木犀記
 車窓には、煤けたように枯れ草の色の農地がつづく。──収穫はとうに終わったらしい。
 秋のあおく晴れた午後。
 底冷えする空は、わずか残ったはかない雲すらかき消えたあとのうら寂しさ。
 郊外の、舗装のあらい旧道を、ふるい車は億劫そうに身を揺すりつつ進む。
──おおきな躰を、窮屈そうに車につめて。その口もとを偏屈に曲げ。ドレークは、ひとり、ゆく。
 淡あわと、木犀もくせいの花のかおりがつたよってくる。……何処からともわからない。
──高い鼻梁はつめたい車内で花香かかを吸う。
 ハンドルを持つかれの手は、革手袋のその下の、長い長い指の芯まで凍てつくようだ。旧式の、なまり色のセダンについた暖房は、車体と同じくおんぼろだった。
 ひややかな気温を、鼻腔にすんとかれは通した。やさしくも──…、さびしげなかおり。
──外界の、花のかおりが、どこから紛れ込んだのか。つめたく、かたく密封された車の内まで……。
 枝咲の、そのごく小さな橙いろの花群のすがたを、かれは思う。
──瞬く間に散り落ちる。道の上に吹き溜まり、枯葉のように朽ちてゆく。はかなく脆い秋の花……。
 かおりを探してもう一度──高く、細く湾曲カーブした鷲鼻は、すんとちいさく吸気する。
──そこには、排気煙とあぶら・・・の混ざったふるい車の臭いがあるだけ。胸の悪くなるような……。
 そのほかには──…。もう、なにも、感じられなかった。
──錯覚であったのか。

 木犀の──…あの、なつかしいかおり。

 白茶けた農地の脇に、くるまを長く走らせて。ドレークがたどり着いたのは、古体な一軒家。
──青年期の養い親のいえだった。かれにとっては、血縁のない老婦人の……。
 その庭先。車を停めたかれが見たのは、ときわ葉の金木犀きんもくせい。橙いろのちいさな花を鈴生りに付けている。
 その生垣を見事に刈り込み造られたアーチのしたで、ひとり、子どもがかれを待っている。
「ドレーク──!」
 くるまの音を聞きつけて、飛び上がるように駆けてきた。
──ずっと外で待っていたのか。その子どもの、やわらかな頬も、しろい耳も、まろい形のゆびさきも──全てがあかい。
──いたましいような気もちに、かれはなる。
(──…こんなにあかくして。)
 思いを、ことばに出すのが──いつも、できない……。外套の裾に取り付いてくる子どもの手を、ドレークは、無言でとる。──少しでもあたためたかった。
 手袋越しでは、どのような温度も感じられない。無言で取り去り、硬く骨ばむ両の手で、おさなくやわこい手をつつむ。
 思いがけず、子どもの白膚ひふはあつかった。
──…すぐに違うと気がついた。それは、じぶんの──かれの手が、冷えきっていただけで。
 とつぜん触れた男の指のひやっこさに驚いて、子どもは、わ、と声を出す。かれの本来の意図とは、全くの逆になってしまった。
──…不器用に、かれは手を離す……。
 支えるものを失って、子どもの両手はぷらんと落ちた。
 抑揚のない声が、すまない、と短くつぶやく。冷淡に映ったろうかと、内心かれは狼狽する。
──やわらかく接してやりたい。そう思うのに……。おのれに希えば、ねがうほど、その口角は知らず識らずに下を向く。
……始終、だんまりの仏頂面だ。
「──冷たいから、あっためてあげる!」
「……風邪をひく」
「へいき!」
 離した手は、しかし、強引に握り込まれた。

「……中に入ろう。」
 かわいたテノール。ちいさな背中を促し、ついで、淡々とかれは問う。
「──おつるさんは?」
「りょうり!」
 いとけないソプラノが、元気にこたえた。
──…じぶんのように邪険なおとこを、なぜ、この子どもは厭わないのか。かれにとっては不可解なことだった。
 大きな大きなドレークの、膝丈ほどしかない子ども。──手を繋いで歩くのは、少しだけ難儀する。からだの高さが違いすぎる。かれには慣れないことだった。
 この──…ちいさな生きものにとって良いように、うまく合わせてやりたいのに。
 思うたび、じょうずにいかずに繋いだ腕のすじが強張る。
──慣れない……、と、ドレークはまたひっそり思う。けれど──嫌いでは、なかった。
……いいや。いいや。それは、うんと──…。
「おばあちゃんね、トマトのいろのお肉のごはんを焼いてるよ。ドレークがすきなやつ!」
 子どもは──少女は、たえまなく話す。
「じゅうじゅう! って、焼くの。いいにおい! ──あのねあのね、とろとろの玉ねぎと、みどりのお豆と、にんじん入ってるの」
「にんじん、きらいだったの。でもね、いま、すき。おばあちゃんのにんじん、あまいの。──それにね、しってた? にんじん、ドレークとおんなじいろ!」
 だからすき!
 あさひ色の髪の子どもは、高らかに宣言する。舌足らずに、ドレーク、ドレーク、と幾度も呼ぶ。ときどきつっかえ、音のつづりを間違える。
 低い位置でちょこまか歩く、子どものからだをちらりと見やり──かれは、気がついた。
 少女のあたまの、ほそく、やわらかな猫っ毛に──…金木犀の花が、ひとつ。
 かがやかしい髪に添う、慎ましやかな飾りのように落ちている──…。
 あの、だいだい色の生垣の下に長いあいだ居たからか。枝咲のアーチのしたで……、ずっと少女は待っていた──…。
──男の長躯は屈み込み、子どもの目線まで縮む。
 ながく硬い食指の、その先で、つぶ・・のようにちいさな花をそっと取る。きょとんとする子どもの手のひらに、ぎこちなく渡す……。
──いまだ、純な歳のおさなさ。花を見るなりその口を大きく開いて笑顔を見せた……。
「ゆうひ色!」
 みじかいゆびが、ずっと高い場所にある、かれのあたまを指し示す。──だいだい色の髪筋と、だいだい色の花を見て、嬉しそうに子どもは跳ねる。
「ドレークと、おそろい!」
「…………」
──おとこの寡黙なくちびる。その両端に、あわく静かな苦笑が透ける。
──波間に消え入る泡のよう。一瞬で見えなくなった。
……もうどこにもあらわれない。消えてしまったそれは、けれど──…ほほえみにも近かった……。
「ね? ゆうひ色!」
「──…そうか、」
 引き続き、かれがよくよく検分すると、子どものまるこい頭の上に──もうひとつ。
──ややあって。おおきなから、ためらうように差し出される──2個目のちいさな花飾り。
 こんど、少女は顔をかれの手元に近づける。そのちんまりとした鼻を、男のかたいゆびさきに、ぴったり寄せて──すんすん、と嗅ぐ。
「おはなのにおい、する!」
──ゆびにかかった子どもの吐息はあたたかく。……感覚など無いはずの、厚皮のおもてに──ドレークは、ふしぎなこそばゆさを覚える。
「ドレークのにおいも……」
「……?」
 さむさに赤くいろづいた、子どものちいさな鼻がしら。そのひんやりした感触が、かれのかたいの皮に、やさしくれる。
……幾度も幾度も、あまえたふうに。
「おはなのにおい、すき。──ドレークのも、すきよ」
 底冷えする秋の午後。やがて来る、するどい冬をはらんだ空は、青く凍てた水の色。遠い場所からしらじらと、陽光は降りてくる。
「ドレーク、ずうっと、おんなじだねえ……」
 注ぐひかりを反射して──。かれのゆびのすぐ近くで伏せられた、少女の睫毛はその頭髪といっしょの色に耀かがよった。
「──あのね、いっつも、ふゆの松のかおりがするよ」

(ゆうひの髪と花のこと)
 
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