明るい笑い声といくつかの足音が近付いてくる。 ノックもそこそこに開かれた研究室の扉、そこから覗いた二、三の顔。火神はコーヒー入りのマグを机に置いた。 揃いも揃って頬を上気させた彼女達は全員、火神の教え子だ。 落ち着きなく室内を見回す彼女らの様子を見て、火神は軽く首を傾げた。 「おう、お前ら。何だ、どうした?」 「火神先生! 青峰先輩見なかった?」 「今日でお別れだからいっしょに写真撮ってもらおうと思ったんだけど、どこにもいなくって」 「先生、先輩と仲良かったでしょ? どこにいるか知らない?」 「お前らなぁ……。仮にも教師相手なんだから敬語使え、ケーゴ」 「大丈夫、他の先生にはちゃんと使ってるから!」 「どこが大丈夫だ。全然大丈夫じゃねーよ」 顔をしかめて窘めてみても、少女らは肩を竦めて舌を出すきりだ。 ……口うるさい教師と鬱陶しがられるのとこういう雑な扱いをされるの、一体どっちがマシだろうか。 怒る、よりも先にがっくりきてしまって、火神はがしがし頭を掻いた。 ため息。 春風に膨らむカーテンに一瞬目を向けてから、口を開いた。 「卒業式の最中に見かけただけで、今日は青峰とは会ってねぇよ。部の送別会があるとか言ってたし、部の連中のところにでも行ってるんじゃねぇか?」 「そっかぁ、分かった。先生、ありがと!」 「……だから、敬語使えっての」 駆けていった少女達には届かないと分かっていても、殺しきれないぼやきが口をついた。 また一つ逃してしまいそうになった幸せをぐっと飲み込んで、火神は椅子から立ち上がった。 机から数歩の距離、大きく開けた窓の縁に手をかけ、空を見上げる。人生の門出に相応しい、よく晴れた日だ。 研究室の目の前に植えられた桜のつぼみも淡く紅色に色付き始めている。 今年はいつ頃咲くんだろうか。 「花見してえなぁ。なぁ、青峰」 「……勝手に行きゃいいだろ」 話を振った先、窓のすぐ下辺りに座る男から向けられた声と視線の剣呑な色に、火神は目を眇めた。 「何で不機嫌なんだよ。お前が言う通り、ちゃんと匿ってやったじゃねぇか」 「……」 「何が気に入らねぇんだよ? 言ってみろ。怒んねーから」 我ながらよく辛抱したと思う。 たっぷり一分近く押し黙った末、青峰は渋々口を開いた。 「何なんだよアイツら。教師相手に馴れ馴れしすぎんだろ。それに、アンタもアンタだ。甘い対応取って、アイツらが妙な勘違いしたらどうすんだよ? インコーで警察に捕まりてーの?」 ――さっきのアレでどうしてそうなる? 『妙』なのはお前のその思考回路の方だろ。 咄嗟の思考を顔に出したつもりはなかったが、青峰は動物的勘で察知したらしかった。 「もういい」言い捨てて顔を背けてしまうから、機嫌取りに代えてその頭に手を伸ばす。 青峰はそっぽを向いたままだが、拒まないのだから不快ではないのだと解釈することにした。 案外と柔らかくて触り心地がいい、紺青の髪。 「アイツらは俺なんて眼中にねぇよ。お前に憧れてんだろ。一生懸命探してたじゃねーか。なぁ、モテ男くん?」 「ンなの、いくらモテたって、好きなヤツに好かれなきゃ意味ねぇよ」 「へぇ。お前好きな子いたのか。誰だ? あ、桃井とか?」 「――なぁ。アンタさ、それ、本気で言ってんの?」 頭に乗せた手の手首をいきなり掴まれ、引っ張られて、火神はバランスを崩した。 窓から大きく乗り出した格好になった火神の目と鼻の先、吐息がかかる距離に青峰の顔がある。 無表情だ。怖いくらいに。 骨も軋まんばかりに締め付けられている手首の痛みに顔をしかめつつ、流石モテるだけあってイイ顔してんな、とズレたところで変に感心してしまった。 青い瞳が底知れぬ感情に燃えている。 ひどく唐突に、火神は、出会ったばかりの頃の青峰を思い出す。 「キセキの世代のエース」の看板を背負って鳴り物入りで入学してきた15のガキのことを、苛立ちと焦燥、諦めをない交ぜにした倦み疲れた目のことを。 10年に一人の天才。そう呼ばれたことがあった。 今から10年以上昔の、火神自身の話だ。 圧倒的なポテンシャルと類い稀な跳躍力をもってコートを駆けていた火神は、ゆくゆくはNBAにも手が届くだろう逸材として日本バスケ界の期待を一身に背負っていた。 不慮の事故によって、その背の翼をもがれるまでは。 『娯楽として楽しむ分には、バスケをすることも十分可能ですよ』 幾重にもオブラートに包んだ遠回しな死刑宣告を受けた後、火神は荒れた。今、こうして「学校の先生」なんぞしていることが、それこそ自分自身不思議なくらいに。 そんな、一番荒れていた頃の自分の目と――新入生のガキの荒んだ目が、よく似ていると気付いてしまったから。 「青峰、だったよな? 俺と1on1しようぜ」 余計なお世話と言われようと何しようと、そのままにしてはおけなかった。 きっと誰よりバスケが好きで、だからこそ苦しんでいる子どもを、放ってはおけなかった。 ……というのは多分、理由の半分程度で。 思い出されるのは青峰のプレーを初めて見たときの、全身の血が沸騰するあの感覚。 全く本気を出していないくせに、いや、だからこそ空恐ろしいほどの才能を感じさせた子どもの『全開』が見てみたくて、見てみたくて。 「またアンタかよ」 負けても負けても繰り返し勝負を挑む火神を冷ややかに見ていた目が次第に熱を取り戻していくのが愉快だった。 本物の天才を前に、全盛期からは程遠い動きしか出来ない火神は追い縋るのがやっとだったが、青峰とする1on1はとても楽しかった。俺はやっぱりバスケが好きなんだなぁ、と実感出来た。 火神にとってそれは、とても、とても嬉しいことだった。 「前言撤回するぜ火神センセー……最高だな、アンタ!」 とうとう自分を認めさせてやったときの笑顔が面映くて、照れ隠しにぐしゃぐしゃにした髪の感触は今日と同じ、思いのほか柔らかいもので――。 「火神センセー。……大我サン」 初めて呼ばれた名前の熱っぽい響き。火神はひとつ、息を吐く。 「男だぞ」 「うん」 「身体もデカいし、お前の好きな胸もねぇ。もうじき三十路のオッサンだ。それでもいいのか?」 「アンタがいい。すげー巨乳の美人でも、アンタじゃねえならいらねーよ。アンタが好き。俺は、大我サンが好き。なぁ。アンタは?」 「嫌いだったらとっくに……、ああ、もう。くそっ!」 数cmの距離を自分からゼロに埋める。 遠く聞こえる誰かの笑い声。 頬を撫でていった春風は暖かくて、ちっとも熱を冷ましてくれそうになかった。 End. (春をよぶ窓、親切設計@130308//title by BALDWIN) |