鶺鴒のうた | ナノ

10


……今日もまた、いつものように。刃を指へと滑らせる。


鮮血滴るそれを、口元へ差し出してやれば。いとけない赤子のように……ちゅうと吸い付いてきた。
……そのまま、ちろちろと舌を這わせつ。己の指を咥え込み、目を瞑ってこくこく喉を鳴らす。

……あれから、毎日。こうやって。
幼子のように無垢な女へ……己は、この血を与え続ける。

それにどんな意味があるのかは分からない。……彼女自身、知り得ないことなのだろう。
けれども、ただ一つ。明確な事実として……この幼げな女は、こうして平癒した。

革手袋の下。本来ならば傷だらけになる筈の……己が手のひら。……しかしそれらの生傷は、不思議と早く塞がり癒える。
……彼女の吸い付く、その箇所だけ。

あの謎めいたうわ言の真相。それは、未だ以って分からないことだ。
………けれども。構いやしない。


「シルヴィー」


さらりと、陽光の髪糸を撫ぜる。もう、そこに……あの、無機な銀は混じっていない。
さらさら指を通せば、眠たげな目が薄らと開かれた。
とろんと潤んだそれは……鮮やかないろ。瞳孔だけが、並より僅かに細長い………

ちゅうと、また音を立て。やわらかで、あたたかにぬかるむ口腔が離れてゆく。
ぬらりと親指へ纏わり、たらりと流れた銀糸の筋。……今だけは、微量の赤銅を含むそれ。


「ゆがんだうつわのせいだって、またマザーが怒ってる」

「……そうか」

「ほんとはこんなの、いらないの」


そう言って、べろりと差し出される…赤い舌先。薄桃色の唇は、垂れたそれらに真赤で汚れた。


「つくりもののせいで。自然なかたちじゃないんだって」

「………どうでも良い」


ぬめりを拭ってやりながら……ひそやかに嘆息する。
全てが棘を帯びる語気。けれど、一向として。この女はそれから逃げ出さない。……あの約束から、逃げ出さない。


「……ねえ、ドレーク」


辺りを包む、黄昏。
かつて、あの翳った海辺で。この己の髪を撫ぜ……そっくりだと笑ってくれた。夕陽よりも綺麗だと、そう……


「だいすきよ」


愛の言葉なんてまやかしだ。
……音になんて、しないで欲しい。
あらゆる懇願を、悠々と無視して。少女の声で女は囁き続ける。……さえずりは、鶺鴒のように。

囁き返す言葉はない。
ただただ広がる沈黙へ、けれども彼女は微笑を向ける。聖像画イコンのむすめと見紛う如きの、それを……


「……良いのか」

「なにが?」

「…………」


瞑目する。──目蓋の裏に、追憶の景色があった。

あの時──…。あの、銀と白とで満ちたいばらの牢獄で。
……己の口は……それを呟いた。あの、ひび割れだらけの約束を。
愛の言葉を囁くことすら……しなかった。……できなかった。






◆◆◆◆






───ドリィ、お前は自慢の息子だ。


全ての色も、輝きも。
それらは音となる刹那に……みな砕け散る。

酒に溺れた父のくれたものは、罵声と暴力ばかりだった。
……けれど、時折……ほんとうに稀に、それらの言葉は囁かれた。

……すべて、偽りだ。
或いは、幾ばくかの真実も……僅かに含まれていたのやも知れない。……けれど、それは利己に歪んだものだった。
それを分かって、なお……縋ることしかできなかった。


───可愛いドリィ、お前だけだよ。


言霊なんてまやかしだ。すべては欺瞞に満ちている。
音にすれば、空気に触れれば。真実だったひかりさえ……腐り落ちて消えてしまう。


……だから、あの時。
この口から流れたものは……そう在るしか、なかったのだ。


裏切られ、見捨てられ。
けれども全てを捨て去れない。
惰弱で、愚かな。どうしようもないこの己に……唯一存在したのは。
たったひとつだけ、残った望みは………


「……なあ、」


幼い頃。見捨てられるのが怖かった。裏切られるのが怖かった。置いて行かれるのが。
そうして、そんな幼さを纏って。最後には全てを失い。……でも、新たな何かを手にした。
それは力となり、希望になり得た。それだけが光なのだと知った。……そう盲信した。
………けれど、それすら偽りだった。

すべてに置き去られ。すべては己を追い越し、離れてゆき……
……残った幾ばくかを掻き集めても、なお空虚な。


孤独な歩みはいやだった。
置き去られる寂しさは、もっと……

だから己はあの時。あの刹那。
情愛の代わりにすらなり得ない……我執に塗れた願望を。
この、いましめられた純真さへ向け。……縋り付くようにして……手渡すことしか、できなかったのだ。



「ふたりで、死のう……」



望んだのは、音にできたのは。
あたたかみも、かがやきすらも失った……ただ、それだけだった。

……口にすれば壊れてしまう、硝子の音階。
だから、もう。そんなものは要らなかった。
そんなものよりも。

……いつか、ひとりきり。背中で守って生かしてやるべき。いつか、ひとりきり。倒れた己が見るであろう、遠くへ逃がした背中たちとは……違うそれ。

たったひとつ、ひとつだけでいい。
果てのない晦冥へ沈もうと、如何なる鬼胎に苛まれようとも。
たったひとつ、決してここから離れない。守るも、守られるもなく……ただ、終末を共に果ててくれる。

共に崩れて、砕け散る……そんな、我儘な。羸弱で。愚かな。罪深き……この、願望。



「あなたのことがだいすき」



けれども。

あの合金のいばらから、ようやく逃れたばかりの……この、無垢なる乙女は。
愚かしさへ沈む、この己の吐き出した……水銀よりも重い毒。

それを、あたかも祝福のように飲み下し………

……ただ、にこりと笑った。
あの、陽光と同じ微笑みで。



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