篝火
 夕刻、空には茜の色が濃い。薄くたなびく雲の筋。それらはみな、一様にしてかがやかしい黄金こがねに光る。……ちょうど、今の時期の麦穂にも似て。
 季節は播種期の終わり。地にある人は実りを刈入れ、厳乾への備えを強める。木立はいよいよ乾眠を迎え、その葉を黄色に落とした。
 まだ、かすかに湿った枯れ草のかおり。……やがて、全ては砂に還ってゆく。
 外宮の外れ。土の道は一面の黄色、橙、それから赤色。管理人が泣きそうだ。
 さくさくと、それらを踏みつつ歩いた。こうすれば、分解も幾分早まるだろうか。
 どうにもさびしい季節だが……この足の感触は、幼い頃から嫌いでない。
……そんなふうに、ぼんやりと。無心に暖色を掻き分け、進む。比較的見栄えの良い、高級官吏の賜邸街。それらの合間、やがて見えてきたのは……ちいさく、おんぼろの我が家。
 狭い庭を通り抜ける。猫の額と例えようにも……些か余って心許ないような。
 唯一の自慢と言えば、この辺りでは珍しい持ち井戸だが。……残念ながら、乾季には水の枯れていることが多かった。水脈由来のそれではなく、人工の地下水路……しかも、本流から外れた零細なものを引く類いの造りだから。
 上から穴を覗いてみる。遥か下方に、ちょろちょろと軟弱な水流。……数日は水も汲めまい。
 はああと、嘆息しつつ。がちゃりと、玄関の扉を開く。
………やたらと良い香りがした。
 ただいまもそこそこに、ぱたぱたと廊下を走る。どどっと居間を突っ切り、台所へ。
案の定。かまどの前には白い背中。
「……騒がしく帰ってきたな」
「なに作ってるんだ?」
 問うても、戻ってくるのは沈黙。その前に言うことがあるだろう、とでも言いたげな。
「……ただいま」
「おかえり」
 ぼそりと帰宅を告げれば、ようやく返答する低音。くるりと、白皙が振り返る。ほんのちょっと微笑んだような。
「なに作ってるんだ?」
「……いろいろと」
 同じことを聞けば、ふふふと笑い声で躱された。その間にも、良い香りはふわりと漂い続ける。……竈の中身はほむらの内、どうにも窺い知れない。
 なんだなんだと、すんすん空気を吸い込んだ。教えてくれないならば、当ててやろう……
──やわらかなにおい。
 肉の焼けるあたたかさ、ひやりと檸檬の果汁。生玉葱のつよさ、甘いたれ、すっとした香草……それから乳を温めたり、砂糖で練った菓子の残り香。麦酒を濾した残滓の酸っぱさ。煮野菜のやさしさ。
「……どうしたんだ…やけにご馳走じゃないか…」
「相変わらず鼻が良いな」
 感嘆するような。馬鹿にするような。
 どちらともつかず、男はまたちらりと笑う。すこしだけ、はにかむような。
「……ちょっとした、祝い事だ」
「なんの?」
「ただの思いつきのような、記念のような……」
「……どういうことだ?」
 首を傾げても、やっぱり相手は答えない。ただ、くすくすと口を抑えた。
……なんだか、腑に落ちないけれど。
「まあ、うまそうだから良いや」
 思いがけないご馳走に、心地の浮かない筈がない。機嫌良く竈を覗き込めば、炎があたたかかった。ぱちぱちと元気な火の粉。
 後ろの男は野菜を刻む。……とんとんと、ゆるやかな間隙。
「……一年あれば…」
 ぽそりと、また低音。
 振り向けば、まな板の前でわらう白さ。硬く湿った緑、橙、黄……みんな、その手に掛かれば従順なふうにおとなしい。
「……一年?」
「そう、一年あれば……人はどう変わるのだろう」
 気を散らす訳でもなく、その声は穏やかに。……ただ、やさしく息を吐くように。つぶやく。
「職務の人事が変わってめんどくさい」
「……そういうのは要らん…」
「年を取る」
「……まあ、そうだな」
「老ける」
「……夢のないことを…」
「一年を振り返って、この年自分はなにをしていたんだと嫌になる。さらに何年かを思ってふて寝する」
「……それはおまえだけじゃ…」
 はああと嘆息する音。白い手は、脇の水甕へ。柄杓を取って、たぷんと水を掬う。ざぶりと、空の鍋に満ちる透色。火の上へと置かれる素焼き。
「一年あれば……」
 とぽとぽと、切り分けられた野菜が踊る。底に沈んだ色味はやがて、ちいさな気泡を纏って揺れる。
「子供はうんと変わってしまう。赤子は歩き始めるし、幼子は言葉を覚える。遊びも、自制も」
「……背が伸びる。からだが重くなる」
「少女は女になるし、男は面倒な年頃になる」
「周りのものがちいさく見える。先が不安になる。……あと、やたら飯がうまくなる」
「……おまえは食うことばっかりだ。確かに、胃袋はでかくなるが…」
「新兵時分は給膳だけが楽しみだもの。……そうだな、一年あれば兵が剣に慣れる。新米軍吏の計算違いも減る」
「僧侶はいっぱしに呪禁じゅごんを唱えるようになるだろうな。神官は…いつだって、冠婚葬祭の使いっ走りに忙しい」
「妊婦の腹は膨らむし、爺婆じじばばは弱る」
「うまれるし、いなくなる。もっと好きになるし、結ばれる……」
「……やけに詩的だな…」
「そうじゃないか。男と女は、恋人にだってなれる……」
 ちいさく爆ぜる炎の前。屈んだ腕を、くいくいと引かれる。
 促されるまま、立ち上がれば。目前に白皙。身の丈の差異は小さく、くちびる同士はうんと近い。
──…ぺたりと。
 ほんのすこし、触れるだけ………
「一年は、二年に。二年は三年。四年、五年と繰り返すうちに……なにが変わってゆくのだろう」
「……さあ…」
ふいと、視線を逸らすのと同時。頬を指がくすぐった。あざやかな蔬菜そさいのかおり。土と水と陽光とをいっぱいに含んで、なおいっそうやさしげな。
「分からないのも、またたのしい」
「……愚かで、無駄なことばかりだったと落胆するかも」
「それはそれ。きっとすべてに意味があるし、たいせつだ……」
 耳元の声があたたかい。立ち昇る湯気やかおりより、ずっと肌に馴染む……ぬくもり。
 それはぺとりと頬骨に触れ。……また、くすくすと水場へ帰った。
「………まだできないのか?」
「んん、もうすぐだ。皿を出してくれ」
 ふわふわと、やわらかなにおい。吹き出す蒸気と竈の熱気。……顔のあつさ。
 それらのみんなをごちゃごちゃにして。……肌のあかみを誤魔化した。さっと立ち上がって、食器棚へ。
──…余計なことは考えまい。今日は、ご馳走なのだから。恋人の曰くは、祝い事だそうなのだし。ならば、楽しくやろう。
 白い大皿を取り出せば、鼻腔によいかおり。硝子扉に映った顔は、幸福そうに微笑んでいた。




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すっかり忘れていましたが、この秋で当サイトは五周年を迎えていたようです。(正確に数えていない不精管理者)
同時に、軍吏長が初めて文字になってからちょうど二年ほどになりました。

文字サイトとしての体裁がようやく保てるようになったのは、彼女がやって来てからのここ二年あたりですが……初めて文章を書き始めた頃からイコール五年と思えば感慨深いものがあります。

ここまで続けて来られたのも、日頃からご愛顧とご声援をくださる皆様のお陰です。今後もマイペースながら、日々精進していきたいと思っております。
いつも本当にありがとうございます。これからも末長く、当サイトの物語たちを見守っていただければ幸いです。(2015.11)

 
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