鶺鴒のうた

08


重度の貧血。……そう、診断が下った。

ゆえに、その管は彼女の腕へと通された。上端には……赤色。
……年甲斐もなく、女は針へ酷く怯えた。刺せば暴れようとし、宥めるのに鎮静剤が施されるほど。……数刻前の話だ。

……今、何時なのか。
カーテンを締め切られ、昼夜も分からず薄暗い部屋。かちこちと鳴る壁時計を、ちらりと仰ぐのすら億劫な。

得体の知れない疲弊感へ、ぐったり浸りつつ。それでも目前の顔を眺め続ける。……ぼんやり上向くその身体を。

薬の所為で朦朧としながら、うつろな視線は虚空を見つめた。……天井近くに吊るされる、細い管の源流。その袋を。……まあかのそれを見ていた。
ひゅうひゅうという息遣い。この盛夏の目は……あの、綺麗だった瞳孔が……ふと、細く伸びる。
……まるで、爬の類いのそれのように。

桜色でやわらかだった……けれど今は、かさかさに乾いた口唇。
そこから、たらりと……澄んで、粘度を帯びた液体。


「シルヴィー」


声を掛けても、反応はない。
ただ、ひゅうひゅうと荒い息遣いのおと。無色透明のそれは、たらりたらりと流れ続けた。


「ほしいのか」


問えば。
刹那に視線が向けられる。……睨めつけるような。射抜くようなそれ。


……どうして、そんなことをしたのか。
分からない。

ほとんどその場の思い付きだった。


「……ほしいなら、あげよう…」


腰元にある、己が長剣サーベル。それを、僅かに引き出し………
滑り出た鈍色に、この親指を併せ。

ぷつりと、流れ出た赤色に。
細長の瞳孔は、突如として開かれた。




◆◆◆◆




 父という、かなしみと軽蔑と──…慕わしさの記号であった、その男。
 そのひとが、永遠に消えてしまったあの日から──…。あまりに長い時を経て。この身の築いたすべてのひかり……。
──雄強なる鴎の白。
 それは、ゆるがぬものと、なにより信じていたかった──。
 だのに。
……その白すら。

 否や──…。
『だからこそ。』

 まどろむ、この脳裏に浮かぶのは──…。あぁ、ふたたびの追憶……。
──あの白を棄て去った──、だからこそ。
──四度目の邂逅は、ようやく訪れた。




◆◆◆◆




銀のプレートを剥がした先、それは存在した。


醜怪な怪物の、その鼓動のような……低周波の、機械音。
辺りにのたうち回る導線の数々。糸くずほどから、大蛇のように太いそれまで……無機な鉛から、鮮烈な血色のそれまで。
……それらは……一様にして部屋の奥へと続いていた。

辺りに満ちるこの音を、鼓動に例えるならば。
………あれは、まさしく。……怪物の…その、心臓と言うべきだろう。

拍動こそせずとも、すべての管はそれに繋がる。
……無機なものの集まった、巨大な天蓋のような……或いは、いばらの牢獄のような…

その中央、封じられた皇女とも似て。
……彼女は寝そべり、笑う。


「ハーイ、ドレーク」


一糸纏わぬ真白い肢体。初めて目の当たりにするそれ。
かつてとは異なり、すらりと伸びた手足。細いそれらとその肌色は……いっそ病的なまで。
痩けた体躯に、しかし肉はなお嫋やかな……仰向けに流れる乳房を、白い手は隠しもしない。

……まばゆいまでのその裸体。
穢らわしいなにかの付け入る余地すらない、この輝かしさ。まるで……絵巻物の女神のような……


けれども。


……その神聖を抑え込む、煩わしい悪蛇たち。


「シルヴィー」


それらを踏み付け。潰し、殺し……
守護者となりうるにはあまりに遅すぎた、この愚盲な己。黒に覆われた、その両手で。鎖となって光輝を縛り、白い柔肌を咬む……銀のいばらを引きちぎり。


「きてくれたのね」


紫電の色。壊れた管から飛び散る水。透明、青色、赤、濁色、黒……
……祝福の雨と称するには、あまりに猥雑な。
それらの礫を全身に受けつ、その権化とすら成れぬくせ……眠り乙女へ進み寄る、皇子よろしく顔を寄せ。


「シルヴィー……」


……かつての日。一度だけ触れた、あの唇へ。……ぺたりと、稚拙な口付け。
刹那の先に、この喉を震わせた。その、音は………



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