肆
名前は手桶の上でぎりぎりと布を絞る。布を絞る行為など、しばらくやっていなかった。
絞り方が甘かったのか、彼の額にそれを乗せるとべちゃりと音がした。しまったと思ったが、半兵衛は死体の様に眠っている。
「名前様、こちらが薬湯でございます。半兵衛様が目を覚ましたら御飲ませ下さい」
「はい、わかりました」
「では、何かありましたらお呼びくださいませ」
「はい」
畳に三つ指付け、侍医が戸を閉めるまで頭を下げる。
(看病なんて)
看病など女中や医者にやらせればいいのに。看病と言ったって、額を冷やす布を絞るか薬や水を飲ませるか位だ。別に自分でなくとも。
ふう、と息を吐いて頭を上げる。チラリと視線を流す先には、うっすらと瞼を上げた半兵衛が、額に乗った布を触っていた。
「半兵衛様、お気付きに・・・」
「これ、絞ったの君?べちゃべちゃじゃないか。まったく」
殿方のくせに白いその肌は、さらに白く。とても良いと言える顔色ではなかった。彼は喉の奥から振り絞った掠れ声で、絞りの甘かった布を名前へ突き返す。
「横じゃなくて縦に絞るんだよ」
「はい・・・〜っ」
彼の言う通りに布を絞れば、水がボタボタ落ちて固く絞る事が出来た。その布を今一度額に乗せると、彼は深く息を吐き、ゆっくりと瞼を閉じた。
(・・・・寝るの・・・?)
思わず目を張る。床に伏せる彼は驚くほどに儚げな雰囲気を持っているのだ。目を放してしまえば、彼はここから消えて仕舞うのではないか。
視界に入り込む映像は名前の脳を確実に揺さぶる。
「・・・半兵衛様。寝てしまうのですか?薬湯をお預かりしておるのですが」
小さな声で横たわる彼に言葉をかける。このまま彼が目を開けなければ、それはそれで美しい物なのだろうな。
彼女の矛盾など知らずに、半兵衛の瞼はゆっくりと持ち上がる。うっすらと細められた目の玉が、名前を捕らえた。
そして、逃げる事は出来ず囚われてしまう。反応して体の奥からじわじわと滲みだす。
「薬湯・・・?飲ませてくるの?」
「は、はい。身を起こせますか?」
「う・・・・んっ」
彼はだるそうに身を起こす。名前はすかさず彼を支える為、半兵衛の背に手を置いた。熱を出している彼の背はじわりと熱い。それなのに半兵衛の顔はとても青白い。
半兵衛は名前が差し出した薬湯をゆっくりと飲んでいく。すると、半分程飲み終えた所で半兵衛の眉間にぐ、と皺が寄った。彼の顔色からして吐くかも知れない。
名前はいつ半兵衛が嘔吐しても構わぬよう、手桶を自分の近くへ手繰り寄せる。
「うっ、・・・げほ!げほ!」
薬湯の入った湯のみが畳へ落ちる。半兵衛は背を丸め、口を両手で押さえ、二つほど大きな咳をした。
「・・・え」
突然の出来事に動けなくなる。ガン、と頭を槌で打たれた気分だ。
はあ、と半兵衛は何度も肩で息をする。彼は口元を覆っていた両手を静かに放した。彼の手の平は真っ赤に染まっていた。
半兵衛は目を細め、名前を睨むように見つめる。彼女はか細くあ、と声を出し、ペタリと畳に尻を付けた。
その様子を見て、彼の鋭い視線は緩まる。彼は気が狂ったのか?ああ、仕方がない。彼がフフフ、と小さく笑う。それはとても悲しい物にしか思えなかった。
「は、半兵衛・・・様」
「先の短い者は死を悟ると聞いた事がある。今なら、よくわかる」
「半兵衛様・・・!」
僕はもうじき死ぬんだよ。
名前の頭がガンガンと音を上げ衝撃を受ける。彼は死ぬ。もうじき死ぬ。
(ああ、ならば)
同盟など意味がなかった。何故なら彼はもう死ぬのだ、床に伏せて死ぬのだ。それならば早く荷を纏めて甲斐へ、兄上の元へ帰ろうではないか。帰ろうではないか!
胸がぎゅうぎゅうと締め付けられる。ドクドクと血が登る。雄々しい兄上を見ていると、何度も考えた。私は誰かの為に死ねるのか?
「は、半べえさ、様」
「・・・・・」
「・・・半兵衛様・・・っ」
「ああ、そんな声で僕を呼ばないで」
下唇をぎゅうと噛む。下へ俯くと、温い涙が頬を伝い落ちた。
すると、彼の両手が名前の両頬を包み、顔を持ち上げた。頬にはねっとりとした、血の感触。
絡まりついてとれない視線が何かを壊していく。彼の青白い顔、体、雰囲気、吐き出す血までも。彼は全てが儚すぎて消えてしまいそうだ。
「僕が何故、あの文を破り捨てたか。知りたい?」
名前の黒い瞳に、く、と笑う彼の口元が映され、頭の中がぐるぐると回る。思わず耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
しかし、身一つ動かす事が出来ずに、体は血さえも固まってしまったのでは。と思った。
「彼は余程、君を側に置きたいようだね。僕はそれが気に食わない。君は彼だけの存在では無いんだよ」
「・・・・・・?」
「・・・昔、僕は名前と会った事がある」
「え?」
半兵衛と自分は会った事がある?その言葉に、今一度自分の人生を振り返ってみる。幾ら幼い頃にこの国で暮らしていたと言えど、彼と接する機会なんて無かった筈だ。
不気味な感覚が襲う。それと共に、自分を飲み込む彼の気配がどんどんと濃くなり、何かが変わってしまった。
「君は、この城で生まれたんだよ」
彼の陶器の様につるんとした目の玉が、彼女の全てを捕らえてしまったようだ。
「おかえり」
半兵衛はフフ、と笑い、血で濡れた唇で名前の口を静かに吸った。
名前の目からは小川のように涙が流れ、その涙は頬と彼の手の平の間で血と混ざった。
気付いてしまえば、転げ落ちるのは簡単だった。
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