壱
それは何も前触れがなく、ある日突然の出来事だった。弁丸が自分専属の乳母から逃げ、庭で遊んでいる時の事。
「弁丸」
「何ですか?父上」
「お前は妹が欲しいとは思わんか?」
自分の元へやってきた父は、にこにこと顔を穏やかに緩めながら、弁丸に問うた。
突然妹が欲しいかなんて、何を考えて居るのだろう?弁丸の頭の中にはそんな疑問が浮かぶ。
「妹でござるか?」
「そうだ、妹だ。いらんか?欲しいか?」
「ほ、欲しいでござるが・・・」
「そうか、ならよい。ほら、おいで」
「え?」
すると、父の後ろから小さな頭がひょこりと現れた。
切り揃えられた前髪、まん丸な瞳、ふくっとした頬。それは明らかに自分とは違う生き物で、苦手だと感じていた乳母や女中と同じ女子であった。
「名前だ。弁丸のひとつ下での」
「・・・・名前です」
「・・・・・・」
弁丸は不思議で仕方がなかった。突然成長した妹が出来るなど。弟達だって自分だって、最初は赤子だった。
それなのに父が妹だと言うこの子供は幼子であれど、赤子ではない。
「す、すごいでござる父上!」
「ん?」
「某が欲しいと言うた妹が、父上様の手によればこうもポンと現れるなんて!魔法のようじゃ!」
「ふふ、魔法か」
弁丸はきらきらと瞳を輝かせ、彼女を熱く見つめる。どこかおどおどと怯えて居るような彼女は、父の着物の裾をぎゅう、と握りしめて居た。
父は名前の背を押し、一歩前に出させてやる。
「名前、これが弁丸。今日からお前の兄上じゃ」
「・・・弁丸・・・」
「そうじゃ、弁丸よ」
父は弁丸の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「名前はお主の妹。小さくて女子なのだ、守ってやりなさい」
「はい!」
ある日突然出来た妹。それは弁丸にとって父親が見せた最後の魔法だった。
―コロコロ・・・
「ん?」
「弁丸様ーっ」
赤い球体が、風に吹かれコロコロと地面を泳いで行く。その赤い玉は弁丸の足に当たると、そこで止まる事をせずに再び風に乗って地面を転がって行く。
そして庭の奥からよく知った幼子の声。
「弁丸様ー!拾って、それ名前の!」
「む!」
その赤い球体が少女の物だと知ると、弁丸は着物の裾を上げ、転がる球体に向って一目散に走り出した。
「と、止まるでござっる!」
何度手を伸ばしても、風は彼を嘲笑うかのように球を転がしてしまう。
「むう!こしゃくな!」
痺れを切らした弁丸は、両手を広げて地面へ飛び込んだ。ずざざざ、と砂埃を上げながら彼は地面を滑る。
着物は土でぐしゃぐしゃだ。また乳母に叱られる。しかし、それでもよかった。
「あっ!」
「とってやったぞ、名前!」
「わあ!」
彼女は弁丸の胸に飛び込んだ。少女のつむじはどこか乳臭い。自分も同じ部類に入るだろうが、幼子と言うのはどうしてこんにも小さくて温いのだろう。
「ありがとう、弁丸様!」
「手まりでござるな、こんな物持っておったか?」
「父上様が買ってくれたの」
「そうか」
その赤い手まりは、金や銀の糸で丁寧に刺繍が施されており、とても可愛らしい物だった。
弁丸の胸に飛びついた少女は、頬をすりすりとよせて彼にすがる。簡単には放してくれなさそうだ。
「一人で遊んでおったのか?」
「うん」
「乳母の者は?」
「・・・名前は一人で遊ぶ方が好きなの」
「まったく」
弁丸は短い腕で少女の身体をぎゅう、ときつく抱き締める。自分の胸にすがってくる少女が、たまらなく可愛らしいと思うのだ。
「弁丸様苦しいな」
「弁丸ではない、兄上と」
「・・・・・」
名前は照れているのか、困っているのか。眉をへの字に曲げながら、恥ずかしそうに口をもごもごと動かしている。
そんな彼女を見て居ると、弁丸の口元がによによと歪み出した。
「名前はかわゆいのう」
「べ、弁丸様」
「あにうえ!兄上と呼ぶのじゃ!」
「〜・・・あ、あにうえさま」
弁丸は妹の身体をさらにきつく抱き締める。兄弟は男ばかりだったせいか、彼は妹が出来た事に堪らなく嬉しくて仕方がなかったのだ。
「某が遊んでやろう!」
「本当?!」
ああ、そうだ。そなたと遊んで差し上げる者が居らぬのならば、其が飽きるまでお相手して差し上げるのに。
望むならば、嫌気が差すほどに。
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090729
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