『ちょっと出て来いよ』


 電話越しにもすぐそれと分かる声が鼓膜をふるわせてからしばらくの間を置いて、ようやく自分がうとうとしていたことに気付いた。
 ソファーからずり落ちかけた身体を引き上げて、ほとんど意味もなくきょろきょろと辺りを見回す。
 ガラステーブルの上の数学の教科書とノート、筆箱、転がる消しゴム、シャープペン。
 思うより長く、二時間ほどは眠っていたのだろう。開きっぱなしのカーテンの向こうの空はすっかり夜の色をしている。時計の表示は21時14分。
 ……腹が減ったな、と、ぼんやり胃の辺りをさすった。


『――おい、聞いてんのかよ、火神』
「、いてるよ」


 わずかに苛立ちを滲ませた声音に貫かれ、はっと瞬いた。
 つかの間の眠りから火神を掬い上げた着信の相手――青峰は疑わしげに「本当だろうな?」と唸ったが、次の瞬間には気を取り直したように冒頭の言葉を繰り返した。
 ちょっと出て来いよ。


「出て来いって……今からか?」


 深夜、と言うほど更けた夜ではないが、高校生が一人で外へ出るにはいささか遅い時間である。警察官とかに出くわしたら面倒くさい。いや、別にやましいところがあるわけじゃあないけれど。


『そうじゃなきゃ電話しねぇよ、バーカ。バカガミ』
「んだとコラ、アホ峰!」
『あーあーうるせーうるせー。じゃ、いつもんトコにいるからな。早く来いよ、15分以内な』
「ちょ、ま、青み」


 途切れた音声、虚しい終了音。腹立たしい「通話終了」の表示をじっと見つめ、火神は深い、深いため息をついた。がりがり後頭部を掻き、ひとつ舌打ち。
 ああ、もう。Damn it!



 ……そして何よりイラつくのはこうして律儀に家を出てしまっている自分自身なのだけれど。
 エントランスを出た途端身に襲いかかった寒気と立ちのぼった息の白さに、深く、眉間に皺を寄せた。寒いのは嫌いだって知ってるはずなのに、あの野郎。
 耐えきれず、途中で見つけた自販機でカイロ代わりのホットコーヒーを買う。……二つ買ったのはただ単純に両手を温めるためで、それ以外に理由なんかなかった。ダウンジャケットのポケットに押し込んだそれがやけに重さを主張する気がして、努めて気にせず歩調を速めた。

 通い慣れた道順を辿る足取りはそうでなくても躊躇いなく、速い。15分。一方的に押しつけられた制限時間にも間に合ってしまいそうだ。
 角を曲がればもうすぐ、ああ、見えた。

 ぽつんと開けたストバス。たん、たんとボールがつかれる軽やかな音に、自然、足を止めた。
 安っぽい色合いの街灯に照らし出される人影はただ一つ。
 黒いパーカーのフードを目深に被って、浅黒い肌、黒いジーンズ。
 夜が凝ったような姿だった。何もかも暗く沈んだそのなかで、ちら、と一瞬間こちらを向いた視線、澄んだ白目が青く光った。
 火神を認め、うっすら笑った口元、薄い唇。


「おせぇよ、ばか」


 鷹揚ささえ感じさせる動作でボールを弄び、予備動作も無し、長い脚が地面を蹴った。たわんだ膝が伸び、その身体が宙に浮く。腕が、背中が、鞭のようにしなった。
 人一人分の重量を受けたリングの悲鳴。
 足元まで転がってきたボールを無意識に拾う。小さく手を上げた青峰にパスを送って、そうしてやっと我に返った。


「……何の用だよ」
「んー?」
「んー、じゃねぇよ。何か、あんだろ。こんな時間にわざわざ呼び出した理由がよ」


 見惚れてしまった気まずさを誤魔化したくて、やや早口にまくしたてた。そんな火神をさして気に留めた様子もなく、青峰は街灯の下のベンチに座った。そのまま当然とばかりに指先で火神を呼ぶのだから、舌打ちのひとつも漏れるというものだ。八つ当たりで投げつけたコーヒー缶も軽々キャッチされてしまい、火神はぶすくれた顔で渋々青峰に従った。
 プルタブを引き上げる気の抜けた音とコーヒーの匂い。小刻みにふるえながら両手で包む缶の温かさ。一口だけ飲んで、改めて隣の男に向き直った。


「で?何なん、」


 だ、までは声にならなかった。掴まれた二の腕。強引に火神を引き寄せる力には遠慮も容赦もなく、体勢は簡単に崩された。
 何しやがる、と睨めつけた目で見たのは、犬歯の白さ。
 ――食われる、と思った。


「っん、む、ぅうーっ!」


 軽く触れ合わされた唇の冷たさに怯んだ隙を狙って火傷しそうに熱い舌が捩じ込まれた。ざらついた表面で上顎を舐められ、背筋がふるえる。
 ふっ、と息だけで笑われたのが気に入らなくて、手を伸ばし、後頭部を掴んだ。
 フードが落ちる。驚きに刹那、動きを止めた青峰に好都合だと小さく思って、口内を荒らす舌に自分のそれを絡めた。
 競うように、互いを煽った。
 最後に小さく濡れた音を立てて、唇が離れていく。乱れた呼吸が白く濁って、青峰の顔を一瞬一瞬霞ませた。
 もっと、よく、見たい。
 瞬いた拍子、目尻に溜まった雫がぼろり、頬を転げ落ちた。


「っは、やらしー顔。誘ってんのか?」


 答えるより先、目の前の、濡れて赤い唇を舐めた。


「……そうだって言ったら?」


 ああ、明日も朝早いのに。馬鹿なことを言っていると自分でも思う。
 だけど、今。
 今、優先したいのは。


「っ、上等だ」


 まるで獣の唸り声を上げて、青峰は火神を引きずり立たせた。無言で手を引っ張り歩く、表情は酷く険しい。
 されるがまま後に続き、自宅への道を辿り直しながら、火神はほんのりと頬を緩めた。
 夜に縁取られた背中。しなやかな獣。

 これが、俺の男だ。


End.
(ワンダー・ナイター@130131//初書き青火ちゃん!)
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