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──変な、夢を見た気がする。
けれど、内容がどういうものだったのかまではちゃんと思い出せない。多分重要ではないと思い、私は気にしないでおいた。黒のような、赤のような……とにかく、色は分かるけれど鮮明に覚えていない。
ふと目が覚めると、窓から差し込む光はほんの少し赤く染まっていて、夕方頃なのだと知らせてくれていた。朝からずっと眠っていて少し頭が痛いけれど、なんとか起き上がって体を伸ばす。それと同時に大きな欠伸が出た。今ここに誰も居なくて良かった……と言っても私の部屋だから誰も居ないのは当然何だけど。
手ぐしで髪を軽く梳かし、部屋を出てから私は思い出したかのようにドアの前で立ち止まる。考えてみたら、部屋から出たこともなければ、ここの構造が分からない。
それに気づいた途端嫌な汗が背中を伝う。小さく周りを見渡して、カイルくんかルーティさんが居ないか探してみた。しかし、人の気配すらしない。これは困った、どうしよう……。
──と。慌てていたらふと楽しい笑い声が下あたりから聞こえてきた。誘われるようにそこへ向かい、階段を降りたらカイルくんとルーティさん、そして小さな子供達が夕飯を食べているところだった。
私に気付いた女の子が食べるのを中断して一緒に食べないかと手を振ったのを合図のように他の皆も振り向いて、私を見てくる。それに気付いたようにルーティさんが椅子から立ち上がり、階段で立ち尽くす私の元に来た。
「あまり無理しなくていいのに。大丈夫? 夕飯用意しておいたけど、食べれそう?」
「えと……大丈夫です。夕飯、食べたい……です」
ルーティさんから突然の心配する言葉と、夕飯の話。少し遅れつつも、私はどちらにも答えてルーティさんを見たら優しい笑顔で私の背中を押し、準備していたであろう空いている椅子に誘われる。なされるがままに席に座れば、流れるように私の分の料理を持ってきて目の前に置いてくれる。それを終えれば、ルーティさんも席に座って私はそれを合図にスプーンを持った。そして目の前の料理へと視線を向ける。
美味しそうな真っ白い、何か。私の知っている料理とは違う。色とりどりだ。
「あの、これ……なんですか?」
恐る恐るルーティさんとカイルくんに聞いてみた。すると、目の前に座っていたカイルくんとルーティさんは揃って驚いた顔をしながら私を見てくる。私が知らないということに、驚いているのだろう。
私が食べていたものと言えば栄養剤らしいものだった。食べ物ではあったけれど、食べ物ではなかった気がする。味があるかと言われたら、どちらかというと無かったような……。そんな感じのものを食べていた為、今目の前にある、所謂食欲をそそるものは食べたことがない。
何かを食べているところは見たことがあっても、その食べ物自体を食べたことはない。だからこそ、食べている物が美味しいのか美味しくないのか、分からないということも多くあった。
ルーティさんは少し驚きの顔で固まった後、シチューという料理だと優しく教えてくれた。ルーティさんの言葉を小さく復唱してシチューをスプーンでひとすくいする。そして、ゆっくりと口に運ぶ。クリームの味が口の中に広がって、とても美味しい。私は目を見開いた。
「美味しい……っ!」
「へへっ、母さんの料理はすごい美味しいんだよ!」
「改めて褒められると気恥ずかしいものね」
口元を手で隠しながら可愛らしく笑って冷めてしまう前にと、ルーティさんの言葉で食事を再開する。
シチュー、というのはとても美味しい。だからこそ、ここに居る事に疑問は無かった。……無かったからこそ、違和感なんてすぐには気付けなかった。
食事を終えて、私は片付けられていくお皿を眺めていた。その時、片付けながらルーティさんが私にお風呂に入っておいでと言ってくれる。場所が知らない私の為に、カイルくんが案内してくれるようでついていく。その時、カイルくんはここについて話してくれた。
ここは孤児院らしく、ルーティさんとカイルくんのお父さんのスタンさんで建てたらしい。
カイルくんの話によると旅に出たきりスタンさんは帰ってきてなくて、いつか英雄になってスタンさんに会うのが夢だということ。今はまだ旅に出なきゃとは思えてないが、いつか旅に出たいと言っていた。
「……カイルくんのお父さんとお母さん、カッコイイんですね」
「うん! オレの自慢の父さんと母さんなんだ!」
夢を持って話す彼はとても輝いていて、分かった。なんだかとても眩しい……。そして太陽のようでいて、掴めそうで掴めない……まるで、そんな感じだ。
*
カイルくんに案内され、私は脱居所に入る。道は覚えたからゆっくりとお風呂に入るだけ。脱衣所で服を脱いでありのままの生まれた姿になり、風呂場に入る。
まるでちょうどよくそこに小さな鏡があってふと目を向けた。体の上半身、真ん中の胸のあたりに小さく、黒い跡があって不思議に思って撫でた。その時、私は自分が死んだのだと思い出す。そう、あの時矢を射ぬかれて、死んだはずなのに……。なのに私は生きていて、息をして、話して、笑って、考えて、動いていて……。
──子供。
ふとカイルくんに言われた言葉を思い出し、私はその場に崩れるようにうずくまって泣いた。
確かに私はまだ子供だ。鏡で見る私はこんなにも大人びていて、だけど……口を開いて話せば子供じみていて。こんなんじゃ、私は代わりになんてなれない。
──……代わり。
「私……は、……っ」
そう呟いた自分に思い出そうとして、でも出て来ない何かとなぜか戦っていた。私を育ててくれたあの人との毎日は、つい最近のはずなのに思い出せない。
私は、私が、私の、私で……。私……なんでここにいるんだろう。私は……こんな所で何をしているんだろう。
何も分からなかった私を、あの人は大事に育ててくれた。子供のように、時には妹のように、毎日楽しくて……。怒ると少し怖くて、泣いてる姿なんて見たことないくらい強くて、優しくて、大好きだった。
私はこんなところで何してるんだろう。堂々巡りの思考に私は思いがけず、勢いを付けて頭を壁にぶつける。
「い、……つっ……う……」
凄い音が響いたけれど、気にしてるつもりはない。私は体を洗おうと置かれている桶に手を伸ばす。
私は言われた。言われて、必ず途中で放棄するようにしていた。自分で自分が分からなくなっちゃいけない。何がどうであれ、私は私だから。私は私……。だから考えてはいけない。見失わないでと、自分を持ってと。
私は…──だからと。
肝心な場所は、お約束のように思い出せはしなかった。けれど、その言葉をくれたあの人を私は信じて守ってきた。そのつもりだ。
教えられたことはいっぱいあって、毎日が充実しているようで、大変だった。でも、今はどうするかを考えていたりする。いや、本当は考えていなくて、今はただ必死に逃げているだけ。
「……シャンプー、は……これ?」
私の中には私がいて、でも私じゃないような奴がいて。自分で考えていることが自分じゃない奴が考えていたりして、時々、怖くなる。今私はどうしてこうなっているんだとか……本当はそういう部分を考えるべきなのに。死んだんだと割り切って、私は今ここにいるから……だから、知らないふりをしてる。何もかもを。
やっと洗い終えた私は、湯舟に浸かって考えることを捨ててお湯の温かさを味わう。両手で掬っては、指の間からこぼれていくお湯を見つめる。そんなお湯を眺めて遊ぶ私は……やっぱり、幼いんだろうか。
自分で言うのもおかしいかもしれないけど……仕方ない、そうとしか言えないから。
「アリアー、大丈夫? のぼせてないー?」
ふとカイルくんが声を掛けてくれた事で意識が目の前に戻ってくる。きっとルーティさんに言われて心配して来てくれたんだろう。それだけで私は嬉しくて、笑顔になってしまう。
『大丈夫です』と聞こえるように言えば向こう側からカイルくんの安堵した声と共に、それだけだと言って戻ると声を掛けてくれたカイルくんを呼び止めた。
「どうしたの?」
「あの、えっと……一人だと、嫌だから……今から出る、ので……待っててくれるかな……? ダメなら、大丈夫です」
そう言った私の言葉の後に、少しの間があった。きっと考え込んでいたのだろう。その後、元気よく返事してくれたカイルくんに感謝の言葉を掛けて、温くなってしまった湯舟から出た。
*
風呂から出てカイルくんと一緒に夜風にあたりながら、気分的に外にあった木で出来た横長の椅子に座る。お湯がぬるかったと言っても十分温かくて、夜風はちょうどよく涼しい。
星空を眺めながら、ここの空はすごく綺麗だなって思う。雲一つなくて綺麗な夜空で、ずっと見ていたいくらいに。
「……そういえば、アリアってどこから来たの?」
「どこ……って言われても……」
外に出る事をまるで禁じられていた世界だったから、私の世界は部屋だけだった。どこからと言われたらそれは部屋しかない。いや、部屋と少しの戦場……。だから、私はカイルくんに向けていた視線を膝元に向ける。自然と顔は俯く。
そんな私にカイルくんは『言いたくないなら別にいいんだ』と言ったのを最後にお互い黙り込んでしまう。
私は、下に向けていた視線をまた夜空を眺める為に顔を上げた。不意に、何かが空を流れたような気がした。けれどそれは気のせいだと思う。今はただ、眺めるだけに徹しておく。
暫くしてカイルくんはくしゃみを一つして『そろそろ戻ろっか』と鼻水を垂らしながら言って立ち上がった。そんなカイルくんに私は小さく笑ってから頷いて立ち上がり、中に入りルーティさんにおやすみの挨拶をしてから、自分の部屋へと行く。
部屋に入れば夕方と変わらずで、本当に私はここに居るんだと再確認させられる。でも、なんだか寂しくてなかなか眠れない……。ベットの中で寝返りを何度もしていたら、完全に目が覚めてしまった。寝るのを諦めて、私は起き上がって窓の外を眺める。
さっき見た時と同じ夜空。綺麗で、安心して、心が……こう、安らぐような気がした。どこも空は同じなんだ、なんて変な事を考えてしまう。これなら眠れるだろうと、輝く星を眺める。
けれど……それでもなかなか眠れなくて、私はルーティさんの部屋に行こうと部屋から出る。すると、ルーティさんの部屋だけ明かりがついていて少し驚いた。控えめにノックしてみると、すぐにドアが開かれる。
「あらどうしたの、アリア?」
「あの……。えっと……眠れなく、て……」
なんだか、自分で言っておいて恥ずかしくなってきてしまった……すぐに何でもないですと謝って部屋から出ようとしたら呼び止めらる。恐る恐るという風に振り向いたら、ルーティさんが『おいで』と言いながら手招いてくる。
少し戸惑いながらも、ルーティさんのそばへと行ったら軽く抱き抱えられる。そのまま私をベットに寝かせ、近くにあった椅子にルーティさんは座り、私の頭を優しく撫でながら微笑んで顔を覗き込まれる。
「……ルーティ、さん……」
「ん、眠くなってきた?」
戸惑い気味の私を、その問いに私は少し苦笑しながら小さく首を横に振る。『すぐには無理か』と眉を下げながら笑って、それでも私の頭を撫で続けた。その時、不意にルーティさんは何かを思い出したかのように私を見詰める目が細まる。
「ふふ、カイルが小さい頃を思い出すわね……」
「カイルくん……ですか?」
「あの子がまだ赤ちゃんの時にね。お昼寝するたびにあたしがこうやってしてあげてたの。するとコロッとすぐに寝ちゃって。スタンと一緒に眠るカイル見てたらスタンも寝だしちゃってさ……」
『本当、似ちゃうものなのねえ』とどこか懐かしく、しかし可愛らしく笑って話してくれるルーティさんに私も思わず笑みがこぼれた。家族というのは、こんな風なんだろうな……。
そこで私は、カイルくんに聞かれた事を思い出す。私がどこから来たのかという言葉を。……もしどこからと言われて、もしここに私の居た場所の地名があるとしたら、きっと帰れるんだろうと思う。だけど私は一度死んでしまっている。となると、私の居場所は無くなっていて、帰る事は許されないことになる。
少しと言えば嘘になる。だから凄く寂しい。私にはもう……帰る場所が無いってことだから。だからといって、それで涙が溢れてくるかと言ったら……どう、なんだろうか。どうしてか、今不思議と心がどこか穏やかなのはなんでだろう?
*
「……アリア。ほら、アリア……起きて。起きないと朝ご飯、食べれないわよ」
声が聞こえてくる。私はゆっくりと目を開けると、そこにはルーティさんの笑顔があった。その笑顔を確認すると、もう一度寝ようと寝返りを打って数秒。目を見開いて思い切り起き上がる。
ルーティさんとお話してて、頭を撫でられててそれから……ああきっとあのまま寝てしまったんだと思い出す。そういえばルーティさんはどこで寝たんだろうという疑問が頭の中を駆け巡った。私は、ルーティさんを先程とは違い、ジッと見ていたら『まだ頭、寝てるの?』と顔を覗き込むように見られる。もしソファとかで眠らせていたらと、私は口を開いた。
「あの、ルーティさん。昨日、私……」
「ん? ああもしかしてあたしの心配? 大丈夫よ。あの後あんたがコロッと寝ちゃったあと一緒にベットに入って寝たから。起きちゃうか心配だったけど、相当眠かったみたいで起きる気配は無かったわよ。一度寝たら起きないカイルみたいに。もーびっくり」
口元に手をやりながら笑うルーティさんに、ホッと安心して私も一緒に微笑む。良かった、ルーティさんに寒い思いさせていたら……とても申し訳ないから。
私がちゃんと起きた事を確認すると、ルーティさんは先に部屋から出て行ってしまった。あの様子を見ると、朝ご飯の用意とか万端なのだろう。あとは私が行くだけのようだ。
私は着替えず、パジャマのまま下に降りて行くと、カイルくんや小さな子ども達はいなかった。そう言えば静かだなぁと思ったのは居なかったからなのだろう。私より先に朝早く起きて、どこかで遊びに行ってるんだろうと思い、椅子に座った時にちょうど朝ご飯が目の前に並べられる。
パンの上に乗せられた目玉焼き、昨日のシチューだ。匂いを嗅いだらお腹が空いてきた。私は手を合わせてから食べ始める。
「にしてもカイルったら、珍しく朝早く起きたかと思ったら……他の子達にたたき起こされたみたいなのよ。いっつもあたしが起こす時はなかなか起きてくれないのに。こういう時だけ目覚めが良いんだから」
ルーティさんは私の目の前の椅子を引いて座ると、頬杖をつきながらそんなことを呟く。そして、カイルくんのこととかを話し始めてくれた。
スタンさんに似て朝が弱かったり、真っ直ぐで熱いところや素直なところ。たまに無理したりするところもあれど、それでもカイルくんの話をするルーティさんはどこか誇らしげで暖かい。
そして何より、カイルくんは冒険好きなところがあるようだ。誰に似たのかしら、なんて言葉をルーティさんはこぼした。
──と。そんな感じで朝ご飯も終えて私とルーティさんは話していた。ほとんど話してたのはルーティさんだったけれど、私は話を聞くのが好きだから黙って聞いては相槌をうつ。
どれ程話していたのか、いつの間にかお昼過ぎになった時に小さな子達が帰ってきた。カイルくんだけ居ないようだったけれど、先に帰れと言われたんだろうその子達はそのまま二階へ上がって行ってしまった。昨日のようにちょっとした会話があるのかなあなんて、ちょっと思ってしまった私は……変かな。するとルーティさんが椅子から立ち上がる。
「そろそろ太陽が真上ね。洗濯物洗濯物っと」
「あの……私、手伝いますよ」
「ああ、いいのいいの。あたしの仕事だから。あんたはゆっくりしてなさい」
しかし私は食い下がるように言葉をこぼすが、ルーティさんは私の頭をぽん、と撫でると急ぐように2階へ行ってしまった。折角ここで寝たり食べたりもしているのに、何も出来ないなんてもどかしい。……かといって、私に何が出来るのだろう? そんなことを考えながら、残された私はそれを振り払う様に頭を振って椅子から立ち上がる。ココアを作って気持ちを落ち着かせよう。
ココアはルーティさんが好きな時に作って飲んでもいいと言ってくれた飲み物だ。教えてもらった通りに、初めてココアを作ってみる。……うん、なんとか味はココアっぽい気がしないでもない。
完成したココアを手に、テーブルに戻ってする事もなくぼんやりと時間を過ごす。二階からは子供たちの楽しそうな声が聞こえて来る。混ざりたいなぁとか思いつつも、私はきっとどんな遊びをしているのかとそこから始まってしまう。それならばここで天気の良い陽射しが射し込んでくる窓の外を眺めて、一人で過ごす方が断然良い事だと考える。
すると、暫く一人でぼんやりとした時間を過ごしていた時だった。突然ドアが開き、カイルくんと、もう一人が玄関に立っていた。……誰、だろう。
私が驚きで見つめていると、カイルくんが少し興奮気味になりつつ、声を掛けてきた。
「あ、アリアただいま! ねえ、母さん知らない?」
「? ルーティさんなら……」
洗濯物を、と言おうとした時。カイルくんと一緒に居た銀髪の背の高い人が私のところにやってくる。すると私を「美しいお嬢さん」と語尾に何かが付きそうなくらいの決まった声? で私に声を掛け、そして目の前で片膝をつき私を見上げる。……見上げられている。
これは、どういう状況? 私は助けを求める様にカイルくんの方を見る。誰ですか、この人は……。
「もしよろしければ、このロニ=デュナミスがご一緒に……」
「ロニー、早く母さんに会いに行かなきゃでしょ」
そうカイルくんに言われ、ロニと呼ばれた人はハッとしてカイルくんに向き直る。しかしまた私の方に向いて『それではまた!』と声を掛けてから、二人はさっさと二階へと行ってしまった。
怒涛のような流れに、よく分からなくて首を傾げながら見送った後、私はココアを飲むのを再開する。あのロニという人は知り合いなのだろうか?でも私が気にしても、仕方がない。私なんかよりも、ここの人達は沢山の笑顔があって、沢山の子供たちが居て、幸せそうだ。
私がここに居るのが、おかしなくらいだろう。身を整えて出て行ければ良いのだけれど……。
そんな事を考えながら、飲み終えたココアのカップを片付けた時だ。ルーティさんがいるであろう場所から悲鳴めいた声が突然聞こえてくる。私はびっくりしてコップを落としそうになった。こ、この声はロニさん……? と、怒ってるルーティさんの声も聞こえてきた。