■ Aquarius (1/10)
じめじめと、湿気が身体に纏わり付く。
冷房の効いている筈の構内に居ても、この季節に入ったのだと知らせるような空気を感じる。 ――
鬱陶しい程に。
「なあ、卒展のテーマと趣旨の提出類、もう書けた?」
学食で一緒に昼飯を食べていた、同じ絵画コースの友人に聞かれて、ステーキにナイフを入れかけていた手を止めた。
「え? うん、とっくに出来てるよ」
来週には、第一回プレゼンがあるこの時期に、出来ていない筈が無い。
「ふーん、じゃあ今夜とか、どっか遊びに行かない?」
「うーん、今日は…… たぶんダメかな」
言いながらステーキにナイフを入れていく。 じわっと薄く血が滲んでくるのを見て、思わす喉を鳴らした。
お前、今日みたいな蒸し暑い日に、よくそんなの食えるね。 と、友人は半ば飽きれたような声を出しながら炭酸飲料を飲み干して、「なんで、卒展の提出書類出来てんのに…… 何か予定でもあるのかよ」と、続ける。
「…… うん。 予定が入る予定」
何それ…… と、あきれ顔の友人の言葉をスルーして、一口大に切った肉を口の中に入れると、蕩けるような肉汁が口内に広がった。
**
「…… 岬くん」
食器を返却口に返しているところに、心待ちにしていた声に後ろから呼ばれた。
口元が自然に緩みそうになるのを辛うじて堪えて、平静を装って振り返る。
僕を呼び止めたのは期待していた通り、雨宮 侑(あまみや ゆう)教授だった。
「雨宮 先生」
ゆっくりとした足取りで近付いてくる雨宮教授の、少し伸びた前髪がふわりとなびいて、黒い瞳が、真っ直ぐに僕を捕らえていた。
「卒展の提出類が、君だけまだのようだけど」
「はい、すみません。 あともう少しなんです、今日中に提出しますので」
「いつも課題の期限をきっちりと守っている岬くんが遅れるのは珍しいね。 じゃあ出来たら持ってきてくれるかい?」
「はい。 遅くならないように頑張ります」
*****
あともう少しで出来る…… なんて嘘。
もう随分前に出来上がっていた卒展のテーマと趣旨などを書いた書類を机の上に置いて眺めていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。
時計を見ると、もう7時になろうとしている。
(ちょっと時間を潰し過ぎたな……)
先生は、まだ居るだろうか……。
いや、居る筈だ。 真面目な人だから、僕が提出しに来るのを、きっと待っている。
書類を纏めて提出用のクリアファイルに入れて、雨宮教授の部屋へ向かう。
人気のない廊下に僕の歩く靴音だけが響いていた。
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【clap】『ESCAPE』番外編SS
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