初めてあのお方を腕に抱いた時の、やわらかな重さ。……否、軽さ。
いとおしかった、命の鼓動。
暗い暗い目蓋の裏、清く尊いかの人のお声が響く。
……目頭が、あつい。
「……ああ………」
……このお方、なのだ。
己が、その
畢生を賭して御護りせんと……そう、誓ったのは。
「ビビ様……!」
この声は、自分を咎めに来ているのだ。……そんなことは、以前の二例で解っている。
「……わたくしは!わたくしめは…!」
それでも。それでも………
(わたしは……わたしは…!ずっと…!)
胸に溢れる、これは。……紛れもない、歓喜。
ぼろぼろと、
眦から涙が零れた。
『…………』
声は、沈黙する。
……ああ、それでも……身体の震えが止まらない。
嬉しいのだ。どうしようもなく。……慕わしいのだ。どうしようもなく。
このお方は、己の魂魄全てを捧げた主なのだから。
「……ビビ様…」
わたしは、ずっと……ずっと、貴女さまに。
『駄目よ』
おあいしたかったのです。
喉元まで出掛かった
音。……それは、主の声に遮られる。
決然とした声。きっぱりと、乾いた太鼓のように高らかに。しかし轟然として。
それは拒絶だった。
『───、』
名前を、呼ばれる。
『嘘をついては、駄目』
悲しげな、おと。
……どうして。何故、そのようなお声で。
だれを、憐れんで……
「……嘘…?」
『そうよ』
「そんな……!」
満つる歓喜に溺れ、酔い痴れていたこの胸は……しかし冷たく、鋭利なものに刺し抜かれる。
……絶望が、脳髄を侵してゆく。
「なにを仰います…!わたくしめが、貴女さまに…!偽りなど!申せる筈が…!」
『違うわ』
声は、悲しげに。
……しかし全てを、断罪する。
『あなた、自分に嘘をついている』
◆◆◆◆
歓喜と悲哀は混ざりあう。混沌とした感情は、出口を求めてひたすらに涙を流す。
地に伏せた顔で、ぐっと歯を噛んだ。
『私に会えて、嬉しい?』
与えられる声だけが清らかに、粛然と響く。
「無論…!この、異空に落ちてから……無限のような輪廻を経て…やっと…やっ…と……ああ…わたくしめは…!この呪われた生のうち……最上の喜びでございますとも………」
込み上げる嗚咽に、言葉は意味を為さない。
息を継ぐのも忘れて、むせび泣く。
『……最初に、言ったでしょう?一人で走っちゃ駄目だって』
声は、返事を返さない。
ただ、ただ……問いを投げかける。言い聞かせるように。しかし、有無を言わせず。
……どうしてか。
昂ぶる感情、その波に沈む心臓へ……つめたいなにかが、降りてゆく。
「……是…」
愚かな迷いだ。
……得体の知れない焦燥に、一人かぶりを振る。
問い掛けへと肯定すれば、王女は哀れむように言った。
『……自分の中のね。……一番近くの感情だけが、全ての答えだと……そう、思い込んではいけないわ』
どうして、いま、そのようなことを。
喉の奥。ひややかなものが、ざわざわと騒ぐ。
……己は、なにに、怯えている?
『……ううん、違う。あなたは……それが答えだと、信じた。……いいえ、思い込んだ。それを、敢えて選んだ……』
「……ビビ様…?」
憂いと、悲傷とを滲ませ……主は、ひそりと長息した。重く、重く……
『……それは、独り善がりよ』
……息が、止まる。呼吸が続かない。
ひくひく引き攣る喉笛を、必死に抑えようと……動かない体で、虚しく足掻いた。
独善者。たったひとり、よき、もの。
「……そんな…」
呆然と呟けば……王女はなお、
蕭やかに問い掛ける。
『帰りたい?』
「無論…!」
叫んだ声は上擦り、ほとんど悲鳴と変わらない。
荷車に轢き潰され、はらわたを晒す小鳥……その、無残な骸を哀れむような音色。響きはただただ沈痛に、主はそのおとを告げる。
『それが、あなたの罪よ』
◆◆◆◆
嗚咽にすらなり得ない、獣の声。
………雄叫びが、喉から漏れ出て絶叫する。
(なんで…?どうして?!どうして…!!)
……罪?わたしが、わたしが何をしたというのだ!
ただただ、愛する故国と……いとおしい人々の元へ帰りたかった。ただ、それだけ。
ふたりで、かならず、かえりたくて……
「…あ、あ、ぁ……」
……かえりたくて?
段々と、なにかが崩れる気がした。
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