望郷。 | ナノ

3−6


「……雪が、降っているよ」


枕元で、低い声。するすると林檎を剥きつつ、男はそう呟いた。


「へえ、雪か……」


……もう、何日も外へ出ていない。
この病院で寝起きすること、はや一週間。けれど、明日には退院だ。
どうも、高熱が引かずに緊急搬送されたらしい。食中毒か、ウイルスか。……原因は分からなかったそうだ。不摂生によるものが大きいだろうと、そう診断が下りた。

処置の遅れと体力の衰えによる、瀕死の重体。
……こんなに自己管理のなっていない患者は初めてだと、医療用機ヒューマノイドからは往診ごとに厳重注意された。
……発見がもう一日遅れていたら、きっと来世で目が覚めていたのだろう。

ラボで一人きりだったのを、誰が見つけて運んだかというと。


「……本当に…アンドロイドに通知機能を付けて……良かった……」


ペルと……あの、銀色の助手だ。
……正確に言えば、後者が前者へ自己判断で報せを出し、かつ適切な処置を施した。……無論、こちらにそんな高度設定を組んだ覚えはない。

……すべて、この連れ合いの仕業だ。奴は勝手に私の助手を改造して(届け出を出していないので普通に違法だ)ひとの生活記録を逐一端末へ通知させていたらしい。なかなか恐ろしいことをする。
どうりで、食事の回数も知っていた訳だ。助手が妙に世話好きになったのも、手際の良すぎる緊急マニュアルも……そのゆえである。

なお、回復しだしたこの身にとって……
今までの自他を省みない行い、そして今回の大騒動。それらで怒り狂いに荒れ狂い、何かを突き抜けてしまったこの男が……人工知能の医者よりも、ずっとずっと恐ろしかったということは……言うまでもない。


「……もう、こんな事がないように……次は、もっと高感度のセンサーを……内臓も透かせるような………」


現に、今も……うさぎりんごを器用に剥きながら、とんでもないことをぶつぶつと呟いている。
……いったい、どこまで助手アンドロイドの監視体制を強化するつもりなのか。もはや健康管理の域を超えているのではないか。プライベートとは、基本的人権とは。

……冷や汗がどっと噴き出すが、自業自得は承知の上だ。


「……ええと、何だっけ…?雪?」


物騒な発言は聞かなかったことにして、話題を変えた。


「ああ、そう……雪」


林檎に注がれていた視線が、こちらへ向き直る。
笑った顔は、のほほんと嬉しげに。……取り敢えず、正気は保てた様子である。


「初雪だそうだ。積もりはしなかったが、綺麗だったよ」

「ふうん。見たかったな…」

「また降るさ。……今は駄目だぞ。冷えるから」

「はいはい……」


念を押すように睨まれ、肩を竦める。……その目の色が変わり出す気配がしたので、慌てて神妙に頷いた。
……ちらりと見れば、皿にちょこちょこ盛られる林檎。幸い、この殊勝な態度に満足したようだった。こちらもまた、冷や汗を拭い……剥けたうさぎりんごを鷲掴みして、口に放った。邪魔な耳は毟り取る。


「野蛮な食い方をする……」


呆れたような声を無視して、二匹目を食べた。
これ見よがしな嘆息も、ここ数日のがみがみと比べれば……まさに、楽の音色だ。

しばらく、ぼりぼりと……林檎を齧る不行儀な音だけが、病室を満たす。


「……雪は、こちらに来た時初めて見たな」


妙な沈黙の中……不意に、ぽつりと。

ぼりごりと、捕食的にうさぎを貪る己を眺めつ……相手が呟く。
その、真面な様子。首を傾げて、続きを促した。


「一巡目の、冬だった。おまえも居たよ」

「……そうだったか?」


覚えがなくて、こちらは目を瞬く。無言のまま、男がこくんと頷いた。


「あの時は……おれも、必死で。毎日、疲れて……恐ろしくて」


……でも、と。
その肌と同じ、穏和な色に凪いだ笑み。……くちびるは、ひそりとささやいた。


「それでも、はじめて見た雪は……綺麗だった」


そう言って、やわらかな目をこちらへ向ける。


「そうしたら、思い出したんだ。……ほら、以前、ビビ様が仰られていた……異国の雪の話を」

「………あ…」


ちいさく、声が漏れる。
あの、清澄に淡ひかった……貴い御髪を思い出す。


「まったく違う……交わることすら、無いかも知れない世界でも……両方、雪は降るんだなあと。たぶん、どっちの雪も……綺麗なんだと思う」


……そう考えたら、ここが少し好きになった。

柔らかく笑んだまま。……白い指は、この頭を撫ぜてゆく。そっと、くすぐるように。


「……わたしは………」


そんなこと。

……考えてみても、いなかった。
初めて見た雪の記憶は、ない。
ここへ来てから。あの主が語った、宝石のような冒険談を想うことも……なかった。まして、ここの何かと重ねることなど……する筈も、なかった。

いつだって。この世界の景色は、故郷のそれよりずっと色褪せて……猥雑に、見えて。

今なら分かる。……そう見えるように、自らを強いていたのだ。
……また、声が震える。


「わたしは、ばかだなあ……」


ここへ来て、何年、何巡。


「この世界をね、わざわざ、嫌いになろうとしていたんだ。自分で、自分を……哀れむように、仕向けて」


ばかなことを、していた。
……顔が、くしゃりと笑う。


「ずうっと、損してた……」


耳を毟ってしまった、うさぎの林檎を見遣る。
本当は、自分自身で己を崩して。見えない振り、聞こえない振りをしていたのだ。この世界のなにもかもを。……或いは、彼の声さえも。

なにも、知ろうとしなかった。


「……まだまだ、これからだ」


薄く痩けた、この頬を。あの、白い……節くれた指がなぞる。


「これからは……」


耳介へ寄せる声は、何処までも優しい。


「これからは、二人で色んな所へ行こう。……きっと、初めて見るものばかりだ。……懐かしいものも、あるかも知れない。見に行こう。……二人で、一緒に」


……だからきっと、世界はみんなうつくしい。

白面が、さえずりとも似て微笑んだ。


「……いっしょに?」


腰を、引き寄せられて。……わらった吐息が、うなじへ触れる。


「そうとも」


細まるまなこへ問うたのち、それはやわこく肯定された。


「……間に合うかな…」

「余ってしまうくらいだ」


おおきな手のひらが、両頬を包む。
額と額とが、重なり合う。


「……そうだな。春になったら…」

「春になったら?」


春。あの、曖昧な季節。
……曖昧で、けれど微睡むようにやわらかな。


「春になったら……二人で、何処かへ旅行に行こう。 ……どこに行きたい?」

「ごろごろできる場所」

「そんなのは駄目だ」


蕾の綻んだような答えが、くすぐったくて。
わざわざ言ってみた戯れは、撫ぜるふうに窘められる。


「……じゃあ…」

「じゃあ?」

「雪の見える場所」


目を瞑る。……併さった額が、あたたかい。
吐息で笑えば、鼻先が触れ合った。


「それなら……北のほうへ。残雪のある、山へ行こうか」

「……楽しみだ」


かたく乾いた指のたこ。ざらりとした触感は、けれどうんとやさしげに……そっと、頬を行き来する。
何だろうと、まぶたを開いて……はじめて、自分が泣いていることに気が付いた。


「……ふたりで、行こう。……どこへでも」

「……うん、ふたりで」


微笑みあう、吐息の間隙。
くっついていた、互いの鼻先がずれて。……そのあと、唇が重なった。



望郷-後編【終】



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