(半兵衛様の言った通りだ)


名前は夜空を見上げる。黒色の空からは銀の筋が沢山落ちてくる。庭は雨に濡れ、心なしか空気が冷たい。

静かに戸を閉め、机に向かう。今日は一度も半兵衛に会って居ない。名前はそれがつまらなく、今日はとても暇だと感じた。

雨の降る今日は朝から彼の体調は芳しくなかった。朝からずっと彼は部屋へ閉じこもり、看病しようと言っても今日はいいと部屋へ上げては貰えなかった。


「つまらないのう・・・」


名前は筆に墨をつけ、紙の上でそれを踊らせる。

幸村から何度も文が来るようになっていた。一枚目の文は半兵衛に破られてしまった為、返事は書けなかったが。それ以来は無事なので返事を書く。

時には佐助からも文が参り、調子はどお?なんて書かれていた。肝心の幸村からは何時帰るのだと、そればかりだった。

この国に来て随分経った。人質と言われるこの立場も終わりに近付いている。


(半兵衛様と別れるのは嫌だ)


同時に幸村の顔が脳内を過る。もどかしく、どうしようもない気持ちがぐるぐると渦巻く。自分の気持ちに嘘はつけない。けれど、兄を傷つける事なんて自分に出来るか?


「名前様、半兵衛様がお呼びでございます」


名前はぱ、と顔を上げる。襖の向こうから女中の声。


「今、今行きます!」


半兵衛が自分を呼んでいる!名前は嬉しくなり、筆を置き足早に部屋を後にした。

幸村宛ての文には、筆の墨がジワリと滲んで広がった。


「半兵衛様」


彼の部屋へ入っても、外の雨音が消える事はなく。ああそう言えば、初めてここへ来た日の夜も雨が降ったな。と思いだす。


「名前。ここへ来て」


半兵衛は布団から身を起こし、自分の側へ来るようにと彼女を呼んだ。

蝋燭のぼんやりとした橙色が、ゆらゆらと揺れて二人を照らす。蝋燭に照らされる半兵衛はとても青白く、見るからに具合が悪そうだった。


「ごほ、ごほ」

「・・・・・・」


半兵衛の調子は頗る悪い。その証拠に、枕元へ置かれた手桶の中は所々血にまみれた手拭いが無造作に押し込まれていた。

血にまみれた手拭いを見て、名前の表情が険しくなる。

きっと朝からこんな具合だったのだろう。彼は何度も血を吐き苦しんでいたと言うのに、自分は部屋でのうのうと兄への文を書いていた。


「また、・・・血を」

「少しだけだよ」


半兵衛は口元に笑みを浮かべながら、肩に綿入りを羽織る。名前は彼の前へ腰を下ろして、顔を俯く。

居た堪れない気持ちで一杯だ。何故こんなに、自分は悲しくなるのか。朝から具合が悪かったのなら呼んでほしかった。彼の苦しみを側で分かち合いたかった。


「私が手拭いを洗いますのに・・・」

「床へ伏せている姿なんて、惨めな物だろう?まあ、今更だけど」

「そうです、今更です。私はどんな貴方を見ても」


名前はそこまで言って口を閉じる。どんな言葉を言えば、彼は楽になるのか?どの言葉もその場の気休めではないか。とても難しい事だ。


「名前は今日、何をして過ごした?」

「え・・・。えっと、ご飯を食べたり、文を認めたり・・・」

「僕も昼間、文を認めたんだよ」

「?」


サアアア、と雨音は建物の何処へ居ても入り込んでくる。名前と半兵衛。二人だけの空間にも、お構いなしに部屋へ上がり込む。そんな雨音が鬱陶しいと思う。


「早く名前を帰せと何度か文が来ていてね。同盟も無事に結べた事だし」

「・・・・・」

「君を十日後に帰すと返事を出したんだよ」

「そうですか・・・」


そんな!名前は叫びたかった。半兵衛の目は、細い体や青白い肌とは対照的に真っ直ぐとした視線を名前に向ける。

その視線にとても耐えられない。自分の役目が終わる。彼の側に居たいと言う願いは破れ、また甲斐での日々が戻るのだ。

視界がこの世の終わりで染まる。ぼんやりと風景が滲み、半兵衛の肌色がぐにゃりと歪んだ。彼の手がそっと、名前の肩へ置かれた。


「・・・・・」


自分を早く帰せと催促したのは、きっと兄上だ。兄上は心配していた。半兵衛様には気をつけろと口を酸っぱくしていた。

それなのに、私は半兵衛様に恋をしてしまった。私がいけなかったのだろか?兄上の言いつけを守れなかった。


『私には兄上しかおりませぬ、私が帰る場所は兄上です』


その言葉に嘘はなく、本当の事だ。自分の全ては今でも兄上なのに。

兄上、半兵衛様、兄上、半兵衛様。どちらもどっちで、同じくらいに大切な人だ。この気持ちは天秤に掛ける程、安くはないのだ。

名前は想像する。先の短い彼は、自分の知らない日に一人で死んでいくのかと。その日、自分はきっと兄と変わりのない日を過ごしているのだろうと。


「僕を見て」


半兵衛の両手が頬を包む。名前は顔を上げる事が出来ず、ポタポタ落ちる涙を少しでも堪えようと必死だった。


「僕と一緒になったってね、僕は君を置いて直ぐに死んでしまう」

「・・・・・・」

「そしたら、君はあの雄々しい兄君の元へ帰るんだろう?」


思わず視線を上げると、驚く程に彼は苦しそうな顔をしていた。それは病の為に苦しんで居るのではなく、何かを耐えるかの様に眉間へ皺を寄せていたのだ。

名前の涙は止まる事を知らない。

彼の言う通りだ。彼は直ぐに死んでしまう。しかし、彼が寂しくない様に自分を捧げられたらと強く思う。全てを打ち破る勇気が、自分にあるのならと。


「わ、私は帰りませ、ぬ・・・半兵衛様のお側に、居たいのです」

「・・・・・」

「どうしたら、よいのです?この気持ち、どこへ向けたら・・・」


半兵衛は彼女の身を引き寄せる。ぼふ、と音を立てて彼の胸へ収まる。次々に流れる涙が彼の肩へ染みを作った。


「半兵衛様が最後の時まで、そしてその後も、私はお側にいます」

「・・・・本当に?」

「世継ぎだって、残して見せます」

「生まれてくる子は、僕からじゃ可哀想だ。その子もすぐ死ぬよ」

「私は、至って健康です。大丈夫です」

「・・・そう。馬鹿だなあ」


半兵衛は顔を下へ向ける。


「・・・実は、今日出した文に名前との縁組状紙も、・・・出した」

「・・・え!」

「僕のお嫁さんになってくれる?」

「は、半兵衛様・・・!」


名前は顔を上げ、ぱちぱちと大きく瞬く。意識せずとも、口角がじわじわと上がって行く。

自分は彼の元へ居られる。彼の側に居てあげられる。それを思うと、嬉しくて堪らなかった。

しかし、喜びを隠せず表情を緩める名前とは対照的に、半兵衛の顔は相変らず険しい物だった。


「名前、わかってる?」

「はい?」

「夫婦になるって事は、僕は君を何度も抱くと言う事なんだよ?」

「・・・・・・」

「僕の病が君にうつる可能性、なくはない」


名前はごしごしと目元を拭い、水分をたっぷりと含んだ目で彼を見上げる。彼の目も又、水分を含んでいた。

それは蝋燭の火でユラユラと揺れ、あ、一緒ではないか。そう思い、笑う事が出来た。


「それでいいのです。それが、私の人生だったのです」


半兵衛はやっと険しそうな表情を緩め、口元に笑みを浮かべてくれた。


「ずっと、お側に居ます」

「・・・ありがとう」


半兵衛の口が重なり、名前は身を任せるだけ。体中の力を全て抜き彼に委ねると、上下の唇を割り舌が口内へ侵入してきた。

それは血の味がした。

彼はもうじき死ぬ。その予感は彼本人で無く、名前自信濃く感じた。彼が居なくなるの知りながら、自分は彼に嫁ぐ。

そして彼と過ごせば、我が身にも病は降り掛かるのだろう。決断を間違えたのではないか?自分はもっと長く生きれる道があるのではないか?

一瞬、幼い日の幸村と自分の姿を思い出した。


「・・・兄上の元には、帰りません」


名前はやっと見い出す事が出来たのだ。兄のように、佐助のように、彼のように。誰かの為に命を燃やす方法を。

半兵衛の手の平が首筋を撫でる。微熱を持つ彼の手は、火の様に熱かった。

彼が死ぬ逝く日、私は彼にどんな事を言ってあげられるのだろう?


(どうか、彼の苦しみを半分私に下さい)





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