私は。

朝日を拝んだり、旬の魚を食べたり、夕陽に黄昏たり。何をするにも兄上を重ねて考えた。

兄上は朝日に吠え、魚が美味ければ歓声を上げ、夕陽に向かって走っていくような人。そんな兄上は誰よりも近くで私の庭を守ってくれる。

彼が私を溺愛しているのは当事者の自分にも一目瞭然だった。しかし、私は気付いてしまったのだ。兄上が、それはそれは喉から手が出るほどに、私の身を欲している事に。

それを知った時、一番近くの存在であった兄上はとても遠い人になった。いつか彼は、言葉にしたり行動に出すかも知れない。

それでもいい。私はそう思う。彼を振り切る理由などないのだ。


「・・・・・なんだい、この茶は。まるで泥水じゃないか」


しかし、今、兄上が守り抜いた私の庭を、誰かが荒らそうとしている。


「君は茶ひとつ、まともに点てられないの?」

「・・・・まともに点てたつもりではございますが」


名前が点てた茶を、また一つ口へ含み半兵衛は眉を顰める。


「茶は苦手でしたので、琴や花は」


名前がそう言うと次の日、半兵衛は琴を弾けと彼女を呼び出し、そして文句を吐いた。その次の日は花を生けろと呼び出し、これまたケチを付けた。

習い事を逃げ出す事はあったものの、昔から一通り学んで来た。上手くはなくとも普通ではある筈なのに。

名前の体内で、感じた事の無い感情がむくりと膨らむ。

半兵衛は綺麗な顔立ちをしているし、言葉使いもやわらかい。が、彼は人を見下す所があり、名前をげんなりとさせる。

綺麗な物が毒を吐くのに何処か魅力を感じたが、あまり関わりたくは無かった。甲斐に彼の様な人は居なかった。

だからこそ、新しい種類の人間に名前は戸惑いを感じていた。







そんな矢先、事件は起きる。それを機に、名前と幸村の歯車は大きく狂い始めた。


「何を読んでいるの?にやにやして」


それはとても晴れた春の日だった。陽の当たる縁側はぽかぽかと陽気に包まれ、床板もじんわりと暖かった。

名前はにやにやと笑いながら縁側に腰を下ろし、読物に集中していた。その様子はつい声をかけたくなってしまう程に上機嫌だった。

もちろん、上記の通り名前は機嫌が良い。声を掛けてきた半兵衛に、読んでいた紙を広げて見せた。


「あ、半兵衛様。見て下さい、兄上から文が来たのです」

「・・・・・文?」

「兄上ったら、私より年上なのに誤字ばかりなんですよ、可笑しいですよね」

「ああ、だからそんなに。・・・・・」


名前がふふ、と笑う。すると半兵衛は彼女へ両手を差し出した。


「え」

「僕も読みたいな。駄目かい?」

「い、いえ!どうぞどうぞ!」


名前は気楽に幸村からの文を彼に差し出した。文を受け取ると、半兵衛はその文を流し読む。

幸村からの文は病気や怪我はしていないか、そちらで嫌な思いはしていないか、毎日どう過ごしているか。そんな質問攻めの文だった。そして最後には早く帰って来い。

これを読んで半兵衛はどう思うのだろう。幸村を妹思いで心配性とでも思うのだろうか。名前は照れくさいような気持ちで彼を見上げていた。


「へえ・・・幸村君は余程、君の事が心配なんだね」


しかし、次の瞬間名前は大きく目を張った。半兵衛は文の真ん中を両手で掴んだのだ。そこを持つのは可笑しい、文を読むのなら紙の両端を持てばいいのに。

それはあっと言う間の出来事だった。名前が一つ息を飲み込む間に終わってしまった。

ビリ、ビリ、とその場にそぐわない音が彼女の鼓膜を震わせたのだ。半兵衛は瞼を半分落とし、名前を見下ろす。


「君は、何も分かって居ない。幸村君の愛護に甘え、守られているだけなんだよ」


半兵衛は名前の目の前で、幸村からの文を破り捨てたのだ。文の切れ端は風に乗って庭へ流れ行く。

名前は突然の出来事に、なす術も無く目を見開いただけ。名前の瞳に、風で飛ばされる紙の屑がしっかりと写された。

あまりの彼の行動に、名前の頭は怒りと動揺で大きく沸き上がる。


「半兵衛様、なんて事を・・・!」

「・・・・・・・」

「酷い!・・・兄上からの!・・・」


文なんて初めて頂いた。それはとてもとても嬉しかったのに、それを破り捨てるなんて!意地悪、鬼畜、人で無し!そう叫んでしまいたい物の、脳裏に幸村や信玄、ましてや父の姿まで過ってしまえば沸き上がる怒りも抑えるしか無くなってしまう。

名前はぐ、と唇を噛み、目の奥にジワリと湧いた涙を押し戻そうときつく目を閉じた。


「君は、本当に何も知らないんだね」


言葉の意味がわからない。何の理由も無しにこんな事、不条理過ぎる。自分や兄に悪気なんてないのに、何故彼はこんな事をしたのだろう。彼の声はとても冷たく凛と響く。


(怒ってる?)


そんな気がした。


「きゃあ、半兵衛様!」

「・・・え?」


涙を堪えていると、突然女中の叫び声が。その叫び声に驚き、パチリと目を開ける。


「えっ?」


なんと、半兵衛は床へ倒れ込み苦しそうに息をしていたのだ。


「だれかー!侍医を呼んでー!」


女中はそう叫びながら、人を呼びに城の奥へ。名前は慌てて半兵衛の肩を揺する。すると彼は、苦しそうにゲホゲホと咳をした。


「は、半兵衛様!」


名前はふ、と思う。破られた文は、もう二度と読めないし戻ってはこない。

自分を溺愛する兄が、何を思い書いたのか。それを考えると、あの文は一万石より価値のある物だった。


(もっと、苦しめばいいのに)


名前は上辺だけで、半兵衛の背を擦る。彼は床へ這いつくばり、苦しそうな息を繰り返す。それは曖昧な母の記憶と重なった。

ぼんやりとする過去で、幼い私は咳き込む母の背を必死に擦っていた。しかし、母は近づくなと私を寝室から追い出すのだ。

ああ、そうだ。思い出した。母との別れが近い時期、母は擦り切れそうな咳と共に血を吐いていた。・・・・それが、きっともうすぐ彼にもやってくるんだ。

そう思いながら背を擦っていると、半兵衛が名前の手をぎゅう、と掴んだのだ。突然の出来事に名前の肩がビクリと跳ねる。


「いたい!」


半兵衛は苦しさのあまりか、ぎりぎりと彼女の手を握り締めた。名前は思わず痛みを訴える。

荒く息をしながら、半兵衛はチラリと名前を睨むように見上げる。心臓が大きく跳ねた。何故なら、今の彼はとても綺麗だと思ったから。


「・・・っ。も、もし。僕が今死んだら、君のせいだ・・・」


廊下の奥から、数人の足音が近づいてくる。


「僕は秀吉の為に死ぬんだ。君の為じゃない」


あっという間に女中達や男達が集まり、半兵衛を自室へ運んで行った。残された名前は、春の陽気が降り注ぐ廊下にぽつんと立ちつくす。


「・・・半兵衛様も、兄上と同じなのね」


何故、人の為に自ら死ねると言うのだろう?兄上だって佐助だってそうだ。何故?私には殿方の気持ちが分からない。

女子だから?私は誰かの為に死ねる?誰かの役に立って誰かを守って死ぬ事なんて。・・・馬鹿じゃなかろうか。


「名前様、半兵衛様のご看病へ」

「行きとうない・・・」

「名前様?」


付きの女中がさあ、と顔を青くする。正しい反応だ。国同士の取引の為、私はここにいるのだから。

けれど、先程の破かれた文や、きつく握りしめられた手の感触、彼のあの言葉。それらがぐちゃぐちゃになって煮える。どう処理したら良いのか分からない。

今、彼の顔を見たら、私は何を思うのだろう。嫌な予感がするのだ。


『君は何も分かって居ない』


彼のあの言葉が引っ掛かる。彼は、私の何を知っていると言うのだ?

眉間へ皺が寄り、表情が険しくなる。床の目一点を見つめ、もんもんとした不思議な感情が顔を強張せる。

その感情は無意識に、名前の足を半兵衛の自室とは違う方向へ向かわせた。女中が困惑しきった声で名前を止めようとする。


「自室へお戻りになる気ですか?!」

「・・・・・・」

「名前様、どうか半兵衛様のご看病を・・・・!」


床をぎ、と睨む。苦しそうに息をする半兵衛が、母と重なるのを思い出した。

名前はくるりと方向を変える。


(やっぱり、ほっとけない!)


廊下の隅に、文の切れ端が一枚残っていた。私はそれを拾う事なく半兵衛様の元へ急いだ。綺麗な顔で毒を吐く彼の元に。

予感がする。じわりじわりと蝕まれる。どうしたら良いのか分からずに、何かが変わっていく。どうか、私の庭を荒らさないで。





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