……おれは、こうしておまえと居られれば……幸せだ」


……心根を見透かしたように、男が言う。
伏せた目で、見上げれば……白皙。かつて其処にあった青紫のラインは、もうない。唇も、自然の薄紅色だ。
……変わらない黒檀の眼差しだけが、じっとこちらを見ている。


「………どうして、」


声が、震える。目頭が熱くなる。


「なんでだよ…!どうしておまえは諦められるんだ…!!」


音韻は、雄叫びとも似て。振り絞れる力のまま、太い腕を薙ぎ払う。

どうして、この男は理解しない。
……この世界の幸福なんて、まやかしだ。


「呪われてるんだ!ここは、わたしたちを、嫌って、呪って……いつか呪い殺すんだ!! どうして解らない…?!」


激昂のままに咆えれども、相手はそっと諭告を続ける。


「……平穏に生きればいい。……呪いなんて、ない。少し、廻るだけだ。それに……その先で、必ず会える。……幸福なことだろう?」

「違うっ…!!」


低く、優しい声に。殆ど悲鳴のように首を振った。


「だったら……どうして!どうして私たちには子がいない?!」


……彼の精液の内へ、子種はない。私の子宮に卵はない。
子を宿す為のあらゆる機能は、停止している。行為はただ、互いを確かめるためだけのものだ。

……この世界に来てから、ずっとそう。一回目。二回目。三回目……
この、無限地獄の中。私たちは子を残し守り育て、子孫の営みを見届ける……その喜びすら、手にできない。いつまでも、存在しない異邦人のまま。時空の法が、なにもかもを奪ってゆく。


「これがっ…!これが呪いでなくて何なんだ…?!ここは、いつまでも、私たちを呪い続ける!永遠に…永久に…!」


絶叫する。声が、くわんくわんと合金の壁に反響した。


「そのことだけが、全てではない」

「おまえに…!わかるものかっ……!」


……おまえだけ。そう言ってくれた。
何もかもを望む愚かな女を、許してくれ。


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