壱
それはとてもよく晴れた、暖かい日だった。
黄緑も深緑も、すべての緑は太陽の光を受けキラキラと輝いている。時折吹く風は暖かく、夏の訪れを予感させた。
なんて気持ちの良い日なんだろう。誰もがそう思い、町へ出かけるだろう。
この物語の主人公、真田幸村は川へ来ていた。まだ泳ぐには早いが、遠乗りの目的地としてはとても心地よい場所だ。川の流れる涼しげな音、鳥の囀り。
川の水は透き通り、深い場所はとても綺麗な水色をしている。梅雨があけたその水の塊は、新しい水になろうと流れを速めている。
「うおお!」
幸村は大きく叫ぶと、体中の力を籠めて腕を振り切った。幸村の手から、赤い球体が投げ放たれる。
その赤い球体は、太陽の光を一杯に浴びながら甲をゆっくりと描き、銀の刺繍がチラチラと光って落ちた。
「はあ、はあ、はあ・・・」
幸村は心なしか息を切らし、その赤い球体の落ちる様をただ見つめていた。
―ポチャン
それは川に落ちる。
「・・・・これで、よかったのだな・・・」
その赤い球体は川に落ちると、水の流れに乗りどんどんと遠くなっていく。
キラキラと水面が反射する水色の狭間に、無機質な赤い色が遠ざかる。幸村から離れていく。どんぶらこ、どんぶらこと。
そして赤色は直ぐに見えなくなった。川の一部となり、消えてしまった。あれは何処まで行くのか?海へ行くのか途中で魚に食われるのか。それとも誰かに拾われるのかも。
(・・・・・さらばだ)
幸村が川へ投げ捨てた赤い球体は、彼の妹が幼い頃から大切にしていた手毬だった。
木漏れ日から射す光がチカリと目を刺激し、彼は眩しそうに空を見上げた。そして幸村は少しだけ笑う。それはとても清々しい物だ。
―それは一年も前の事。
幸村は血相を抱え、廊下をドタバタと荒々しく踏みつけ歩いていた。
ずんずんと進む先には目的の部屋があり、その部屋は沢山の女中達が溢れ、室内の妹へ向け言葉を掛けていた。
「おかえりなさませ、名前様」
「はい、只今帰りました」
「この度は、おめでとうございます」
「はい、ありがとうございます」「あ、幸村様」
「?!」
廊下にはみ出した女中が幸村に気付くと、室内に居た名前は女中達との談笑を止めぴょこりと膝を立てた。
「あ、兄上?!」
「皆の者下がれ」
女中達はクスクスニコニコと笑いながら、その場を去っていく。幸村は彼女の部屋に入る前、ごくりと唾を飲み込んだ。
「・・・名前」
「兄上!」
名前はぱあ、と満面の笑みを浮かべぱたぱたと駆け寄り幸村の首へ腕を回して抱きついた。
「名前!」
しかし、抱きついて来た名前を幸村は瞬時に引き剥がす。名前はポカンとした顔で幸村を見上げた。
いつもの自分ならば、照れながらも嬉しくて引き剥がすのが惜しいと思ってしまう。
しかし、自分は爆発しそうだった。本当の事を確認しなければ、暴れ狂うにはまだ早い。
「名前!どう言う事でござる?!竹中へ嫁ぐなど!」
「文でお知らせした通りです」
「・・・半兵衛殿に迫られ断れなかったのか?」
「そう言う訳では・・・」そうなのだろう!そう決めつけ、そうだとして。それならば。自分は妹の為、戦力を持って美濃の国へ攻めに行こうと思う。
「私がそう、決めたんです」
反射的に耳を塞ぎたくなった。違うと言ってくれればどれだけ良かったか。何故、そう決めてしまったのか。
名前は元居た場所に腰を下ろすと、乱雑に置かれたいくつもの行李に、私物を詰めていく。気に入りだと言う簪も櫛も筆さえも。
(何故、半兵衛殿に惹かれてしまった?)
その知らせが来たのは十日程前だった。自分は、早く帰って来いと名前、そして彼にも文を送り続けていた。
妹を人質にしている張本人から文が来た時、やっと彼女は自分の元へ帰ってくると安堵したのが束の間。文を開いて幸村は驚いた。
彼は妹を嫁に欲しいと言って来たのだ。もちろんそれは却下のつもりだった。だが、彼女も承諾してると言うではないか。
(予感は当たってしまったか)
式や新生活の準備の為、名前を一度甲斐へ戻すと彼は言ってきた。あれ程早く帰ってきて欲しいと願っていたのに、彼女が戻ってくる日が恐ろしかった。
彼女は直ぐにまた彼の元へ行ってしまう。心も体も。そしてもう二度と、会う事は出来ないだろう。
幸村は拳をきつく握り、名前を見下ろす。すると、誰かが自分の肩を叩いた。音も無く佐助が現れたのだ。
「何突っ立ってんの旦那?」
「・・・・・」
「あ、佐助」
「姫さんおかえり」
佐助は幸村の気も知らず、ニコニコと笑いながら幸村を置いて名前の部屋へ上がり込む。幸村は誰にも、佐助にも気付かれない様に奥葉を噛みしめる。
「ついに姫さんも嫁に行っちゃうんだね〜」
「佐助には一杯お世話になりました」
「はは。直ぐに発つんでしょ?嫁入り道具揃うの?」
「とりあえず桐箪笥は持って行こうと思うんだけれど・・・」
「あとは鏡台と・・・あ、蔵も見て来ようか?確か羽毛布団があった筈」
「ふふ、ありがとう佐助」
「ほら、旦那も突っ立ってないで荷造りの手伝いしなよ」
(佐助の方が)
佐助の方が、兄である自分より遥かに兄らしい。普通、妹が嫁入りとなれば兄は祝ってやるものだ。しかし、自分はそんな気分にはならない。無理すぎる。
何故、自分は彼女を妹以上に女子として見てしまったのだろう。何故、このような気持ちを持ってしまったのだろう。
何歳の自分を責めればいい?出会った頃の自分か?それとも今現在の自分をか?
佐助と名前は楽しそうに笑いあって居る。二人の姿が次第に滲みだし、喉がふるふると震え始めた。足元がぐらりと揺れる。早く逃げ出したい。
これが夢ならばどれ程良いか。
「佐助!遠乗りしてくるでござる!」
「んえ?旦那?」
「兄上?もう直ぐ夕餉の時間ですよ・・・!」
きょとんとする二人を振り切り、幸村は足早にその場を立ち去った。二人は顔を見あわせ、佐助はふう、と肩を竦める。
「やっぱ、旦那は嫌なんだよ。姫さん居なくなったら大変だ」
「・・・兄上・・・」
幸村が居なくなった廊下を、名前はただぼうっと見つめた。
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