ぽつり、と頬に雫が当たった。
 いよいよか。片手に提げた傘を頭上に広げたその途端、雨が一気に注ぎ始めた。
 きゃあきゃあと悲鳴を上げる女子高生の集団や鞄を雨避けに走るサラリーマン、コンビニへと駆け込む大学生。

 「絶対忘れないようにね!」お前は俺のかーちゃんか。朝は口喧しいアイツがうるさくてしょうがなかったが、こりゃあさつきに感謝だな。
 勝者の余裕でそんなことを思いつつ、青峰は悠々と雨の街を歩いた。

 一定のリズムで降り注ぐ雨と、街路樹の葉先から時折落ちる大粒の雫が傘を打っては骨の先端から滴っている。アスファルトが濡れたとき特有の、むっとするような匂いが鼻先を掠めて、嫌いじゃねえなとぼんやり思った。

 意外だと言われるのが鬱陶しくて人に言ったことはほとんどないが、青峰は昔から、雨が嫌いではなかった。
 余計なもののなくなった雨上がりの空気も、たまにかかる虹も。増水した水が引けた後の、普段は見かけない面白いものが流れ着いている河原も、雨のときだけ出てくる生き物も。端から打たれるつもりで打たれる雨の感触も、どれも、案外と、好きで。

 構わず遊びに出かけては帰るたび、「風邪引くでしょ!」と散々叱りつけられたものだが。



「――火神?」


 目当てのスポーツショップまであとわずかのところだった。
 定休日の商店の軒下に見つけた見間違えようのない長身に、思わずその名が口をついて出ていた。


「ん、……あぁ、青峰」


 よぉ。こちらに気付いた火神は軽く手を上げた。
 己の名を紡いだ唇は、綺麗な弧を描いている。
 健康的な色合いの、しかし自分と比べれば随分と白く感じられる肌。いくつか房になり、雫を落とす暗い赤の髪。シャープな顔の輪郭を伝って首筋を流れる水、張り付いて、身体のラインを顕わにする制服。
 びしょ濡れだ。
 一目見れば分かるそれだけの事実がようやっと頭に染みこんで、慌てて駆け寄った。
 肩にかけたスポーツバッグを漁る。
 真新しい――これまた幼馴染に持たされたタオルを引っ張り出し、罵声と共に投げつけた。馬鹿か!


「悪ィ、さんきゅな」
「っお前なぁ」


 全く堪えていないのがよく分かる至極のんびりした口調でそう言われてしまい、どうにもこうにも脱力する。
 鋭い舌打ちをひとつして、青峰は火神から顔を背けた。
 閉じた傘を適当に丸め、約一歩分の距離を置いて隣に並ぶ。
 土砂降りの雨。強い雨音の中に紛れる、かすかな、自分以外の人間の息遣いと衣擦れの音に、渇いた喉がひくりと引き攣った。

 ちくしょう。何だって俺は、こんなに。

 火神には見えない側でこぶしを握り、時間をかけてゆっくりほどいた。気付かれぬよう細心の注意を払って、横目に火神を観察する。頭を拭きながら空を見上げる無防備な横顔。いつもより深くかかる前髪が、タオルの影が、眼差しの強さを和らげ、青峰は一瞬、知らない人間を見ている錯覚に囚われた。
 そんなはずない。これは火神だ。
 火神大我。
 アイツの光で、俺のライバルで、それから俺の、多分、ともだち。

 ――気付いている。知っている。薄く開いた唇をひどく柔らかそうだと思う心が友情と呼ぶには行き過ぎたものだと。火神の瞳の中、ふいに灯る光が同じ種類の熱を孕んだものだと。
 本当はもう、とっくに気付いている。
 それでも互いにそれを口にしないのは関係が壊れることへの恐れ、なんかじゃなく、似た者同士の俺達だからこその、……。


「――――たな」
「、あ?」


 思考に没頭しすぎていて、何を言われたのか聞き取れなかった。今、何て。聞き返す代わりに顔を向けると、火神は少し首を傾げ、青峰と目を合わせた。


「雨。止んできたな」
「あ……あぁ」


 たしかにその通りだった。雨はもう目を凝らさなければ見えないほどに細かく、ささやくような静かさで降り注いでいた。あちらこちらで雲が割れて、光の筋が長く地上へ伸びる。
 あれを何というのだったか。
 いつだったか、誰かに聞いた気がしたけれど思い出せなかった。


「The heavens opened.」
「……は?」


 先ほどとは違った意味で全く聞き取れず、青峰は怪訝に眉を寄せた。小さく苦笑して、火神は再び、今度はゆっくりとそれを口にする。
 ザ、ヘブンス、オープンド。


「アレックス、俺の師匠が教えてくれたんだけどな。『ひどい雨が降った』って意味なんだと」


 今、きっと天国が開いてたんだぜ。
 きらきら、きらきら、雨粒がきらめいていた。火神の背後に光が降る。
 綺麗だった。
 そんなものを背景にして笑う火神はとても。
 そう、とても。


「じゃあ、お前は落ちてきちまったんだな」


 ぽろり、と、思考を介さず言葉がこぼれた。限りなく本心だった。だからこそこれ以上なく始末に悪い。
 笑顔から一転、ぽかんと口を開け間抜け面すらそれはそれで悪くないと思うんだから、本当にもうどうしようもなかった。


「あー、もう。俺の負けでいいわ」
「あ、青峰?」


 がしがしと髪を掻き乱す。ひとつ咳払いをして、睨む強さで火神を見据えた。
 今ほど地黒でよかったと思うこともない。


「火神」
「うん」
「好きだ」


 大きく目を瞠り、顔をくしゃくしゃに歪めて、「俺も」。
 一生勝てなくてもいいかも、なんて思ったのは墓場まで持っていきたい秘密だ。


End.
(The heavens opened.@130209//ナチュラルに火神=天使思考の青峰の話)
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