弐
「じゃあ、一杯よろしく」
名前は溢さないようにと慎重に徳利を傾けた。夕餉を済ませ、食後の一杯だとか言い、半兵衛は名前に酌をさせる。
「お酒、お好きなのですか?」
「たしなむ程度さ、それにあまり強く無い」
半兵衛はそう言い、コクリと喉を鳴らして一口で猪口を空にした。
あまり強くは無いと言ったけれど、酔ったらこの人はどうなるんだろう。そう思いながら名前は酒を注ぐ。
「信玄様は酒を水の様に飲んでおられました」
「ああ、彼は強そうだものね」
「もうひとつどうぞ、半兵衛様」
名前は小さな悪意を込め、空になった猪口へすかさず酒を注ぐ。徳利がひとつ空になると、廊下に控える女中に熱燗を持つよう命令した。
「おいおい、もう十分だよ」
「いえ、まだいける口でございましょう?」
半兵衛の待ったも聞かず、名前は次々と酒を注ぐ。いっその事、酔いつぶれてしまえばいいのだと。
しかし、彼は飲ませても飲ませても、顔色一つ変えずに進められる酒を煽り続けるだけだった。
(強くないなど言って、結構上戸?)
上辺だけの世間話に花を咲かせる半兵衛は、機嫌が良さそうだ。これ以上変化が無いのなら時間の無駄だ。
我に返った名前は、徐々に酒を注ぐ頻度を減らしていく。それに気付いたのか、半兵衛は空になったお猪口をつい、と催促するかの様に差し出した。
名前はたじろぎ、盆の上で空になった数本の徳利へ視線を落とした。
「・・・半兵衛様、飲みすぎでは・・・」
「君が飲め飲めと注ぐからだろう?」
「・・・・・。酔って、おられるのですか?」
「・・・」
半兵衛は猪口を畳に置き、そして肘掛けへ肘を立てて頬杖を付き、名前を睨む。
しまったと思った。彼の機嫌を損ねてしまったのでは。
「君は知っているのかい?それとも誰かに言われた?」
「・・・え?」
仕出かしてしまったのではないか?名前はそんな気がしてならず、不安気に胸が高鳴った。
蝋燭の火でユラユラと揺れる目は、じっと獲物を狙う蛇のようだ。彼は黙りこみ、それが更に不安を駆り立てた。
静まり返った部屋に、重い沈黙。名前は彼の視線に我慢できず、顔を下へ向ける。
そうしていると、突然外がサアアア、と音を立てた。どうやら雨が降ってきたようだ。朝から曇っていたのだから、雨は降る。この寒い夜に冷たい雨。
「あ、雨・・・ですね。冷えて来ますでしょうし、囲炉裏を・・・」
名前は突然の雨にしめたと思い、この重い沈黙を打ち破る。囲炉裏を頼もうと足早に戸へ向かう。
すると、その時だった。背後で半兵衛が動く気配がしたが、それと同時に彼は掠れるよな咳をゴホゴホと仕出したのだ。
名前は彼の咳に、ふ、と立ち止まりゆっくりと振り返る。彼は肘掛けにもたれ、肩を大きく揺すって咳をしていた。
「・・・半兵衛、様?」
「ゲホ!ゲホ!」
名前は立ち尽くし、ぽかんと彼が咳き込む様を見ていた。最初はただ咽返っているだけだと思っていたが、どうも様子がおかしい。とても苦しそうなのだ。
そして、じわじわと焦りだし、女中へ知らせようと歩を進めた時だ。
「行かないで!」
「!」
彼の制止に戸惑い、名前はその場でぴたりと止まる。そして少々考え込んだ後、半兵衛の横へ腰を下ろし、彼の背を擦った。
「ゲホ、ゲホ、・・・・」
背中を擦っていると次第に彼のゲホゲホとした咳は、コンコンとした小さな咳に変わり、徐々に呼吸が整いだ。
「半兵衛様・・・」
「なんでもない。ただ、驚いただけ」
「・・・雨音にですか?」
「・・・・そう、雨音に」
呼吸が正常に戻るも、未だ会話の途中でコン、と半兵衛は咳き込む。そんな彼の背を擦り続けながら、名前は記憶を遡る。
(・・・・これは)
彼の背は無駄な肉がなく、ごつごつとした背骨を手の平に感じた。兄の幸村の背とは全く違う、細くも女子とは違うそれ。
「いつからこうなのです?」
「・・・・・・」
「お侍医には掛かられましたか?」
名前の言葉に、半兵衛は驚きを隠さず目をぱちぱちと瞬いた。
「わかる?」
「・・・もし、そうならば。私の母上と同じです」
「ああ、そう。君の母君もそうだったの」
半兵衛は自虐的に笑うと、視線を流した。名前は彼の顔を覗き込む。彼は彼女の真剣な表情をチラリと見上げ、観念したかの様に笑った。
「酒はたしなむ程度にと止められている」
「・・・・あ、私」
「僕が病気だと知る者はこの城でもごく一部だよ。だからあまり騒がないでくれる?」
「も、申し訳ありませぬ!私・・・」
名前は彼の背を擦っていた手を外し両手で口を覆う。半兵衛は小さくふ、と笑う。それはそれはとても小さく。
「擦ってくれないか?まだ胸が苦しいんだ」
「あ、は、はい!」
彼女は慌てて利き手を彼の背へ戻す。半兵衛はコンコンと小さく咳き込んだ。
半兵衛は目を伏せる。細いまつ毛が彼の眼球を覆い、ちらちらと。まるで晴れた日の水面の様だ。
(睫毛、長い)
→
戻る