▼ 雪色うすくなる春雨の空

森の中はしいんと静まり返っており、さっきの草原の暖かさと長閑さが、まるで嘘のように肌寒い、そんな所でした。

さく、さく、と二人土を踏みしめて歩けば、時折ぱきりと音がします。
少女がびくっと、肩を震わせると、唯の霜柱よと、彼女の手を引く生き物…だいこん役者は言いました。

さく、さく、ぱきり。

歩く度に、そんな音が不規則に鳴ります。辺りは薄暗く、鳥の声もしません。
彼女はやっぱり怖くなって、目覚めてからこのかた、唯一頼れる存在の袖元を、またぎゅっと握りました。


「…あらあら…そんなに怖がらなくても大丈夫なのに、」


彼は奔放なようでいて、存外優しいひとでした。人ではなく、だいこんですが。
その白い頬を蒼ざめさせた少女の頭や肩をそっとさすってくれて、怖くないと何度も言ってくれます。
そんな声に励まされて、立ち止まった少女が再び歩き出す。そんな遣り取りを、もう何度も繰り返していました。
彼は辛抱強く、生まれたばかりの仔羊のような、彼女の足取りを促します。


「…さっきまではあんなにあったかかったのに、途端にこんな寒くて、辛気臭い森の中だものねえ…怖いのも当然かしら。…でも、大丈夫よ。ほら、ご覧なさい」


にっこりと、今度は胡散臭くない、本当の笑みを向けながら、残雪の残る森の奥を指差して、彼はこう言いました。


「向こうの雪の中にね、ほら、木漏れ日が射しているわ。…見える? あの緑色の小さな玉が。…蕗の薹よ。ほら、良く見れば、あの木の根元には片栗の花。…ね? さっきのお花畑と比べたらささやかなものだけど、ここにもちゃんと、春はやって来ているのよ」


だから怖くなんてないわと、彼はまた微笑みました。
少女はそれにつられて、俯きがちだった顔を、そっと上げて辺りを見渡します。
暗い闇の中のように思われた森には、薄暗くも所々木漏れ日が射し、残雪に光がきらきらと反射して、顔を出した緑の玉や、奥ゆかしい花々を照らしていました。


「…これはこれで、綺麗でしょう? あたしは好きよ。…あんたは?」


とんとん、と背中を叩く手に、彼女が見上げれば、そこには満面の、穏やかな微笑みがありました。
少女はそれをぽやっと見遣って、こくりと一つ、頷きを返します。


「……そう。なら、良かったわ。…さ、もうすぐにみんなの所へ着くわよ。行きましょう」


またそっと肩を押されて、彼女は再び彼と二人、森の奥へと歩き始めました。




****




音もなく薄暗かった森の先に、ふと水の音が聞こえ始めました。

きょろきょろと見渡せば、眼前に眩い光。袖を握った彼を見上げれば、また安心させるように微笑んでくれました。


「…ほら、もう着いたわ」


せせらぎの音が、どんどんと大きくなってきます。
眩しい光は一層強くなり、その中をくぐり抜けたと思えば、一瞬目がくらみ、何も見えなくなりました。
瞼をぱしぱし瞬くと、そこは飛び岩のように森の中へ存在する、小さな陽だまりの水辺でした。
低い滝の周りに川がさやさやと流れ、水は陽の光にきらきらと輝いています。


「ご覧になって、あれがあたし達一座の天幕よ」


彼の指差す方角を見れば、僅か丘のように盛り上がった高地に、薄黄色のテントが幾つか並んでいました。


『だいこん役者ー!』


ふと、誰かが彼を呼ぶ声にきょろきょろと見回せば、近くの岸辺にこちらへ手を振る、幾人かの人影があります。


「ああ、ほら、あれがあたしの一座のみんなよ」


にこりと、何処か嬉しそうに手を振り返す彼に、少女はきょとんと、それを見つめます。


「…丁度いい頃合いに帰って来れたわね。ほら、お昼時よ、私たちも行きましょうか」


そう言って、少女の手を引き歩き出す彼の目の前には、跨ぐにしては随分と太い、水のせせらぎが横たわっています。


(…行くって、どうやって…?)


彼女が立ち止まり、くるりと首を傾げていると、さっさとしなさいと急き立てられます。
腑に落ちない心地で彼の顔を見ようと首を上げれば、視界は途端にぐるりと回転しました。


「…あ、よいしょっと、」


ぐわんとした浮遊感が体を襲い、彼女は身を強張らせます。
次の瞬間にはかつんと世界全体が揺れ、少女は眼下に、青い水の流れを見ました。


「……あら、びっくりさせちゃった? 悪かったわね、急に飛んで」


へなへなと対岸の地面に膝を着けた彼女の前で、悪びれずにそう言います。
彼はなんの前触れもなく、少女を抱えて、川を飛び越えたのでした。


「ごめんなさいね、つい癖で。これでも身は軽い方なの。おほほほほ…」


寧ろ自慢気な彼の声に、少女はぐったりと、溜息に近いものを零しました。


「遅いですよ!だいこん役者! どこ行ってたんですか?!」


ふと、ぱたぱた、小さな足音が走り寄ってくる音がします。


「もうお昼、みんなで食べちゃおうかって言ってたんですから!」


強引な彼のせいで幾分ぐったりした心地で顔を上げれば、そこには背丈の小さな少年。


「あら、しろかぶくん。悪かったわ。ちょっと、拾い物をしてしまってね…」

「拾いもの…?」


それは、彼…だいこん役者よりも随分背の低い、小さな少年でした。
彼の言葉を反芻するに、名前はしろかぶくんと言うようです。
確かに、少女の腰ほどの背丈をした少年の顔は、白い蕪、そのものでした。青い大きな瞳がくりくりとして、可愛らしい顔立ちをしています。
座り込んだ彼女と、その青い眼が視線をかちりと合わせました。

少年は不思議そうに首を傾げて、彼を見上げて言います。


「…ねえ、だいこん役者、このひと、だれ…?」

「……さあ…? よく分からないわ。向こうの原っぱで拾ったの。」


そんな会話に曖昧に頷きながら、彼女はわらわらと集まってきた、一座の面々を見渡しました。

彼と同じだいこんのような顔のお爺さん、卵のような女の子、昆布、こんにゃく、あとは何かよく分からない頭の形をした、不思議な生き物たち……
彼らもまた、彼女と同じように、不思議そうな視線を少女に送っていました。


(…え、え、え……)


空っぽだった、少女の頭の情報集積量はあっという間に一杯になり、ぼふんと音を立てそうに、脳回路は白熱します。
彼女はぽかりと開いた口をそのままに、不思議な生き物たちに周りを囲まれたまま。ぱたりとその場に倒れてしまいました。

これが、少女とでんでん一座との、初めての邂逅だったのです。




****




はたはたと、頭上で色鮮やかな布がはためいておりました。

少女は目をぱちくりとさせ、むくりと起き上がります。
するりと、小豆色の半纏が、その身体からずり落ちました。誰かが掛けてくれたようです。

どうっと、風が吹き、またはたはたと布を揺らします。
一瞬、どうして自分がここに居るのか分からなくなった少女は、辺りをきょろきょろ見渡しました。
そこには、さやさやと静かに流れる小川と、薄黄色のテントの群れ。物干し竿に干された、赤や青、清潔な白の浴衣や着物、それに褌。

彼女は奇妙な生き物たちの事を思い出し、あれは夢では無かったのだと、ぼんやり考えます。
ふと、自分を最初に揺り起こした存在が見当たらないのに気が付き、慌てて立ち上がります。
きょろきょろとまた辺りを見回しましたが、彼は何処にも居ません。
天の上で、お日様がきらきらと、唯一輝いていました。

少女は急にひとりぼっちになった気がして、不安に声を上げそうになります。
しかし、その声帯は震えず、依然口がぱくぱくと開くのみでした。

いよいよどうしようかと、おろおろ歩き始めた時。


「だーかーらー! あたしにも分からないって言ってるでしょう!」


黄色の天幕から威勢良く、あの高いのか低いのか分からない、少女をほっとさせる声が聞こえて来ました。
彼女は胸を撫で下ろし、その声の方向へ向かって、そろりそろりと近寄ります。
黄色くほつれ、少しごわごわした生地に耳を当てれば、忘れる筈も無い彼の声。


「座長は口出ししないで頂戴!これは"あたし"が決めたことなんです!」


それと、くぐもったような老人の声。


「…いや、だからの、だいこん役者。あの子の家も名前も分からず連れて来てしまったのでは、彼女の親御さんが……」

「だから!何度言ったら分かるの?!"覚えてない"のよ!あの子!お判り?」

「……じゃが」

「じゃがも何も無いの!それじゃああのまま野っ原に置いとけば良かったんですか?!」

「…いや、それは……」

「でしょう? それにあの子、口も利けないのよ…! ……きっと何か深い訳があるんだわ。放ってなんて置けますか!」

「……そうじゃのう…」


何やら、自分の事で揉めているようだと察した少女は、天幕の入り口に掛けた手を、そっと下ろします。
そのまま、ゆっくりゆっくりその場を離れました。

俯きながら歩けば、眼下には若草色の芝が広がっています。所々に、忘れ去られたような残雪が残っていました。
彼女は何だか心細くて、泣きたい心地になりましたが、目玉からは一滴の雫も零れて来ません。

再び物干し竿の近くへ戻り、がたりとその根元へ腰を下ろして、膝を抱えます。
側に落ちていた、誰のものとも知れない小豆色の半纏を抱えると、ぎゅっと握って、空を見上げました。


(……これから、どうなるんだろう…)


ふわふわと流れる雲はのんびりとしていましたが、彼女の心内は穏やかでありません。
先行きの見えない不安に、胸は押し潰されそうでした。

少女は俯くと、抱えた半纏にぐいぐいと、その白い顔を押し付けます。
ふわりとしたお日様の匂いと、それから仄かに、心を安心させるにおいがしました。
それは暗い森の中、彼女の手をずっと握ってくれていた、あのひとのにおいに似ています。

また涙が溢れそうになって、それでもやっぱり、彼女の顔は歪むことも、雫粒を零すこともありませんでした。




****




「…ほうほう、ふむふむ、そうかそうか、お主がそうであったか」


少女が暫く、じっと蹲っていると、すぐ近くから老人の声が聞こえました。
一瞬、あの座長と呼ばれていたお爺さんかと思いましたが、顔を上げた彼女の前に居たのは、それとは似ても似つかぬ存在。

濃紫の肌に、紫色の団子鼻、薄緑色のもじゃもじゃとした髭と眉毛。つるつると禿げ上がった頭の上には一本、へんてこなアンテナのような、妙な触覚が付いていました。手にはくるりと曲がった長い杖を持っています。その老人はゆったりとした、緑色の服を着ていました。

彼女は警戒に、その身をぐっと強張らせます。
近くから、人がさくさくと歩いてくる気配はありませんでした。この老人は、まるで魔法のように、ぱっとこの場に現れたのです。


「おーおー、そんなに怖がらずとも良い。わしは人喰い爺なぞではないぞ、お嬢ちゃん」


老人はそう言ってへらへら笑うと、杖を一振りしました。
刹那、そこにはぽんと、無の空間へ座椅子が現れます。
少女があんぐりと口を開けている前で、老人はどっこらしょっと声を掛け、その椅子に座り込みました。


「…ふぉっふぉっふぉっ、びっくりしたかの? わしは魔法使いなんじゃ。このくらい、屁でもないわい。そぉれ!」


また老人が杖を一振りすると、ぽんと音が鳴り、彼女の手のひらの上に、色の綺麗な砂糖菓子が現れました。
少女はぽかんとそれをつまみ上げ、じぃっと見つめます。匂いを嗅いで、僅かに舐めてみましたが、間違いなくそれは甘い、砂糖菓子でした。


「……なんじゃ、にこりともしないお嬢ちゃんじゃの。…むむむ、これも転移の影響か…それとも元からか……」


首を捻る少女の前で、老人はぼそぼそと何事かを言っていましたが、やがて仕切り直すように、大きな声で話し始めました。


「…まあよい! そのお菓子はプレゼントじゃ、食べておくれ。そう警戒しなさるなと言うとるじゃろう、別に怪しい者ではない。」


気配も立てず近寄って来て、あまつさえ謎めいた杖で椅子や菓子やらを出す老人の何処か怪しくないのかと考える少女の前で、老人は大きな身振りで彼女の気を引こうとします。


「わしが誰だか気になるか?気になるじゃろう…?」


別段知りたいとも思いませんでしたが、取り敢えず頷いて置けば、老人は得意げに自己紹介を始めました。


「わしはばいきん仙人という、えらーいえらーい仙人でな…ここから遠い遠い山奥に住んでおる。これでも、ばいきん界ではちょっとした有名人なんじゃ」


自称仙人がぽんと杖を振れば、もくもくとした飛雲がぱっと現れ、老人の身体を持ち上げます。
ばいきん界が何なのか、仙人がどう偉いのかは全く分かりませんでしたが、成る程、そうされてもみれば確かに、偉い仙人様のようにも見えました。


(……そんな仙人様が、わたしに何の用かしら…?)


少女はくいとまた首を捻り、質問しようかと口を開けました。が、自分は喋れないのだったと、再びそれをぱっくり閉じます。


「…おうおう、そうじゃったの、お主、口が利けんのじゃったな。」


何故、初対面の老人がそれを知っているのかと、彼女が再び身を強張らせた所で、老人は「仙人様に分からぬことなど無いのじゃぞ」と一言。
何となく説得力があったので、少女はこくりと、また適当に頷いておきました。


「…そういう事なら…それっ!」


老人が、今度はぽんと、自分の頭を杖で叩きます。
自分で叩いておきながら、あいたたたと頭を摩っていました。
一体何事だろうかと少女が考えていると、


(何って、念話じゃ、念話。お嬢ちゃん。)


なんとその頭の中に、老人の声が直接聞こえてきました。
少女が吃驚仰天していると、頭の中で、またけたけたと笑う声。


(なに、そう驚く事もない。言ったじゃろ、仙人様に出来ぬことなど無いのじゃ…!)


驚きから我に帰って、おざなりに拍手を送れば、仙人様はとても得意げに胸を張りました。
声を使わない会話とは、中々便利な事をしてくれます。


(…うむ、では質問に答えようかの。わしのようなえらーいえらーい仙人様が、どうしてわざわざ此処まで赴いたかと言うとな、)


前置きが変に鼻に掛かって嫌な気になりましたが、仙人は素知らぬ顔で少女の頭に言葉を送り込みます。


(……北の森で、何やら異様な変異があっての…どういう訳か見に来たのじゃ。…どうにも、異なる次元からの干渉らしくての。)

(………それは、どういう…?)

(待て待て、結論を急いてはいかんぞ、お嬢ちゃん。…わざわざこの北の森まで足を伸ばして見に来たのじゃが、もう其処には何も残っておらなんだ。…じゃが、此処で見掛けぬお嬢ちゃんと出くわした…)

(…わたしと……?)

(そうじゃ。そして、お嬢ちゃん。お主からは………おっと!)


ふと、頭の中に響いていた声が、突然ぷつりと途絶えます。
何事かと見れば、仙人は慌てたように、雲をふわふわ飛ばしていました。


「…しっ! 誰かが来るようじゃ…! 今日はお忍びで来たからの、誰かに見られてはまずいのじゃ…! お嬢ちゃん、済まんが続きは今度じゃ! また会おう!」


唐突に小声でそうまくし立てると、仙人は雲に飛び乗り、ふわふわと空へ飛び去って行ってしまいました。




****




「…あれ? 誰か居たの?」


少女がぽやっと、仙人の去った空を眺めていると、後ろから声が掛かります。
洗濯物の陰からひょっこり顔を出したのは、背丈の小さな、しろかぶくんと呼ばれていた少年でした。

少女は開いて閉まらない口のまま、呆然と空を指差します。が、そこにはもう、穏やかな春の空しか広がっていません。
不思議そうに首を傾げるしろかぶくんへ、何でもないと、ふるふる首を振りました。
背中に回した手で隠した砂糖菓子は、そのままそうっと、スカートのポケットへ放り込んで置きます。


「…そっか、何か声が聞こえた気がしたから…おいらの気のせいだったのかな?」


くりくりと、青く可愛い目を動かして考えるしろかぶくんは、何かを手に持っていました。


「…あ、そうそう、忘れそうだった! あのね、これ、残り物だけど…お昼ご飯。君にあげるようにって、残しておいたの。」


くいっと差し出され、受け取ったのは、温かい陶器の器でした。
中にはほかほかと湯気を立てる、美味しそうなものが入っています。


(…これ、わたしに…?)


彼女は自分の顔を指差し、首を傾げ、身振り手振りで意思を伝えます。
美味しそうな匂いに、お腹がぐるると音を立てました。


「うん!そうだよ! でんでん一座の特製おでん、さあ、召し上がれ!」


そう言ってにっこり笑った少年に、先ほどの妙な老人のせいで有耶無耶にされた不安は、すっと溶けていきます。
草原の上に腰を下ろすと、彼に向かって両手を合わせ、感謝の意を示しました。
添えられた箸を取って、器の中の具材を突き、熱さにはふはふとしながら口に運べば、何とも言えない濃厚な味。

美味しいと、そう伝えられないのがもどかしくて、少女はただこくりと、少年に向かって頷きました。
しろかぶくんは依然、にこにこと笑みながら彼女を見やっています。
意図は伝わったと見えて安心した彼女は、再び箸を口へ運びました。


「…さっきはごめんね。おいら達が急にまわりを取り囲んだから、びっくりさせちゃったのかな…?」


確かに突然不思議な生き物たちに囲まれ、少女が衝撃で気絶したのは事実でしたが。少し項垂れたように聞く少年に、彼女はふるふると、慌てて首を降ります。
ここでこくりと頷けば、彼は一層落ち込んでしまうような気がしました。この親切な少年に、そんな顔はして欲しくありません。


「…そう? なら、良かった!」


またにっこりと笑った少年に、少女もまた、大きく頷き返します。


「お食事中に話しかけてごめんね。おいら、向こうにいるから! 何かあったら来て!」


そう言って去って行った少年の後ろ姿を暫く見遣ると、少女は途端に、器の中の物をもぐもぐと、勢い良く咀嚼し始めます。
彼女はすっかり、少年に渡されたこの、美味しい食べ物に胃袋を掴まれてしまったようでした。
このおでんは食べれば食べるほど、力が湧いて来る気がします。

少女はにっこりと、しろかぶくんのように微笑みたい気持ちになりましたが、その頬肉は微かに、ぴくりと動いたのみでした。




****




「『あ 成敗、してぇくれるぅ〜!!』 ……うーん、ちょっと違うかな。『あ 成敗ぃぃ、してくれぇるぅぅ〜!!』う〜ん、これも違うなぁ…」


食事を終え、器を地面に置くと、手持ち無沙汰になった少女は、しろかぶくんが居ると言っていた方角へ向け、借り物の半纏を持って足を動かします。
途中で聞こえてきた妙ちきりんな声に首を傾げていると、丘の下で、しろかぶくんが妙なポーズの練習をしていました。


「『あぁ 成敗ぃぃぃ、してぇくれぇるぅぅぅ!!』…うん!これだ!これこれ!」


大分熱が入っているようで、正面から近寄ってみても、こちらにはちっとも気が付いてくれません。
遠慮がちにちらちらと手を振れば、ようやくこっちを見てくれました。


「…あっ!ごめんね、気付かなかった! ご飯、食べ終わった?」


恥ずかしそうに頭を掻く少年に、少女はこくりと頷きます。
「おいしかった?」という問いには、殊更大きく頷いておきました。
ご馳走様の意を込めて、また両手を合わせれば、どういたしましてとしろかぶくん。


「そうそう、名前、言い忘れてた。おいらの名前はしろかぶ。よろしくね!」


しろかぶくんの名前は既に知っていましたが、少女はこくりと頷き、差し出された手を握って握手を交わします。
次に、「きみの名前はなに?」と聞かれ、彼女は困って俯いてしまいました。


「……あっ、そっか! ごめん、分からないんだったよね」


申し訳なさそうにまた頭を掻くしろかぶくんに、少女もまた、申し訳ない気持ちになってしまいます。


「…きみが寝てる時、だいこん役者からだいたいみんな聞いたんだ。……その、きみのこと…喋れないこととか…」


歯切れ悪く、もじもじと言うしろかぶくんに、彼女もまた、かりこりと頭を掻きました。
話題を転換させようにも、少女は口が利けません。
困り果てて首をぐいと捻れば、良いアイディアが閃きました。


「…ん? なになに?」


指で下を指差し、しろかぶくんの注目を寄せます。
地面には、丁度良さそうな木の枝が何本も転がっていました。
少女は半纏を抱え直し、その一本を手に取ると、土の地面にがりがりと、少し角張った文字を書きました。


「"ここで なにを していたの ?" …そっか!筆談か!頭良いね、きみ!」


しろかぶくんはぽんと手を打つと、にこにことまた笑いました。


「えっとね、おいら、ここでお芝居の稽古をしていたんだ」


しろかぶくんの答えに、少女はまたがりがりと、地面に文字を書きます。


"お芝居の?"


しろかぶくんはそれを読むと、嬉しそうに話し始めました。


「そう!お芝居のお稽古! おいら、いつかだいこん役者みたいな、でんでん一座のスター役者になるんだ!」

"しろかぶくんは 役者 なの?"

「うん! …うーん…まだまだ駆け出しだけどね」


しろかぶくんはそう言って照れ臭そうに、鼻をこしこしと擦ります。


"でんでん一座?"

「ここの一座の名前だよ。でんでん一座は、街から街へ旅して歩く、旅芸人の一座なんだ」

"じゃあ さっきのひと達も みんな役者さんなの ?"

「うん!そうだよ! …まあ、裏方仕事も多いけどね!」

"楽しい?"

「うん!とっても!」


晴れ晴れと笑うしろかぶくんは、少女にとても眩しく映りました。


"そう がんばってね"

「うん!ありがとう!」


嬉しそうに体をくねくねさせるしろかぶくんに、彼女はまた、地面へ文字を書きます。


"さっきのおでん とても おいしかった"

「…そう? 良かった!」

"誰が つくったの?"

「…えへへ、あれはね、おいらの当番なんだ!」


"すごいね ごちそうさま"と書いた少女は、素直な気持ちで賞賛の拍手を送ります。


「えへへ、やめてくれよう、照れるってば!」


また嬉しそうに体をくねくねさせるしろかぶくんに、彼女は微笑ましい気持ちになりました。
また、しろかぶくんのように笑ってみようと試みましたが、依然頬肉はぴくりと痙攣するのみで、何の変化も現れません。

困ったなあと首を傾げる少女と、にこにこするしろかぶくんの間とを、突風がびゅうと吹いていきました。
うわっとっと、と体勢を崩しかけるしろかぶくんを支えてあげれば、ありがとうと微笑まれます。
また風がびゅうと吹いて、丘の上の洗濯物を、ばたばたと揺らしました。

強い風に、布は勢い良くはためきます。
ぺりっと一つ、白くて長い布が物干し竿から外れて風に乗り、空へと舞い上がりました。

ふわふわと宙を舞うそれを指差せば、慌てたような声。


「うわわっ!大変だ!洗濯物が!」


捕まえようと手を伸ばしたしろかぶくんですが、布はひらひらと少年の手をすり抜け、風に漂います。


「うわーっ!だいこん役者のフンドシだ!怒られるっ!」


そう叫ぶと、一層慌てて捕まえようと走り出し、辺りを駆け回るしろかぶくんですが、その背丈では、どうしたって宙の布には手が届きません。


「うわああ!」


またぶわっと風が吹いて、布が高く舞い上がります。
しろかぶくんの背後を抜けて何処かへ飛んで行こうとした布を、少女の細い手が、ぱしりとキャッチしました。


「…ふーう、セーフ!ありがとう!」


"…これ、褌だったのか………"と思えば微妙な気分になりましたが、汗をかきかき戻って来たしろかぶくんに布を渡せば、ほっとしたようにお礼を言われます。
春特有の強い風は、依然びゅうびゅうと吹き渡っていました。
丘の上の物干し竿は、危なげにゆらゆら揺れています。


「うわわ、大変! 早く取り込まないと、大切な衣装が飛ばされちゃう!」


また、慌てて駆け出そうとするしろかぶくんに、"手伝うよ"と地面に文字を書き、少女もまた走り出しました。




****




せっせっ、せっせっ、と洗濯物を取り込むしろかぶくんの横で、少女はそれをぱしぱしと受け取り、手際良く畳んで籠の中へ入れていきます。


「ごめんね、手伝わせちゃって」


忙しく手を動かしながら言うしろかぶくんに、大丈夫だという意を込めて、彼女はふるふると首を振ります。


「雲行きもだんだん怪しくなってきたし…雨、降るのかな?」


頭を上げて首を傾げる少年につられて、少女もまた、空を見上げました。
さっきまではあんなに気持ちの良い天気だったのに、そこには徐々に、鼠色の雲が流れつつあります。


「…よっし、これで終わりっと! 手伝ってくれてありがとう、助かったよ!」


良いんだと、また首を振って、籠を片手に立ち上がりました。小豆色の半纏は、その一番上に被せられています。


「えっとね、あっちに倉庫があるから! 置きに行こうか!」


二人で、離れにあるテントへと籠を置きに行きました。
倉庫だというそこは、色鮮やかな衣装や、綺麗な小道具で埋め尽くされていました。

物珍しそうに目をぱちくりさせる彼女の前で、しろかぶくんはその一々を指差し、あれは何の舞台に使うかつら、あれは何という役の侍の刀…などと、色々なお話をしてくれます。


「ほら、あれがさっき、おいらが練習してたやつ!」


しろかぶくんはそう言うと、岡っ引きの半纏と十手を手に取って、ぱぱっと身に纏いました。
かぽりとかつらを頭に被ると、また妙なポーズを決めて、決め台詞をばあんと決めます。


「あ 成敗、してぇくれるぅ!!!」


それを表情も変えずにじっと見つめる少女に、しろかぶくんはきょとんと首を傾げました。


「……あれ? …おいらの見栄、そんなに下手くそだった…?」


少し落ち込んだように聞く少年に、彼女は慌てて首を振ります。
そうすれば、ほっとしたように笑ったしろかぶくんでしたが、ふと思い立ったような唐突さで、彼女に向かって問い掛けました。


「……きみは、さっきからずっーと、普通の顔のまんまなんだね」


また不思議そうに首を傾げたしろかぶくんに、少女は少し焦ったような気持ちになります。


「びっくりした時も、ご飯を食べている時も……どうして?」


どうして、と聞かれても、彼女自身が分かりません。
何故だか、目覚めてからこのかた、顔の筋肉が上手く動いてくれないのです。
そう伝えたくても、今、手元に木の枝はありません。困ったように目を僅か、細めた彼女の前で、しろかぶくんは何かを思いついたように目を輝かせました。


「…ねっ、おいらの顔を見て! ほら、べろーん」


そうして口の端を両の手で引っ張ると、しろかぶくんは両目を寄せて、彼女へ向かって変な顔をして見せました。
笑わせてくれようとしているのでしょうか。
しかし、少女の表情は変わりません。


「…ううん? 面白くなかった? じゃあ今度はこれ、びろーん」


青い目玉をくるくると回し、道化のようにおどけて見せるしろかぶくんの前で、少女は依然、ぼうっと立ったままでした。


「…むーう、まだダメか…じゃ、これでどうだ!」


だいこん役者の真似! と叫ぶと、今度は指で思い切り目を吊り上げ、体をくねくねと、手足をしなしなと、女々しく動かします。


『お嬢さん、あたくしだいこん役者よぉ、よろしくねえ…』


大袈裟で、妙ちきりんに高い声で言われた台詞に、ああ、これは"彼"の物真似かと、少女は会得が行きました。
一人納得してほうほうと頷く彼女の前で、しろかぶくんは両手を大きく振り上げ、ヒステリックに叫びます。


『ちょっと!しろかぶくん!何をやっているんですか!』


成る程、良く似ているなあと彼女が感心して見ていると、調子良く物真似をしてにこにこしていたしろかぶくんの顔が、見る間に真っ青になっていきます。
おや、一体何事だろうかと思って首を傾げていると、「あら、こんな所に居たの。探したわよ」と聞き慣れた声。

刹那、背後から甲高くなったそれが飛びました。


「ちょっとしろかぶくん!何をやっているんですか!! 人のことをおちょくって!」


振り向けば、本家本元の"彼"の姿。
長身の彼は腕を組んで、鼻をつんと反らし、如何にも不機嫌なご様子です。


「…あの、えっと、だいこん役者、その…違うんです!」

「何がどう違うのよ!」

「えっと、その……おいら、この子をちょっと笑わせてみようと思って……ごめんなさい!」


しどろもどろに言い訳するしろかぶくんと、頭からぷんすか蒸気を立てそうな彼。
両者をぽかんと見やる少女の前で、二人の言い合いは続きます。


「だいたい、笑わせようったってどうしてあたしの物真似なのよ! しかも全然なってないわ! あたしはあんなに女々しくありません!」

「えっ…ええと、それは……」

「あたしの物真似をするならこうでしょう!こう!ちゃんと見栄を張って!『…あ こうだろう!がぁぁぁ!』」


ばあんとポーズを決める彼と、苦笑いするしろかぶくん。そして依然、ぽかんとしている少女の三人。


「ちょっとほら!ここで拍手よ、拍手!」


そう言われて二人、ぱちぱちと手を叩けば、ふんと偉そうに胸を反らします。
そのままちらりと此方を見遣った彼は、少女の表情に、また不満そうに口を開きます。


「ちょっと、あんた。何よその顔は。ぽけーっとして。にこっとでもしてご覧なさいよ、ほら!」


何故か叱咤されるようにそう言われて、少女はびくっと肩を揺らしました。
助けを求めてしろかぶくんの顔を見ますが、彼もまた、きょとんとした顔でこちらを見返すばかりです。

彼女は諦めて、また笑みを作ってみようと顔に力を入れますが、頬肉がひくひくと、ただ引き攣るだけでした。


「あらあらあらあら駄目よ駄目駄目、全然なってないわ…! あんた、笑えないの…?」


そう問われて、少女はおずおずと頷きます。
しろかぶくんも同調するように、少し困惑の色の強い声を発しました。


「そうなんです。この子、さっきからずーっと、笑わないし、普通の顔のまんまで…」

「……ああ、そう言えば此処へ来るまでの道中も、妙に無表情だったわねえ、あんた」


彼はそう言うと、彼女に向かって、その細い腕をにゅっと伸ばします。
少女が身を強張らせると、小綺麗な手が、彼女の両頬をむにっと挟んで掴みました。


「ほら、笑顔はね、こぉうやって、浮かべるのよ! ほら!笑ってご覧!」


そのままむにゅむにゅと頬肉を上に持ち上げられ、無理矢理口角を上げる形になりました。
が、しかし。


「……うーん…駄目ねえ…目が死んでるわ、目が」


そのまま顔をぐにぐにと弄られ、怒った顔、困った顔、泣き顔などを作らされましたが、彼はその全てに、気落ちしたような溜息ばかり返しました。


「……表情が上手く出せないのも、記憶が無い事に何か関係があるのかしら…」

「…さあ、どうなんでしょう…」


彼女を解放して、そんな事を言い合う二人の横で、少女は少しひりひりと感じる頬をすりすり摩ります。

そうすると今度は、「あら、痛かった?ごめんなさいね」とまた手をにゅっと伸ばされ、再び頬を挟まれ、むにむにと揉まれました。


「それにしても柔らかい頬っぺたねえ…病みつきになっちゃうわ」


玩具か小動物のようにうりうりと弄られ、彼女はもう何だかぐったりとした心地で、されるがままになっています。
「ちょっと、かわいそうだよ!」というしろかぶくんの助け舟が無ければ、少女は延々そうして彼に弄られていたかも知れません。


「…あ、そうそう、この半纏あたしのなのよ、返して頂戴」


彼はまた悪びれもせず、呑気にそんな事を言って、籠の上の小豆色を手に取ります。
そうして、そのまま彼女の手をくいくいと引きました。


「あ、それと、あんたに用事があったんだわ。危ない危ない、忘れるところだった。…座長があっちの天幕であなたを待ってるわ。今後の事で、少し話があるの。」


手を引かれるままに倉庫を出れば、「おいらも行きます!」と、しろかぶくんがとてとて後を付いて来ます。
三人でやや小走りになりながら、少し薄暗くなりつつある空の下を、一番大きな天幕に向かって進みました。




****




座長、と呼ばれただいこんのお爺さんは、にこにことした笑顔のよく似合う、穏やかな老人でした。
間違っても、先程の怪しげな自称仙人とは、似ても似つかぬ存在です。

湯呑みのお茶をずずっと啜ると、お爺さんはまたにこにこと、ちゃぶ台の端にちょこんと座る少女に、お茶菓子を進めてくれました。


「…さて、お嬢さん。話はだいたい、そこのだいこん役者から聞きました」


隣でもじもじと座っているしろかぶくんにもお菓子を勧めると、座長はそう、少女に向かって切り出します。
そこ、と指された天幕の隅には、偉そうに腕組みをした彼が仁王立ちしています。
…どうしてでしょう。座長、と言うからには、このお爺さんが一番の筈なのに、少女には彼の方が、よっぽど偉そうに見えました。

そんな事を彼女がぽけっと考えているのも知らずに、お爺さんは話を続けます。


「…何も、覚えていないそうだね。……それは本当かい?」


そう聞かれ、おずおずと頷いた少女は、先程盗み聞きしてしまった、彼と座長の遣り取りを思い出しました。

彼女には、行く当ても帰る所もありません。あったとしても、思い出すことが出来ないのです。
…今、壁際に立つ彼は、少女を助けてくれると言ってくれました。野に放られたようにぼんやりとしていた彼女は、その言葉と彼の存在に縋って、暗い森を抜け、此処までやって来たのです。

しかし、先程の彼らの遣り取りを思い起こすに、このお爺さんは少女の扱いに、彼よりずっと慎重な様子でした。

もし、このまま放り出されてしまったら。
そう考えると、膝の上で重ねた少女の手は、知らずぶるぶると震えます。身体は強張り、視線は下方を彷徨いました。


「だから何度も言っているでしょう! この子に聞いてもこの子を困らせるだけよ! ほら、こんなに怖がらせちゃって…! 何やってるのよ座長!」


暗くなりかけた彼女の視界を晴れさせたのは、あの、甲高い声でした。
少女がぱっと顔を上げれば、彼はずんずんこちらへ向かって歩いて来ます。


「…いや、そんなつもりは……」

「つもりは無くても事実、怖がらせています! 不安にさせないであげて頂戴!」


その剣幕にしろかぶくんはぴゃっと声を漏らし、彼女の肩もきゅっと吊り上がります。
可笑しいのは座長のお爺さんで、彼の勢いに、見ていて哀れな程に萎れてしまっていました。
しゃんと正座をすると、ぺしぺし卓を叩き始めた彼は、口をへの字に曲げ、お爺さんを威圧しています。


「野っ原で一人っきりだったこの子を拾って来たのは、このあたしですからね! 次の街までちゃんと面倒を見てあげて、お家に帰してあげるのが筋ってもんでしょう! お家が分からないなら、探してあげるんです…! 何を渋っているのかしらねこの座長は! …ね、だからあんた、心配しなくていいのよ!」


けんけんと捲し立てた彼は、最後にぽかんとその顔を見る少女に向かって、にっこりと微笑みます。
その扱いの落差に、はああと溜息をついたお爺さん。
彼に倣ったように、少女へ向かって少し笑むと、言葉を続けました。


「…はあ……お嬢さん、この男は何か勘違いしているようですが、儂らは決してあなたを見捨てるつもりじゃあ無いんですよ。安心なさい」


「じゃあ何で回りくどい理屈を捏ねくり回してるのよう」と不満げな彼をちらっと見て、お爺さんはまた溜息をつきます。


「…何事にも順序というものがあってな、だいこん役者よ……ああいや、何でもねえ、分かったから。…お嬢さん、儂はね、決してあなたを疑っていた訳じゃあないんだよ」


そう言ってまた笑んだ座長に、おろおろとするばかりだったしろかぶくんも同調します。


「そうですよ、座長! この子、おいらの仕事も手伝ってくれたんです! それに、ほんとに喋れないし、何も覚えてないみたいなんです! ほんとなんです! …だから………」


そう言って言葉を詰まらせたしろかぶくんに、座長はまた、にっこりと微笑みました。


「分かっておるよ、しろかぶくん。見ていれば分かるさ、この子は良い娘さんだ」

「あら、座長…! なら…」


今度は嬉しそうに卓をぺしぺしとやる彼に向かって、座長はこほんと咳払いをします。
また不満げな顔をする彼と、不安そうなしろかぶくんの横で、座長はしっかり少女に向き直り、口を開きました。


「お嬢さん、お嬢さんの全部が真実だということは良く分かりました。何も覚えていない、口も利けないとは、本当にお可哀想に……」


そう言い切ると、今度ははっきりと、強い微笑みを少女へ向けます。


「大丈夫ですぞ、我々がきっと、次の街であなたのお家の手掛かりを探して差し上げましょう。安心しておくんなさい」


はっとする少女の横。しろかぶくんが、大きな声でそれを肯定します。


「そうだよ!だから、心配しないで!」


斜め前に正座した彼を見上げれば、満足げな顔で、強く頷き微笑まれます。
彼女は何だか胸がいっぱいになって、お礼も言えない、笑うことも出来ない代わりに、彼らに向かって、深く深く頭を下げました。


「ほらほら、水臭い真似はおよしない。そう畏まらなくたって良いんですぞ」

「そうよ、こうなったらあたしたち、暫くおんなじ一座の仲間なんですもの!」

「えへへ、やったね! これからよろしく!」


口々にそう言い、少女の身体を起こさせた彼らは、皆優しく笑っています。
また胸に迫るものがあって、再び頭を下げかけた彼女の耳に、ふと、ぽたぽた水音が聞こえました。


「…あら、降ってきたみたい」


彼が天井を見つめて、ぽつりと言います。


「この春雨で、きっと残雪も溶けるでしょうね」


やはり、何処か呑気な彼の言葉を聞きながら。彼女は自らの胸に、そっと両手を添えます。
そこはほかほかと温かく、みんなのように微笑むことの出来ないのが、少女には少し、悔やまれました。

ぽたぽたぽたぽたと、天幕にぶつかる、雨の音がします。
みんな、いいひとたちだなと。彼女はぼんやり、そう思いました。





消えゆくも霞むもわかず峰の雪 色うすくなる春雨の空
 【作者】姉小路基綱(室町時代) 【出典】卑懐集

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