肆
彼女は畳へ倒れ込む。その様を見ならが、後ろ手に戸を閉めた。
彼女は身を起こし、ユラユラと揺れる瞳で彼を見上げた。幸村はその目を直視できず、視線を足元へ落とす。
何故自分がこんな行動をとるのか、分かるだろう?分かって居るのなら、某の願いを叶えてくれないか?
「名前、知って居るのだろう?某の事」
「・・・・・」
「名前」
「・・・、・・・」
彼女は下へ俯き小さく口を開けた。幸村は音にならないその声を、肯定と受け止める。
(お主なら)
分かっているだろう?どれだけお前を特別にしてきたか、某の想いを気付いていたのだろ?それを知りながら、お前はここを出て行くのか。
「お主は、半兵衛殿の元へ行ってしまうのだな・・・」
「・・・!」
彼女がぱっと幸村を見上げる。その目には涙が溜まり、今にも落ちそうだ。
「半兵衛様は大切な人です。・・・けど、それ以上に兄上は私にとって特別です!」
「何を言う」
「ずっと、・・・ずっと前から覚悟の用意は、しておりました」
「・・・・!」
自分の心臓がバクバクと五月蠅い。が、彼女の繊細な緊張感もしっかりと空気を通し伝わって来た。
彼女は何を言っているんだ、それはつまり。
幸村はごくりと喉を鳴らす。ざわざわ騒ぐ胸の中と、意外にも淡白で冷静な頭の中。見下ろす先には闇に浮かぶ彼女の肌と黒い髪。
闇夜にはとっくに目が慣れた。目の前にあれ程焦がれた体があるのだ。そうか、これがあの女顔の物になるのか。自分の知らない彼女を触れて確かめる事が出来るのか。
名前の瞳はたっぷりと水分が含まれ、ゆらゆらと揺れている。しかし、その顔に恐怖の色は無かった。
そうか、彼女は知って居て覚悟もしていたのか。
(いかん)
「兄上・・・」
(駄目だ!)
名前の手が、幸村の着物の裾を掴んだ。
「兄上が望むのなら、好きにして構いません。兄上を知って・・・私はお嫁に行くのです」
(抱いてしまえば、この娘を殺してしまう気がする)
もしその身の味を知れば、きっと放せなくなる。他の男の元へ行かせたくなくなってしまう。
頭の奥で誰かが囁く。さすれば、彼女の動きを止めてしまえばよいのだと。首を締めればよいか、刃をその柔い腹へ刺し込めばよいのか。それを想像し、血の気が引いた。
すると自分の体に何かがふ、と影を齎した。ぎらぎらとしていた感情が静かになっていく。
―名前はお主の妹。小さくて女子なのだ、守ってやりなさい―
頭の中で風が吹き抜け、熱を冷ましてくれる。父の言葉を思い出した。父は、名前を守ってやりなさいと言った。
(某は・・・)
自分は何故、彼女を抱こうと、殺してしまおうなどと考えた?彼女を守る立場の自分が、何故彼女の不幸を思ったか。
最後だからと良くない悪あがきをした。明日、お館様に殴って貰おう。
「名前、何を言っておる」
「・・・・兄上?」
「某は、何も言って無い・・・」
名前はぱちぱちと瞬きをする。その拍子にポロリと涙がひとつ落ちた。もう一度「何も言って居ない」と呟くと、名前はぶわりと涙を溢れさせた。
名前は心の優しい娘だ。そして、なにより残酷な酷い女なのだ。
幸村は抱いてもいいと言う彼女を、自分から守る為に必死で戦っている。
「・・・父上から」
「え・・・?」
「父上に、お主を守れと言われた」
単純と言えるほど真っ直ぐに人を慕う気持ちは、複雑に曲がりくねり妹の身へ注がれてしまった。どこでどう、間違えたのか。
「私には兄上しかおりません、私が帰る場所は兄上なのです」
「そう言うて、半兵衛殿の元へ行くではないか」
「・・・・・」
「・・・・・」
「半兵衛様の元へ行くけれど、私の特別な殿方は彼だけではないのです。兄上は私にとって父上より、・・・半兵衛様より特別なのです」
彼女はまるで幸村を睨むように食いかかった。その姿は、幼い頃の彼女と被る。そう思うと口の端から小さな笑いが出た。
笑みを浮かべる幸村に、名前はポカンと口を開け首を傾げた。彼女の髪の束をひとすくい掴み、口を落とす。
「それだけで、・・・十分だ」
「・・・・あ、あに、兄上が、兄上で無ければ良かったのに・・・」
名前の腕がするりと首へ回り、幸村の頭を抱く。彼女のその言葉で幸村は満たされ、そして何かを失った。
彼女が、妹で無ければ良かったのに。
「・・・お前の幸せを誰よりも願う、・・・でござる」
「私もです」
彼女の頭をよしよしと撫でる。
木に登れない、箸が上手く持てない、佐助に怒られた、酸漿が鳴らせない。幼い妹は小さな事で直ぐに泣き、自分の胸へ飛び込んできた。
その度に、よしよしと頭を撫でた。そうすれば直ぐに笑ってくれる。鮮やかで儚い記憶はより一層色を濃くし、もう忘れる事は出来ない。
自分と彼女は、この時を持って兄妹でも、ただの男と女でも無くなった。そんな気がしたのだ。
―ガラ
「旦那〜そこに姫さんの手毬が落ちてたんだけ・・・ど?!」
「あ」
「佐助!」
すると、突然戸が開き、見回り途中で在ろう佐助が二人を見て目を見開いた。
幸村と名前が抱き合い、しかも名前の方は泣いているではないか。佐助は眉間にぐ、と皺を寄せる。
「ちょー!あんたら幾ら仲が良いたってね、もう夜中よ?!」
佐助は忍の癖にどかどかと足音を立て、幸村を彼女から引き剥がし畳へ放り投げた。
幸村は畳にごつりと頭をぶつけ、痛みの余りに頭を押さえて飛び起きた。
「〜〜佐助っ痛いでござる!」
「姫さん、あんたもね〜嫁入り前なんだから少しは淑やかにしててよ。こんな時間に兄といえども男の部屋には来ない!駄目!」
「は、は〜い」
「旦那も姫さんも、ちゃんとお互い兄妹離れしてよ?まったく」
佐助はやれやれと大きく溜め息を吐き、腕を組んだ。幸村と名前は向かい合い、クスリと笑った。
「それより何してたの、こんな時間に」
「・・・・兄妹喧嘩、かな?」
「え?」
「そうだな、兄妹喧嘩してたでござる」
「ええ?」
その返答に佐助は大きく驚き、二人を交互に見つめた。佐助の反応がおかしいのか、名前は大きくはにかみ肩をくつくつと揺らした。
「今、和解した所だ」
そう言うと、横でクスクスと笑っていた名前の笑い声が次第に小さくなった。等の佐助はならよかったと、どうでも良さそうにしていた。
それから数日後、名前は良く晴れた日の朝、半兵衛の元へ嫁いで行った。
彼女は父が魔法で出した幻だったのかもしれない。自分に妹など居なかったのだ。何故なら、自分は妹を女子として見てしまったのだから。
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