花曇

-hanagumori-
「なまえ、帰んぞ」

 ここ数日聞くことのなかった春千夜の声。振り返れば、彼は教室の出入口にもたれ掛かりわたしを真っ直ぐ射抜いていた。長い睫毛に縁取られた艶めく瞳。以前よりも鋭さを増したそれは、人々を圧倒させるなにかがあった。静まり返る教室。恐怖、羨望、憧憬。様々な視線がわたしや春千夜に向けられると、彼は小さく舌打ちをしてわたしを待たず踵を返していく。

「待って春千夜……!」
「おせーよ」

 また一つ春を重ね、高校一年生の初夏。わたしたちは以前と変わらぬ日々を送っている。春千夜が登校した日は必ず教室まで迎えに来て、共に下校する。もちろんサボっている日もよくあるので毎日ではなかったけれど、春千夜がわたしの家の前を通る度、そして教室に迎えに来る度、嬉しくて、安心した。

「今日、来てたんだ……」
「さっき来た。そしたら四限までだった」
「ええ? この間メールしたのに……」
「そうだったっけ」
「そうだよ」

 それでも不安は残っている。わたしの知らない春千夜はあれから一度も見ていないけれど、わたしがいないところではきっとあの姿でいるんだと思う。本当はあの日見たこととか、わたしの知らない部分を知りたいと思っているけれど、拒絶されてしまったらと思うと中々踏み出すことが出来ずにいた。もしそうなれば、わたしたちは今までと同じような幼馴染ではいられなくなってしまうから。いや、もう既に遅いのかも知れないけれど。
 わたしたちは変わった。以前と同じようなただの幼馴染ではなくなってしまった。なぜなら、わたしが春千夜を好きになってしまったから。異性として。恋愛感情の意味で。
 ねえ知ってる? 春千夜。わたしと春千夜、付き合ってるんじゃないかって噂が流れてるんだって。怖いけど、わたしには優しいように見えるんだって。それが本当ならよかったのにって、何度思ったことだろう。大人になっていくにつれ、彼は綺麗になった。本人に言えば嫌な顔をするだろうが、本当に、綺麗に。
 わたしと同じくらいの長さまで伸びた春千夜の髪が風によって靡く。それはどこまでも陽の光を吸収して、そして瞬かせて煌めいた。以前のように手を繋ぐことはもうなくなってしまったけれど、彼の隣をこうして歩けることが嬉しい。ほかの女の子よりも特別な気がするから。けれども同時に、もどかしいとも思った。

「……春千夜?」

 珍しく春千夜の携帯が鳴ったかと思えば、彼は画面を見たのち石のように固まってしまった。音の短さからしておそらく通話ではなくメールなんだろうが、固まるほどの内容だったのだろうか。珍しい彼の姿に恐る恐る彼の名を呼ぶ。すると春千夜は視線を彷徨わせると、「このあと行くとこ出来た」と少しだけ俯いた。

「あ、うん。構わないけど、大丈夫?」
「ああ……。それよりお前、今日は絶対寄り道すんなよ」
「……わかった」

 下校時に春千夜と途中で分かれたのはこれが初めてのことだった。彼は最寄り駅までわたしを送ると「明日は多分休む」と言ってくるりと踵を返していく。そのうしろ姿はあのとき一瞬見えた、わたしの知らない春千夜で。ああ、あの人たちの元へ行くのだと悟った。
 わたしの知らないところでは春千夜はいつもああなんだろうか。男の子にも女の子にも。丁寧な言葉遣いで、柔らかく微笑んで。それとも、わたしが知るような春千夜のままだろうか。どっちにしても、嫌だと思った。けれどもこのまま時が経てば、いつかは春千夜にも好きな人が出来て、特別をたくさん与えて、キスをする日が来る。ふと、小学生のころに見た保健体育の授業内容を思い出した。そういう行為だって好きな人が出来て、彼女になればいずれする。いやもしかしたら、もう。たまらなく辛かった。やっぱりただの幼馴染ではもう満足出来なくなってしまった。春千夜に触れたい。春千夜をもっと知りたい。彼の、幼馴染としてではなく、違った特別になりたい。


* * *


 臆病なわたしは今の関係性を壊す勇気もなく、以前と変わらぬ日常を送り、また、春を迎えた。

 クラスメイトの女の子が春千夜に告白をしたらしい。返事はその場であっさりと断られてしまったようだが、わたしはどうしようもなく焦っていた。もちろん今までもそういう話がなかったわけではない。けれどもそのころはどこかまだ自分が彼の特別な枠にいると思っていたから戸惑いはしたものの、ここまで焦ることはなかった。
 霞がかった空模様。ぼんやりと月だけは見えているが、星は一つも見えない春の夜。近ごろ春千夜と全く会わない日が続いていて、わたしはいてもたってもいられず彼の家の方まで歩き出していた。別に押しかけるつもりもない。なんとなく外に出たら足が勝手にそちらに向かってしまっているだけだ。ただ、ほんの少しだけ。奇跡的に会えたらいいなとは、思った。

「えっ、」

 そうして奇跡は本当に起こってしまった。遠くからバイクの走る音が聞こえたかと思えば、角を曲がった先に見えたのは金髪の男の子。それは正しく今会いたいと望んでいた春千夜で、彼はわたしに気がつくと、そのままわたしの目の前に停車して鋭い眼差しでわたしを見つめた。

「なにしてんだよ」
「えっと……コンビニ」
「ンな時間に出んじゃねぇ。帰れ」

 春千夜の家にバイクが置いてあるのは知っていたけれど、乗っているところ見たのは初めてだった。そして冷たい表情と声音も。普段から素っ気ないことはあったけれど、こんなにも威圧的に言われることは今までなかった。跨るそれからは低い唸り声のような音が響いて、次第にわたしの心臓も早鐘を打つように大きく音を立てていく。

「ご、ごめん……なさい。ごめん……春千夜」

 このままどんどん知らない春千夜が増えていって、わたしたちの関係も薄れていくのだと確信した。そもそも彼はわたしのことなんてどうでもいいと思っているのかも知れない。いつまで経っても離れない幼馴染。確かにそんなの、鬱陶しいだけだ。
 俯いていていたため、春千夜の表情はわからなかった。嫌な顔をされてしまえば、それこそ本当に立ち直れないと思ったから。エンジン音が止まる。するとわたしの頬に添えられたのは彼の手のひらで、彼は指の腹でわたしの頬を一度撫でると「わりぃ」と小さく呟いた。

「怒ってねぇよ……いや怒ってはいるけど。危ねぇから夜中に出んのはやめろ」
「……うん」
「まじでなんでここにいんの?」
「それは、」

 春千夜に会いたくて。喉の奥まで出かかったそれをなんとか堪えようとするけれど、堪えようとすればするほど目の奥の方から熱が湧き上がってくる。こんな、突然泣き出したらそれこそ嫌がられてしまうだろうに。それでも一度溢れ出したら止まらなくて、ポタポタと地面にそれらが落ちていく。春千夜の手のひらが固まったように少しだけ震えた。

「っ、ごめ、ごめんね……」

 今度こそ拒絶されると思い、下を向いたまま両手をきつく結ぶ。しかし春千夜はしばらく黙り込んだあと、微かな声で「怖いか」とだけ尋ねた。

「え……?」
「オレが怖いか」

 ハッとして顔を上げれば、そこには苦しそうに表情を歪ませた春千夜がいた。怖くなんてない。そんなの、一度だって思ったことはない。だって、どんなに冷たくても必ず眼差しは、差し伸べた手はいつだって優しかったから。

「違う、違うの、春千夜……。わたし、わたしね、」

 緊張で、唇が僅かに震えた。

「春千夜のことが、好きになっちゃったの……」

 もう一度涙が溢れた。これでもう後戻りは出来ない。ただの幼馴染ではなくなってしまった。沈黙が痛い。爪がくい込んだ両手の甲も痛かった
 けれどもその瞬間。春千夜の手がわたしの腕を引くと、彼の額がわたしの肩にこつんとぶつかった。突然縮まった距離に思わず息を呑む。香る匂いも、感じる熱も、以前と同じのようで違う。緊張して、上手く呼吸が出来なかった。

「は、はる、ちよ……?」
「オレは、」

 春千夜は少しだけ躊躇うように深く息を吐いて、そして大きく吸った。

「オレは、もうそんなの、とっくのむかしからそうだっつぅの」

 言葉の意味を理解するにはあまりにも大きすぎる告白だった。身体の内側からどんどん熱が広がっていって、おかしくなってしまったかのように心臓が高鳴る。春千夜がわたしのことを好き? むかしって、いつから? わたし、春千夜の特別になってもいいの? 

「でもだから……お前には、お前だけのオレを見てて」
「わたしだけの、春千夜?」
「お前といる時のオレは、全部お前のだから」

 なまえ。と、わたしを呼ぶ声はいつになく切なそうで、そして必死そうだった。多分春千夜は、わたしの知らない春千夜を知って欲しくないのだ。それはもしかしたら、好きな人にはいいところだけを見せたいとか、なにか秘密を隠したいとか、そういう感情なのかもしれない。

「うん……。春千夜、大好きだよ」

 きっと、もうずっと前から。

「春千夜は、わたしのこと好き?」
「……ああ」
「ちゃんと、言って」

 彼は舌打ちを一つしたあと、たった一言、「好き」とだけ言った。どんな春千夜でもきっと、わたしは嫌いになることなんかないのだろう。それはこの先もずっと。けれども春千夜がそう望むなら、彼の望むままのわたしでいようと思った。ずっとむかしから知っている彼を、彼の姿を、わたしだけは見続けていようと思った。無愛想そうなようで、優しくてかっこいい、わたしの大好きな幼馴染の男の子。



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