──少女の
頬に、
清みやかな
液を含ませる……。
やわらかい、仔どものくちびる。
おとこの
掌により傾けられた
漆器に触れて、ちゅうと
窄む──…。
「これ、きらいです」
「──舐めるだけで構わない。……邪気払いだ。」
男の指は硬く、長く、ふしばんでいた。
不毛の山の
冬陽と、
雪峰の反射に
灼けた濃褐色の
膚。
罅割れた指の腹には、ごくちいさな
丹塗りの
盃。ほのかに、酒精と
生薬とが香る──。
──…
屠蘇酒であった。
「まずいです」
「──そうか……」
少女が味を嫌うので、誤魔化すためにずいぶん
味醂を混ぜてある。
「──べえ、」
そんな工夫も意味はなし──…。
少女はちいちゃな舌を出し、ぴろ、ぴろ、とさせた。
「あと、ぜんぶ、あげます」
屠蘇の味やら香りやら、なにもかもが余程にきらいであるらしい。
「──…貰おう」
──交代で、漆の器をちいちゃな手に廻される。
なめ残しの
薬酒。同じ漆器の、ほのかに濡れた同じ縁を口に含む。──ふゆの朝の真水と似通うつめたさだ──…。
──男は、のみ干した。
うつおとなった
螺鈿の
盃を、揃い造りの台に置き──…巨きなかれの右の手は、少女の
つむりを撫でてやる。
「チャカさま、もっとして──…」
──そのちいさな生きものは、ここちよさげに
睛を閉じた。
かれは、めずらしく、薄っすらとえくぼを作る。
──するどい
目許をほのかに和め、
「──
今年も、」
──つぶやき、寡黙な男は微笑をみせた。ふしぎにやさしい笑みだった──。
「……宜しく」
「はあい」
──象嵌された青貝が
ちかと光る
銚子の内に、
屠蘇はたぷりと波打った。
──少女のほうも、からの
盃にたどたどしく残りをついで、
「──よろしくおねがいいたします」
つんと澄ましてそう言った。舌ったらずな声だった──。
「──有難う」
──男は、また、するどく削げたその頬に、
葩びらよりも幾分あわい
えくぼを掃いた……。
──その口唇の、ひび割れた
ひふ。乾いた部分は傷となり、いくらかの血が滲む。
……かれは、満たされた
盃を、くちびるに当てがった。
硬くなった傷口を──…酒精が
湿す。
──その、皮一枚。
皮一枚を捲った、かれの
咽喉の裏側を──邪気払いの酒が、ひいやりと、撫でた。
「──…」
その男のからだのなかで。
──臓腑は、
灼け
爛れてゆく。
「──…チャカさま?」
ツゥと──
屠蘇酒が冷たく流れていった、その内の部分から。
苦痛は、はてなく、湧き起る──…。
──…かれは、
嚥下する。
「──…いや。」
──年に一度の儀礼であった。
──…
暦改まるたび、屠蘇によりて邪を祓う……。
──この、ちいさき者に。“魔のもの”が付け入る隙を与えぬよう──。
──おさない口に
嘗めさせる、少女の舌へは祝い酒。
また同時に、おとこは、みずからもそれを呑み下す──…。
しょせん、
まじないに過ぎぬもの……。
──…けれど。かれの身へは、水銀を
ひたと
充した
毒杯にひとしいそれを。
(いつか──…)
……告げねばなるまい。
(この仔が大きくなる前に──…。)
おまえが慕う、そのおとこは。目前の庇護者とは──…。
──かように些細な、ささやかな、ありふれた
祝福さえも受け付けない、『
人鬼 』であるのだと──。
(いつか──…)
(──
喰うてしまいたくなる。)
──このいとしい生きものを……。
◆
──『
屠』は即ち殺すこと。
──『
蘇』……鬼の名だ。
屠蘇酒とは──
卑鬼を
屠り、邪気を祓う……。
(──…あの仔には
さいわいを。)
己が身には近しい破滅を。
──この身には、悪しきものが宿る。
──魔のもの……。
ひとは、それを鬼と呼ぶ──…。
◆
「おいしくないでしょう?」
「──…まあな」
「ぜんぶのむのですか?」
おとこは、ふふと笑む。
「──そうせねばならない。私はな」
「──…うそよ」
仔どもは、憤慨したように言う。
(──…
然う。
嘘吐きだとも。)
──少女のからだは悪しきものを寄せず、宿さず、年ごとに健やかに。
「──チャカさま」
「……うん?」
──男は……。
──…
毎年、毎年、毒を呑んでは
一年ごとに
おとろえる。
「きっと、やくそく、おぼえていてくださいね」
「──…勿論だ。」
── 『
屹度』と、いつも……。
そう
云って、この少女はさまざまなものを所望する。
──
鼈甲のくし。
──青磁の
柄がつく
水銀鏡。
──
亜鉛華の
白粉に、
珊瑚色の練り
べにを。
──…絹織りの、しろい着物を
購えと……。
……ふたり、こうして屠蘇を飲むように──、
「やくそくですよ、」
──いつの日か、婚儀の酒をと……。
──…仔どもの望みは白やかだ。
「きっと、きっと、まもってね──…」
「──…きっと。……護ろうとも」
──この仔のための祝い酒。
──
己がための毒杯。
……ひそやかな儀式であった。
(──…
想うてしまった、)
永い、ながい、自死のための……。
(──…だいじに、想うてしまった。)
このちっぽけな
いのちを──…。
(それこそが、何よりの毒だ。)
──
玻璃窓の向こう。
──
雪間の庭に、赤椿がぽとりと落ちた。
酒毒 -shudoku-