不幸者 | ナノ
  何一つ手には残らず
2/3




 深い眠りに落ちていた気がする。僕は、あの日確かに死んでしまったはずだ。濁流に飲まれ岩に水に、僕の体を圧迫し潰さんばかりに……。しかし、何故こんな事になっている? 嗚呼、そうか。僕は彼らを裏切ったんだ。愛する僕の、ただ一人の彼女を……守るが故に。僕は──





「少年」


 ゆっくりとしかし唐突に、意識が声によって引っ張られる。誰が僕を呼んでいるのか。声は徐々に近づいていて、ついには耳元で「起きろ!」と大きな声を出され、思い切り起き上がった。驚きで心臓が煩いくらいに脈打っている。
 いや、待て。僕は生きているのか?


「全く……何日寝込めば気が済む? 私も暇じゃないんだよ」
「……」
「ん? おい少年、聞こえて――」


 女の言葉を無視して僕は腰に手をやるが何も無い。相棒も、そして短剣も。すぐに女に向き直り、睨みつける。素性の知れない者に僕の私物を奪われたのかもしれない。そう思えば警戒心が強まる。
 だが、僕の意図が読めたのか。それとも雰囲気で伝わったのか。髪の色と相反する紅い目が静かに僕を見詰める。言葉は発さず、静かに。一触即発、とまではいかないがどちらかが先に口を開くのかをまるで伺うようで、僕はいつでも動き出せるように身構えた。
 どれ程経ったのか、不意に女は「迷惑極まりないとはこういう事を言うのだろう」と僕の目を見詰めたままに言葉を発した。言葉の主語がないせいでよく伝わらず、視線が鋭くなる。妙な動きを女がしようものなら、ここにあるものを使って逃げ出せるようにしなくては。だが、僕のその考えはすぐに打ち砕かれる。


「全くもって、面倒事でしかないよ。……少年、君は“どこの世界”からやって来た?」
「──は?」
「君の身体からは違う流れを感じる。嗚呼、それと。君は身一つで倒れていた。武器も何も無かったぞ。だから警戒しても逃げ出そうとしても、君にとってここは未知の領域と受け取っても良い場所。無闇やたらと動き回られてもこちらの──」
「デタラメを言うな!」


 つらつらと並べ立てられる言葉に、僕は大きな声を出して遮る。違う流れ? 未知の領域? この女は何を言っているんだ。たとえ未知の場所だと言われても、そう軽々しく受け入れるわけが無い。それに──
 はたと、そこから先の言葉が続かなくなる。自分でも突然、分からなくなるほどに。そして何が言いたかったのか、頭の中が黒や赤や青と言った一言では表現しづらい色で埋め尽くされた。

 僕の様子を感じ取ったのか、女は僕から視線を逸らすように目を伏せて静かに息を吐き出した。それにより空気が少し、変わったような気がする。


「自然の摂理という概念を越えてやって来る者はそうそう居ない。否、あってはならないんだ。世界が世界へ対する干渉を許してはいけない」
「……何が、言いたい」
「君は別の世界からやって来た。それに間違いはない。だが、おかしな所がある」

 僕の質問が聞こえているのかいないのか。女は尚も言葉を連ねていく。一人で完結し、一人で話されていても困るだけ。しかし、この女の様子を見るになにかの研究者なのだろうか。かつての仲間が脳裏をよぎる。新しい薬品を思い付いた時、一人眼鏡を光らせ楽しそうに独り言を呟く彼女と、目の前の女の状況は似ていた。
 とは言え、そう冷静に考え込むのもそこそこに僕は女に声を掛ける。まさか自分の世界に入り込んではいないだろうな?


「僕の言葉を聞いていたのか? 貴様は何が言いたい」
「……。別世界である君がどういう経緯でこの世界へと引っ張られたのかと言う事。けど、今はそれは置いておくとしよう。私はお腹が空いているんだ。君の部屋を用意するついでに共に腹を満たそうじゃないか」
「は──?」

 やはり一人で完結していたようだ。立ち上がり着いてくるようにと話す女の背を呆れと湧き上がる苛立ちでその場から動けなくなる。もはや思考も止まりかけてしまいそうな時、「少年」と目の前まで女が戻って来た。僕の腕を掴み、無理やり立ち上がらせられる。僕は驚きで女の手を振り払った。突然掴まれ、問答無用で立たされる、その事についてではない。この女は男である僕をこうもやすやすと立ち上がらせられるほどの力を持っているというのか?


「うん? なんだ、私に何かあるか?」
「…………自分で歩ける」
「そうか。では行こう。こちらだよ。上や下には広いが横は広くはない。がしかし、同じ景色ばかりでね。ここでの一番の休息ができるといえば……中庭ぐらいさ」


 一人で話しだした女の後ろをついて歩いているとき、同じ景色が続く廊下が唐突に終わり開けた場所が現れる。唯一太陽の日差しが真っ直ぐに差し込んでいるようでそこだけ空間が切り離されているように明るい。柄にもなく、思わず見とれてしまった。それほどまでにここに出来た空間は目を惹く。
 僕が見とれているからなのか、女も僕の横で中庭を見詰め、そして中庭へと足を踏み入れて行った。思わず僕もその後を付いていく。神秘的、とまではいかないがなにか特別な場所に思えてしまうのは何故だろうか。女の言うようにここは僕のいた世界ではないのかもしれない。しかし、僕の世界でもこの様に惹かれる場所はいくらでもあった筈だ。


「不思議だろ。こんなにも心惹かれる場所があるとは思わない。……折角だ、ここの建物について説明をしよう。ここは研究所。地下を含めて五階建ての、何ともない場所。因みに私と君がいるのは二階。中庭と言っても、作られた場なんだ。地下には一人で行って欲しくないから、興味を持ったら私に言って欲しい。あぁ、食堂となる場所はこの階にあるから安心して」
「……先ほど言っていた部屋は?」
「ここの構造上、寝る場所として使う自室は最上階。大変だろうが許してくれ」


 開けた中庭でゆったりと歩きながら、あっちこっちと向く方向を変えながら女は説明する。この世界から説明するのではなく、建物から説明に入るところは、流石とも思える。それに、研究所ともなると人が居てもおかしくないが、この中庭に来て人を見かけていないのは何故だ。
 そう思いあたりを見渡した時、女は「想定内だな」と淡々と述べた。どういう事かと女を見れば、僕をじっと見て腕を広げてみせる。


「生憎、ここには私以外人は一人も居ない。否、私の独壇場と言うわけだ」







《何一つ手には残らず》








「少し待っていて、簡単なものを作ってくるとするから」



 案内された食堂へと来れば厨房へ入って行きながらそう言った女を見送り、僕は適当な場所へと腰掛ける。あの女の言ったように人っ子一人居ない。だが、研究所と言えば他の同業者が居て、部下が居て成り立つ。そうしてやっとの思いで研究者として研究が出来る。何より、この食堂でさえもそこで働く者達が見当たらないとなると、やはりあの女一人なのだろう。

 僕は椅子に腰掛け、考えた。まだ僕の目に映る世界はこの建物内だけ。ならば外へと出れば確信が持てる何かがあるのだろう。だがどうしてか、外に出ようという考えさえ今は必要ないとさえ思えてくる。それはこの場が、僕にとって完結する空間だと言うのだろうか。
 いつの間にか考えに没頭していようで目の前で振られる手に意識を戻した。よくよく思えば僕はなぜこんなに冷静にも物事を考えているんだろうと、自分の行動に疑問が生まれてくる。いや、死んでしまったのだからそれが相まって冷静に物事を考えてしまっているのかもしれない。


「あまり、自分以外の誰かに作る事は長年していなかったからな……味が気に入らなければ捨てても良い」
「……? 僕の分だけか?」


 目の前にのみ置かれた料理を目の前にして女の方には無いことに気づく。先ほど腹が減っていたのは女が言っていたからだ。なのに自分の分はないのはおかしい。
 どうしてかと視線を向けるが女はコーヒーのみを口にし、僕を見ていた。視線が交わるのに、どこか視線が合わない。


「私は向こうで作っている最中に食べた。気にしないでくれ。それに、眠っていたお前こそ腹が減っている。私が抱え込めるほどに体の体力も体重も落ちている筈だ。口に合わないと言うならば買いに行く」
「……」
「──全く、何をそんなに睨む。早く腹ごしらえをしてお前の部屋へと案内し、この状況についての打開策と話し合いをせねばならないんだぞ。お前は帰りたくないのか?」


 “帰りたくないのか”その言葉を聞いて僕は立ち上がった。この女は僕を元の世界へと返すべくこうして僕の面倒を見るというのか。ならばありがた迷惑である。僕は僕自身が選び、僕はあの場で命を散らせた。他人である見ず知らずの女に命を救われ、しまいには帰る方法だと? 笑わせてくれるとはこういう事だ。僕の帰る場所は既に無くなったというのに。


「? しょうね──」
「迷惑だ」


 僕は一言、そう吐き捨てた。迷惑なんだ。僕は帰りたいと一言も言っていない。なのに勝手に助けて勝手に帰らそうとする。身勝手にもほどがある。


「僕は帰りたいとも言っていない。ましてや僕は既に死した身。帰ったところで僕があそこへ帰る意味も理由も見いだせるはずがない。僕の命はあそこで終了しているんだ」
「……少年」
「なのに帰る方法だと? 笑わせてくれる女だな。僕はもう生きている価値さえないんだ、もう放って──」


“置いてくれ”そう言葉が発される前にパンッ、と乾いた音と共に頬に痛みが走る。叩かれた左頬に、ゆっくりと手を持っていく。今僕は叩かれたのか? 何故叩かれた?
 視線を女へとやるが、やはり何も変化はない。静かに僕を見ている。しかしただわかるのは、僕を叩いたのがこの女だということ。僕はおかしなことは何も言っていない。なのに、何故叩かれる必要があるんだろうか。
 女は腕を下ろしテーブル越しにこちらに体を乗り出し、そっと僕の手が添えられている頬へと、触れてきた。その事に思わず体が小さく反応を見せる。紅い女の目が、僕を射抜く。


「生命あるものに、命の価値や意味なんて必要無い。生きとし生けるもの全てに生きているというその本能こそが大事なもの。私達人は知識が莫大とあり、様々な考えや感情を持ち合わせる。それゆえに本当ならば考える必要性のない“死”を人は簡単に、単純に持ち歩けてしまう」


 静かに、淡々と述べる女の言葉に僕は理解が追いつかない。つまり何が言いたいのだろう。何も言うことができず、僕は女を見つめた。


「命の尊さ、命の儚さ。世界は私達人の命はほんの少しで散ってしまうと理解し、把握している。例え決められていた命であり宿命であり、運命だとしても」
「……」
「だが、そう容易く口にして良いものではない。お前はお前の命を全うした。お前はお前としての役目を果たした。しかし、価値がない等と言って良い筈が無い」


 女はそう言って、僕の手を握りしめた。そして女の言いたいことが少し、わかった気がする。僕の存在が価値が無い訳では無いのだと。僕はゆっくりと、徐々に顔を俯かせた。
 既に死んだ身である僕が、のうのうとこうして生きている事に僕自身が許せていない。僕自身が、自分を価値のない存在であると決めつけている。


「……僕は、」
「……」
「僕は……何故、何故生きているんだ……」


 力が抜けたように、椅子に座り込んだ。体の手足に力が入らない。顔を上げることすら、今はしたくない。
 あの日、僕は彼女の為に──マリアンの為に命を捨てる覚悟をした。神の眼を持ち出し、スタン達を裏切り……僕は、海底洞窟で飲まれながらマリアンの幸せを願った。マリアンの日々を願った。死んだ身であるならば、きっと彼女を見守れると、そう思っていたのに。なのに僕は今こうして、別の世界というおかしな現象により生きながらえてしまっている。これではまるで、僕の死が侮辱された様なものだ。


「……。何故、生きているのか。その疑問は今の私には解明できない」
「……」
「食事もままならないのならば、部屋へと移動しよう。混濁と困惑、負の連鎖が続けば考える事も全て不可能な道へと誘われるんだ」


 目の前のテーブルから女が動く気配を感じたかと思えば、僕が座っている椅子へ移動してきたようで、しゃがみ込んで顔を覗き込んでくる女の子姿があった。紅い女の目は、やはり静かに僕を見つめていた。そして、女の手は僕の頬へ触れ小さく「まだ涙は流さない方が良い」と囁く。僕は泣いていない。泣くことすら、忘れてしまったかのように頬は濡れてはいない。だが、それでも涙が流れているのだと女は思っているようで頬に触れる手は離されることは無かった。





 どれほど経ったか、僕は立ち上がり女に案内されるままに最上階へと向かい、一つの部屋へと入ろうとした時ふと、女は立ち止まった。そして僕が立つ向こう側を見て「チィ」と誰かの名を呼ぶように声を発した。先ほどここには誰一人とさえ居ないと言っていたのに、それは嘘だというのか? だが、その僕の考えはすぐさま消された。
 僕の視界横を小さく何かが横切ったかと思えば“それ”は女へと飛び付く。そして女も受け止め、そして抱き寄せている。


「少年、この子はチィだ。ちゃんと私たちの言葉を理解する賢い生き物だぞ。この子の言葉を私たちが理解することは出来ないが、しっかりと身振り手振りで教えてくれるから、もし私がそばにいない時はこの子を呼びつけてくれて構わない」
「……あぁ、わかった」
「……。順応しようと必死なのだな、少年は」


 じっと僕を見ながら女は感心したような、そんな様子を見せた。女の言葉に少し、戸惑いながら視線を逸らし「それよりっ」と話を促す。僕が使用するかどうかの部屋を示せば思い出したかのように部屋へのドアを開けて中へ入っていく。チィと呼ばれた存在は女の肩に乗り、僕をじっと見てきていた。


「何も無い部屋だが、少年には最適だろう。年頃の男の子というのに対して些か鈍感な私だから、なにか必要となるものがあったら言って欲しい。今ここには私一人だけとは言え、かつては大勢の人がここに寝泊まりをしたりしていた故使えるものはきっと見つかるはずだ」


 中を一通り見渡しながら女はそう言葉を紡いでいく。僕も中を見ながら女の言葉を聞き、そして小さな存在のチィを見ればまだ僕を見ていた。なんだというのだろう。僕からもじっと見ていたら逸らされてしまった。だから、なんだというんだ!



「……では、私はそろそろ戻るとするよ」
「、戻る?」
「私は研究者、もう時間もあまりない。早く完成させなきゃならないものがあるんだ。下の階に居るから、何かあれば来てくれ」


 部屋の中には最低限のものがある事を確認したからなのか、小さな存在のチィに少し苛立ちを見せていたが女の言葉に視線をそちらへと向けた。そうか、こいつは一人でここに居てもやらねばならないことがあるということなのだろう。例え、誰からも見放されてしまったとしても……。
 部屋から出ていこうとする女の背中を見届け、ドアが閉じらた後改めて部屋を見渡す。ベッドと最低限にある机、そしてクローゼット。簡易的であり、少し狭く感じる。窓は控えめに小さく机の上あたりにある為、少し陽射しが差し込む程度。

 ベッドに腰掛け、ここに来て堪えていた何かが爆発したかのように涙が溢れた。あの場で死んでしまってもおかしくなかった。彼らを助け、そして彼女を託し……。
 だが、僕は今こうして生きている。まるで悪戯に僕を生かしているかのようで、気味が悪く不愉快で許せなかった。罪を重ね、生きていたところで免れぬ死罪。自分の死に場所ぐらいは、自分の手で選びたかった。自分の手で、自分の生を全うしたかった。


「っ、……!」


 そのままベッドに倒れ込み、顔を埋めシーツを握り締める。口から零れそうになる嗚咽を隠すように、必死に押し殺した。だが、それで抑えられるはずもないことは、わかりきっていた。
 ここには、シャルも、マリアンも、誰もいない。












     

back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -