「……雪が、降っているよ」
枕元で、低い声。するすると林檎を剥きつつ、男はそう呟いた。
「へえ、雪か……」
……もう、何日も外へ出ていない。
この病院で寝起きすること、はや一週間。けれど、明日には退院だ。
どうも、高熱が引かずに緊急搬送されたらしい。食中毒か、ウイルスか。……原因は分からなかったそうだ。不摂生によるものが大きいだろうと、そう診断が下りた。
処置の遅れと体力の衰えによる、瀕死の重体。
……こんなに自己管理のなっていない患者は初めてだと、
医療用機からは往診ごとに厳重注意された。
……発見がもう一日遅れていたら、きっと来世で目が覚めていたのだろう。
ラボで一人きりだったのを、誰が見つけて運んだかというと。
「……本当に…アンドロイドに通知機能を付けて……良かった……」
ペルと……あの、銀色の助手だ。
……正確に言えば、後者が前者へ自己判断で報せを出し、かつ適切な処置を施した。……無論、こちらにそんな高度設定を組んだ覚えはない。
……すべて、この連れ合いの仕業だ。奴は勝手に私の助手を改造して(届け出を出していないので普通に違法だ)ひとの生活記録を逐一端末へ通知させていたらしい。なかなか恐ろしいことをする。
どうりで、食事の回数も知っていた訳だ。助手が妙に世話好きになったのも、手際の良すぎる緊急マニュアルも……そのゆえである。
なお、回復しだしたこの身にとって……
今までの自他を省みない行い、そして今回の大騒動。それらで怒り狂いに荒れ狂い、何かを突き抜けてしまったこの男が……人工知能の医者よりも、ずっとずっと恐ろしかったということは……言うまでもない。
「……もう、こんな事がないように……次は、もっと高感度のセンサーを……内臓も透かせるような………」
現に、今も……うさぎりんごを器用に剥きながら、とんでもないことをぶつぶつと呟いている。
……いったい、どこまで
助手の監視体制を強化するつもりなのか。もはや健康管理の域を超えているのではないか。プライベートとは、基本的人権とは。
……冷や汗がどっと噴き出すが、自業自得は承知の上だ。
「……ええと、何だっけ…?雪?」
物騒な発言は聞かなかったことにして、話題を変えた。
「ああ、そう……雪」
林檎に注がれていた視線が、こちらへ向き直る。
笑った顔は、のほほんと嬉しげに。……取り敢えず、正気は保てた様子である。
「初雪だそうだ。積もりはしなかったが、綺麗だったよ」
「ふうん。見たかったな…」
「また降るさ。……今は駄目だぞ。冷えるから」
「はいはい……」
念を押すように睨まれ、肩を竦める。……その目の色が変わり出す気配がしたので、慌てて神妙に頷いた。
……ちらりと見れば、皿にちょこちょこ盛られる林檎。幸い、この殊勝な態度に満足したようだった。こちらもまた、冷や汗を拭い……剥けたうさぎりんごを鷲掴みして、口に放った。邪魔な耳は毟り取る。
「野蛮な食い方をする……」
呆れたような声を無視して、二匹目を食べた。
これ見よがしな嘆息も、ここ数日のがみがみと比べれば……まさに、楽の音色だ。
しばらく、ぼりぼりと……林檎を齧る不行儀な音だけが、病室を満たす。
「……雪は、こちらに来た時初めて見たな」
妙な沈黙の中……不意に、ぽつりと。
ぼりごりと、捕食的にうさぎを貪る己を眺めつ……相手が呟く。
その、真面な様子。首を傾げて、続きを促した。
「一巡目の、冬だった。おまえも居たよ」
「……そうだったか?」
覚えがなくて、こちらは目を瞬く。無言のまま、男がこくんと頷いた。
「あの時は……おれも、必死で。毎日、疲れて……恐ろしくて」
……でも、と。
その肌と同じ、穏和な色に凪いだ笑み。……くちびるは、ひそりとささやいた。
「それでも、はじめて見た雪は……綺麗だった」
そう言って、やわらかな目をこちらへ向ける。
「そうしたら、思い出したんだ。……ほら、以前、ビビ様が仰られていた……異国の雪の話を」
「………あ…」
ちいさく、声が漏れる。
あの、清澄に淡ひかった……貴い御髪を思い出す。
「まったく違う……交わることすら、無いかも知れない世界でも……両方、雪は降るんだなあと。たぶん、どっちの雪も……綺麗なんだと思う」
……そう考えたら、ここが少し好きになった。
柔らかく笑んだまま。……白い指は、この頭を撫ぜてゆく。そっと、くすぐるように。
「……わたしは………」
そんなこと。
……考えてみても、いなかった。
初めて見た雪の記憶は、ない。
ここへ来てから。あの主が語った、宝石のような冒険談を想うことも……なかった。まして、ここの何かと重ねることなど……する筈も、なかった。
いつだって。この世界の景色は、故郷のそれよりずっと色褪せて……猥雑に、見えて。
今なら分かる。……そう見えるように、自らを強いていたのだ。
……また、声が震える。
「わたしは、ばかだなあ……」
ここへ来て、何年、何巡。
「この世界をね、わざわざ、嫌いになろうとしていたんだ。自分で、自分を……哀れむように、仕向けて」
ばかなことを、していた。
……顔が、くしゃりと笑う。
「ずうっと、損してた……」
耳を毟ってしまった、うさぎの林檎を見遣る。
本当は、自分自身で己を崩して。見えない振り、聞こえない振りをしていたのだ。この世界のなにもかもを。……或いは、彼の声さえも。
なにも、知ろうとしなかった。
「……まだまだ、これからだ」
薄く痩けた、この頬を。あの、白い……節くれた指がなぞる。
「これからは……」
耳介へ寄せる声は、何処までも優しい。
「これからは、二人で色んな所へ行こう。……きっと、初めて見るものばかりだ。……懐かしいものも、あるかも知れない。見に行こう。……二人で、一緒に」
……だからきっと、世界はみんなうつくしい。
白面が、さえずりとも似て微笑んだ。
「……いっしょに?」
腰を、引き寄せられて。……わらった吐息が、うなじへ触れる。
「そうとも」
細まるまなこへ問うたのち、それはやわこく肯定された。
「……間に合うかな…」
「余ってしまうくらいだ」
おおきな手のひらが、両頬を包む。
額と額とが、重なり合う。
「……そうだな。春になったら…」
「春になったら?」
春。あの、曖昧な季節。
……曖昧で、けれど微睡むようにやわらかな。
「春になったら……二人で、何処かへ旅行に行こう。 ……どこに行きたい?」
「ごろごろできる場所」
「そんなのは駄目だ」
蕾の綻んだような答えが、くすぐったくて。
わざわざ言ってみた戯れは、撫ぜるふうに窘められる。
「……じゃあ…」
「じゃあ?」
「雪の見える場所」
目を瞑る。……併さった額が、あたたかい。
吐息で笑えば、鼻先が触れ合った。
「それなら……北のほうへ。残雪のある、山へ行こうか」
「……楽しみだ」
かたく乾いた指のたこ。ざらりとした触感は、けれどうんとやさしげに……そっと、頬を行き来する。
何だろうと、まぶたを開いて……はじめて、自分が泣いていることに気が付いた。
「……ふたりで、行こう。……どこへでも」
「……うん、ふたりで」
微笑みあう、吐息の間隙。
くっついていた、互いの鼻先がずれて。……そのあと、唇が重なった。
望郷-後編【終】
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