望郷。 | ナノ

3−1


初めてあのお方を腕に抱いた時の、やわらかな重さ。……否、軽さ。
いとおしかった、命の鼓動。
暗い暗い目蓋の裏、清く尊いかの人のお声が響く。
……目頭が、あつい。


「……ああ………」


……このお方、なのだ。
己が、その畢生ひっせいを賭して御護りせんと……そう、誓ったのは。


「ビビ様……!」


この声は、自分を咎めに来ているのだ。……そんなことは、以前の二例で解っている。


「……わたくしは!わたくしめは…!」


それでも。それでも………


(わたしは……わたしは…!ずっと…!)


胸に溢れる、これは。……紛れもない、歓喜。
ぼろぼろと、まなじりから涙が零れた。


『…………』


声は、沈黙する。
……ああ、それでも……身体の震えが止まらない。
嬉しいのだ。どうしようもなく。……慕わしいのだ。どうしようもなく。

このお方は、己の魂魄全てを捧げた主なのだから。


「……ビビ様…」


わたしは、ずっと……ずっと、貴女さまに。


『駄目よ』


おあいしたかったのです。

喉元まで出掛かったおん。……それは、主の声に遮られる。
決然とした声。きっぱりと、乾いた太鼓のように高らかに。しかし轟然として。

それは拒絶だった。


『───、』


名前を、呼ばれる。


『嘘をついては、駄目』


悲しげな、おと。

……どうして。何故、そのようなお声で。
だれを、憐れんで……


「……嘘…?」

『そうよ』

「そんな……!」


満つる歓喜に溺れ、酔い痴れていたこの胸は……しかし冷たく、鋭利なものに刺し抜かれる。
……絶望が、脳髄を侵してゆく。


「なにを仰います…!わたくしめが、貴女さまに…!偽りなど!申せる筈が…!」

『違うわ』


声は、悲しげに。
……しかし全てを、断罪する。


『あなた、自分に嘘をついている』





◆◆◆◆





歓喜と悲哀は混ざりあう。混沌とした感情は、出口を求めてひたすらに涙を流す。
地に伏せた顔で、ぐっと歯を噛んだ。


『私に会えて、嬉しい?』


与えられる声だけが清らかに、粛然と響く。


「無論…!この、異空に落ちてから……無限のような輪廻を経て…やっと…やっ…と……ああ…わたくしめは…!この呪われた生のうち……最上の喜びでございますとも………」


込み上げる嗚咽に、言葉は意味を為さない。
息を継ぐのも忘れて、むせび泣く。


『……最初に、言ったでしょう?一人で走っちゃ駄目だって』


声は、返事を返さない。
ただ、ただ……問いを投げかける。言い聞かせるように。しかし、有無を言わせず。

……どうしてか。
昂ぶる感情、その波に沈む心臓へ……つめたいなにかが、降りてゆく。


「……是…」


愚かな迷いだ。
……得体の知れない焦燥に、一人かぶりを振る。

問い掛けへと肯定すれば、王女は哀れむように言った。


『……自分の中のね。……一番近くの感情だけが、全ての答えだと……そう、思い込んではいけないわ』


どうして、いま、そのようなことを。

喉の奥。ひややかなものが、ざわざわと騒ぐ。
……己は、なにに、怯えている?


『……ううん、違う。あなたは……それが答えだと、信じた。……いいえ、思い込んだ。それを、敢えて選んだ……』

「……ビビ様…?」


憂いと、悲傷とを滲ませ……主は、ひそりと長息した。重く、重く……


『……それは、独り善がりよ』


……息が、止まる。呼吸が続かない。
ひくひく引き攣る喉笛を、必死に抑えようと……動かない体で、虚しく足掻いた。

独善者。たったひとり、よき、もの。


「……そんな…」


呆然と呟けば……王女はなお、しめやかに問い掛ける。


『帰りたい?』

「無論…!」


叫んだ声は上擦り、ほとんど悲鳴と変わらない。
荷車に轢き潰され、はらわたを晒す小鳥……その、無残な骸を哀れむような音色。響きはただただ沈痛に、主はそのおとを告げる。



『それが、あなたの罪よ』





◆◆◆◆





嗚咽にすらなり得ない、獣の声。
………雄叫びが、喉から漏れ出て絶叫する。


(なんで…?どうして?!どうして…!!)


……罪?わたしが、わたしが何をしたというのだ!
ただただ、愛する故国と……いとおしい人々の元へ帰りたかった。ただ、それだけ。
ふたりで、かならず、かえりたくて……


「…あ、あ、ぁ……」


……かえりたくて?

段々と、なにかが崩れる気がした。


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