伍
出発の日、幸村は城下まで彼女を見送った。
名前は一張羅を下ろし、華やかな着物に身を包んだ。何時もとは違う着物に、今日が正月であればいいのにと思う。
彼女は籠の窓から顔をだし、長旅は腰にきそうです。と笑っていた。
籠に乗り、髪には飾りをつけ、華やかな着物。ああ、まるで本当の輿入れのように錯覚してしまう。
「兄上、町を出ますのでこの辺で」
「あ、ああ」
幸村は山へ続く道をぼんやりと見つめる。風が吹いて葉が流れた。幸村は少々間を置き、馬から降りる。
「あ、降りずに、兄上」
「よい、それより名前」
幸村は馬から降りると身を屈め、籠の中へ上半身を突っ込んだ。中は思った以上に広い。ならばと、許されるまで顔を突っ込む。
これなら外の者にも見られぬし、聞かれぬだろう。
「なんですか、兄上。狭いではありませぬか」
名前はくすくすと笑いながら、籠の中へ入り込んだ幸村の頬を撫でた。
「竹中殿には気をつけられい。それと、早く戻るように」
「兄上は一向に私から離れられませんね」
「・・・そうだ、それはこれからもだ」
名前はきょとんとしながらも、幸村の頬をよしよしと撫でる手を休めない。
幸村は狭い車内へぐい、と片腕を侵入させ、彼女の背に腕を回した。その行動に、名前はまた一つ笑いながら嫌々と彼の胸を押す。
「酸漿の実が生る頃には帰ってきます」
「そうか」
名前は酷い女子だ。
彼女の中で某はまだ幼い子供なのだ。酸漿が生る頃に帰ってくる。そうしたならば庭でそれを摘み、どちらが先に鳴らせるか競おうと。子供のままのそんな約束。
ならば酸漿は全部摘んで捨ておこう。しかし、それでも名前は他の事で遊ぼうとなるに違いない。
「名前」
彼女の背へと回した腕に力を込めて胸へと引き寄せた。そして名前の耳の穴へ口を寄せる。
(某はお主を好いておる)
声には出さず。いや、出せず。その言葉を音にはせずに、彼女の耳の穴へ放り込んだ。
顔を放す時に、その耳たぶにこっそりと小さく口を寄せた。名前はくすぐったいと肩を竦める。
「道中気をつけるのだぞ」
「あ、兄上」
幸村が何事もなかったように、顔を放し籠から出ようとする時。名前は彼の両頬を両手で包み、捕まえた。
彼女の目は水面の様に揺れていた、ような。
「私には兄上しかおりませぬ、私が帰る場所は兄上です」
名前の手は、名残惜しそうに離れた。
「あー、行っちゃったね」
「佐助」
「旦那〜、姫さんが居なくて大丈夫?」
「・・・ああ、寂しいな」
「・・・ま、俺様としては騒がしいのが減って楽になるかな〜なんて」
「佐助、減給決定」
「ん?」
幸村はどんどん小さくなる名前が入った籠を、見えなくなるまでずっと見つめていた。
そんな幸村を見ながら、佐助はあーあ、と伸びをする。
(名前は)
名前は、多分、きっと、知っているのでは。
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