▼ よすがさだめず飛ぶ胡蝶
ぽうぽうと、春の日差しが草原に注いでおりました。
ゆるりと微睡みから瞼を上げ、上体を起こしてぼんやりとしていれば、何処かでほけきょと、鳥の囀る声。 くるりと辺りを見渡せば、何もない、若草色のなだらかな平原です。その彼方此方で、黄色や白の花々が咲き乱れ、蝶々がひらひらと舞っていました。
天を見上げれば、何処までも続く蒼穹。白い雲はふわりと浮かび、鳥の影がすいすいと滑って行きました。
(…ここは一体、何処だろう。)
彼女は何処か眠ったような心地で、再びぼんやり辺りを見渡しました。 そこには変わらず、春の穏やかな平原が広がっています。 まるで夢の中にいるかのように、己がどうしてここにいるのか、彼女はどうしても思い出せませんでした。
(…まあ、良いか。)
辺りの余りに長閑なことに、彼女はごろりと、草原へ横になります。 さわさわと柔らかな風が吹いて、その長いお下げの黒髪と、セーラー服のスカーフとを揺らしました。 少女はゆるりと、目を閉じます。
ほけきょと、また何処かで鳥が鳴きました。
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「…ちょっと、ちょっと、お嬢さん、お嬢さんってば」
高いとも低いとも言えない妙な声に、彼女は微睡みを寸断されました。 ぱちりと目を開ければ、そこには奇妙な生き物がいます。
「…あら、やっとお目覚め? 良かった、死んでいるんじゃないかと思ったわ」
そう言ってにこりと笑みを浮かべた相手は、彼女の肩を揺さぶるのを止め、その手をきゅっと握りました。
「あなた、どうしたの…? こんな寂しい野っ原に、一人っきりで寝っ転がって」
それは、奇妙な生き物でした。
ひょろりと長く、白い手足に、顔もまた、ひょろりと細長く、顎はしゅっと尖っています。背丈は高く、彼女を少しの余裕を持って見下ろしていました。 鼻は鷲鼻で、頬も首も白粉を塗ったくったように真白いのに、吊り目の眦から上は、薄緑色の色素で覆われています。 その癖、目元と口の端に赤く紅が指してありました。 頭には、頂に何か植物の葉っぱのようなものを生やしています。
だいこん、という言葉が、彼女の脳裏にはたと響きました。
そう、それはまるで、いやまさに、野菜の大根を人の体にくっ付けたような…それも、随分と細い人の体に…そんな奇妙な、明らかに人間とは異なる生き物だったのです。 それが、浅葱色の着物を着て、紺青の帯を締めて、彼女の前に座っていました。
「……あら、何よ、人の顔をじろじろと見て。そんなにあたしは男前かしら…?」
ぽかんとして、口の閉まらない彼女の前で、その奇妙な生物は体をくねくねさせながらしなを作ります。
…男、と言いましたか。それにしては妙に、女のひとのような喋り方をする生き物です。
「何よう、そんな鯉みたいに口をぱかっと開けて。折角可愛い顔が、随分な間抜け面よ」
細い腕がしゅっと伸びると、彼女の顎をひしっと掴みました。 次の瞬間には、その口は無理矢理閉じられています。 彼女は依然ぽやっとして、それに何の反応も示しませんでした。 吃驚して、体も動かせなかったのです。
「ちょっと、お嬢さん、大丈夫? そんなにぽやっとして…何処かで頭でもぶつけたの?」
それをどう捉えたのか。相手の妙な生物は、介抱しているつもりか、彼女の頭を摩ったり、ぽこぽこと叩いたりします。 痛かったのと、未知の生物が怖いのとで、思い切り振り払えば、安堵したような声。
「…なんだ、元気じゃない。心配させないでよ、もう」
…訳が分かりません。
彼女は、混乱の極地にありました。これは夢かとも思いましたが、ぽかぽかと叩かれた頭は確かに痛かったし、夢ではないようです。 …では、この生き物は一体……?
半ば怯えたように身を引いた彼女へ、相手の生き物は安心させるように両手を広げます。
「…何よう、そんなに怖がらなくたって、なんにもしやしないわよ。『あ 安心なせえ、お嬢さん…!』」
芝居くさい台詞と共に、そのまま変に手を突き上げ、首と目玉をぐるぐると回し、ばあんと奇妙なポーズを決めていました。 彼女はその形を何処かで見たような気がしましたが、やはり思い出せません。
でも、目の前の生き物がそこまで危険ではない…いえ、無害なものだということは分かったのか、少女はその体の力を、そっと抜きました。
「ねえ、お嬢さん、あなたどうして、こんなに寂しい草っ原で一人っきり、眠っていたのさ?」
それを見て良しとしたのか、相手の生き物は、再びこちらへ身を寄せます。
(どうして……?)
彼女は再び、どうして自分がここにいるのか思い出そうとしましたが、上手く行きませんでした。 分からない、と答えようとしましたが、何故だか口はぱくぱく開くのみで、肝心の声が出て来ません。 どうにも困り果てて、首をくるりと傾げれば、あら分からないのと相手の生き物。 実際に分からなかったので、こくんと頷けば、生き物は芝居掛かった仕草で顎に手を当て、ふむふむと言いました。
「ねえお嬢さん、なら、あなた、何処から来たの…?近くに民家は無かったわよ。旅の人? …それにしては、雰囲気が違うけれども……」
何処から、という言葉に、再び彼女は考え込みます。 しかしどう記憶を辿ろうにも、この暖かい、長閑な草原で目覚めた時の事しか思い出せませんでした。 彼女はやっぱり、頭をふるふると振ります。
「…分からないの?」
こくんと、また頷き肯定しました。
「…あなた、名前は?」
思い出せません。
「お家は何処?」
どうしたって、思い出せないのです。 他にも年齢、職業、家族の有無、趣味…色々な事を聞かれましたが、彼女は全て答えられませんでした。皆、首をふるふる振って否定しました。
「まああ!これは大変!!」
終いに何故か、好きな芝居の演目までを聞かれて、分からないと首を傾げた所で。相手の生き物は突然、大きな声を出します。 彼女がまた吃驚して、びくりと身体を竦めたのも気にせずに、生き物はぺらぺらと喋りました。
「ねえあんた、これって、記憶喪失って奴なんじゃないの? 大変!大変だわ!それじゃあ行く当ても無いんでしょう? …ああ、記憶を失った可憐な少女が一人、途方にくれて寂しい野原に……くうう、お芝居だったらいい場面になりそうねえ…!」
彼女がぽかんとしていても、生き物はお構いなしです。
「そこを流浪の旅侍のあたしが助けて、二人一緒に旅をする……うんうん、良い舞台だわ……ねっ?あんたもそう思うでしょう…!」
終いに何か同意を求められ、彼女は取り敢えず頷いておきました。 すると生き物は気を良くしたのか、少女の手を握り、にこにこと弁舌を振るいます。
「あんた、中々良いセンスをしているわ!」
そう言ってぶんぶんと彼女の手を振ると、生き物はぱっと、何か思い付いたように顔を輝かせました。
「 …そうよ、良い考えがあるわ! ねっ? どうせ、行くとこ無いんでしょう…? なら、あたしの一座の所へ来なさいよ! 次の街までなら、面倒見てあげる! そうしたら、きっと何か、あんたのお家の手掛かりが見つかるわ…! ねっ?そうしない?」
半分くらいをお芝居の舞台の話やら、ポーズの効果の話やらで話題は脱線し通しでしたが、生き物の言うことを端折るには、そういうような意味合いでした。 彼女は他にどうする術も無いので、こくりとそれに頷きます。
「そうなったら話は早いわ! 早速皆の所へ行きましょう! みんな良い人たちよ、お腹も空いているでしょう、お昼ご飯がまだだから、少し分けて貰うと良いわ…! ささっ、何をぼうっとしているの、あんたは鈍臭い子ねえ…全く最近の若いもんは……ほら、行くわよ、ほら!」
そう言って、生き物が彼女の手を強引にぐいぐい引くので、彼女はやっと草原から立ち上がりました。 ふらりと僅かにふらつきましたが、細くて白い体にがしりと支えられます。 細っこい割りに、この生き物は随分と力が強いようでした。 生き物に手を引っ張られながら、彼女はやっぱり夢の中にいるような心地で、草原と花々の上を歩きます。 ほけきょと、また鳥が囀りました。
「…そうそう、名乗り忘れてたわね、あたしの名前はだいこん役者。でんでん一座の花形スターでござんす…」
突然はたりと立ち止まって、頭の葉っぱを揺らし、生き物はこちらを振り返ります。 また芝居掛かった仕草でにこりと微笑まれて、彼女は少し困惑しましたが、またこくりと頷きました。 だいこんとは、言い得て妙なお名前です。
「…あんたの名前は……分からないのよね。…ま、お嬢さん、暫く宜しくね。……ってあんたがあたしに頼む所よ、ここは」
全く近頃の若いもんは礼儀がなってないんだからと、また生き物はぶつくさ何かを言っています。 彼女は焦ってお礼を言おうとしましたが、やっぱり声が出ません。口を虚しくぱくぱく開けていると、相手の生き物が気付いて、怪訝な顔をしました。
「…あんた。そう言えばさっきから一言も喋ってないけれども…どうかしたの?」
彼女は口を指差して、開いて、閉じて。次いで喉を指差し、ふるふると首を降りました。
「……あらっ、もしかして…口が利けないの…?」
彼女が困り果てて頷けば、相手もまた、うんうんと考え込んでいます。
「……記憶喪失、行く当てもない、まして喋ることもできない謎の美少女……これは………良い舞台だわ…!」
別に彼女を心配している訳では無いようでしたから、少女はそれを無視して聞き流しました。 ほけきょと、また鳥が鳴きます。もうそろそろ草原は途切れ、その先に、鬱蒼とした暗い森が口を開いていました。
「…でも、喋れないのは不便ねえ…お役者にもなれないし…可哀想な子。…ま、何とかなるでしょう。」
森に怯えて立ち止まれば、相手はまたぶつぶつと何か言いながら、先へ先へと進んで行ってしまいます。 慌ててその着物の袖を掴めば、きょとんと振り向かれました。
「……ああ、森が怖いの? 大丈夫よ、そんなに深い森じゃないから。それにね、あたしの一座じゃ毎年通る道ですし…安心なさい。すぐ近くの泉の側で、あたしの仲間が野営してるわ。すぐよ、さ、行きましょう」
だいこんの癖に、握られた手はほんのりと温かく、ほっそりとしていて綺麗でした。 少女はそっと彼の顔を見上げて、こくりとまた頷きます。迷子の子供のように、握った手はそのままに。 不思議な生き物と一緒に、暗い暗い森の中。二人で一歩を踏み出しました。
よすがさだめず飛ぶ胡蝶
見し人の面影なびく若草によすがさだめず飛ぶ胡蝶かな 【作者】加納諸平(江戸後期) 【出典】『柿園詠草』
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