SSS『おぼれるしずく』
2015/06/12 00:00
しとしとと、窓の外から雨音がする。
曇天も伴い、いつもよりずっと暗い夕暮れの景色を硝子越しに眺めながら、己は熱い湯呑みを啜った。
「……ペル! おまえは…人を散々馬鹿と罵るくせに、自分の方はどうなんだ…!」
ふん、と呆れ半分、説教半分で息を吐いた恋人は、薬缶を流しへ乱暴に置く。
がちゃんと、金属同士のぶつかる音がした。
「…まあ、そうかりかりするな」
「馬鹿が!」
濡れた髪を布で拭きつつ、宥めるつもりで声を掛ければ、罵声と共に頭を叩かれた。
「手厳しいな」
「大雨の日に! 屋根のある回廊沿いに来ればいいものを、わざわざずぶ濡れになりながら人の家へ飛んでくる奴が馬鹿でなくて何なんだ!」
「あれだと遠回りだから…」
「そういう手間を惜しむな!」
季節は、雨季の最盛期。
何処かで雷鳴が轟く。
「早く来たかったんだ」
「大馬鹿が!」
また、頭上で拳が炸裂した。
己はただただ、首を竦めて平謝るのみである。
「二度とやるな!」
「……うーん…」
保証しかねると言葉を濁せば、水分を吸った拭布ごと頭髪を掴まれ、わしゃわしゃと揉みくちゃにされた。
頭皮が引き攣れて痛い。
「痛い」
「風邪でも引いたらどうする!」
「大丈夫だ。もっと優しく拭いてくれ」
「甘えるな!」
信じられない力で頭蓋を圧迫され、目の前がちかちかとする。
零さないよう、慌てて湯呑みを卓に置き、渋々「もうしない」と約束した。
「なんて馬鹿なんだろう…」
はああ、と。
疲れたように息を吐いて、彼女は長椅子に腰掛ける。
隣り合ってはいたが少し距離があったので、すぐ横まで体を滑らせ近寄った。
「……何だよ…にやにやして…気持ちの悪い…」
「…いや…いつもと逆だなと、思って」
普段はこちらが世話を焼いてばかりだが、たまにはこうして世話を焼かれるのも悪くない。
「……うん、いいな、これ」
「気色悪い」
頬を緩めて言えど、返ってくる言葉ばかりはいつも通り、つれない。
相手は鼻に皺を寄せ、あっちへ行けとぞんざいに手を振る。
それを無視して、腰元を抱いて引き込めば、腕をぎゅっとつねられた。
「いたい」
「甘えたの馬鹿には丁度良い」
「良いじゃないか」
「調子に乗るな」
腕の肉をひねり上げる力が段々と強くなるので、慌てて言い添える。
「寒いんだ」
暫しの沈黙ののち、面倒臭そうに手を離した相手は、その体の力を抜いた。
しめたと隣の腰を持ち上げて、己の膝の上に降ろす。後ろからぎゅっと抱え込んで、肩に顎を乗せた。
「…………」
氷のような目でぎろりと睨まれるが、構わず頬を首元へ擦り付ける。
一瞬身じろぎして、彼女は苛立たしげに舌打ちした。
寒いというのは、嘘ではない。
夕暮れ時の気温が下がった頃合い、豪雨を思い切り浴びてきたのだ。
自業自得と言えばまさにその通りだが、何より早く、此処へ帰り着きたかった。
会いたかったのだ。
そう言っても、返ってくるのは天邪鬼な答えばかりだろう。
「おまえ、あったかいな」
代わりに口をついて出たのは、それだけだった。
「ペルが冷えているんだ」
「そうかな」
相手をより強く抱き込んで、閉じ込める。つめたいと、彼女は言った。
構わずに、うなじに唇を付ける。また、つめたいと彼女は身を捩って。
やがて、諦めたように背中を凭れてきた。
あたたかい。
「……いつもは…ペル、おまえの方があったかい」
ぶつっとした、少し低い、女人の声。
愛想の欠片もないそれ。
だと言うのに、どうしてか。
どうしても。どうしようもなく、この声に溺れている。
「そうだろうか」
首筋の、襟元と素肌の境に顔を押し付けた。
息を吸い込めば、ほのかに、やわらかく、あまい。
「…うん、そうだ。どうしてだろう」
声だけではない。
この、ぬくもりに。やわらかさに。あまやかさに。
「さて…獣だからかな」
溺れているのだ。どうしようもなく。
「そっか、鳥だもんな」
二人して、くすくすと笑い合う。
あまやかな、あまやかな、あたたかい時間。
ふと、それが、通り雨に咲いた薄紅の花弁のように、儚く感じる時がある。
この刹那の永続性は、どうやったら証明されるのだろうか。
「……なあ、」
ああ、胸が、あつい。
「…うん?」
いとおしい。
「…おれたちは……」
振り返った彼女と、目と目があって。
示し合わせもしないのに、口唇はやわらかく触れる。
それが、熱を持ったように甘美に感じるのは、やはり己の体が冷えているからなのだろうか。
心臓が訳もなく苦しいのは、せつないのは、幸福さゆえか。
「おまえ、どこにもいくなよ」
「どこへ行けるというんだ、おまえみたいな甘えたがいるのに」
雨はしとしとと、降り続けた。
おぼれるしずく
(滲んで、見えなくなったのは)
****
梅雨なので、雨の日の話を。
6/12日、恋人の日のSSSでした。