「蒼也くん、大学合格おめでとう」
「……ボーダー推薦だ。誰でも貰える」
「あら、高校の成績だって良くないと貰えないのよ。でも私も安心した。また来年から、蒼也くんと同じ学校に通えるの、嬉しい」
「学部は違うが、先輩として、いろいろ教えてくれ」
「もちろん。本当に、おめでとう」

ああ、と短い言葉を返して、蒼也は視線を窓の外に移した。冷たく素っ気ない言葉のようにも聞こえるが、蒼也の感謝や含羞、安堵がきちんと詰まった返事であることを、幼馴染であるなまえはよく知っている。

窓の外は、朝から降り続いている雨のせいで、色を失っている。途切れた会話の隙間に、雨粒がガラスを叩く音が静かに響く。二人で過ごす時間の中の沈黙は嫌いではなかったし、むしろ、好ましいとさえ思っていた。暫くの間、子供が演奏する木琴の音色のような、不規則な雨粒が奏でる音楽を背景に、静かで穏やかな時間が流れていった。

「今日はひとりなんだ」
「ああ、おじさんは出張だったか」
「そう、関西。お母さんは職場の送別会だったかな、とにかく遅くなるって。蒼也くん、よかったら一緒に夕ごはん食べていかない?」
「そうさせてもらう」
「やった。何か一緒に作ろうよ」

孤独な夕食の回避に成功して、なまえは嬉しそうな笑顔を浮かべる。年上なのに、無邪気で明るくて可愛らしい、そんな印象は子供の頃から全く変わることがない。蒼也の口元も思わず緩んでしまう。

互いの母親が幼い我が子を遊びに連れて行く児童館が同じだった。そんな些細な縁で、蒼也となまえの付き合いは記憶にないほど幼い頃から始まっていた。母親同士の仲が良い、自宅も徒歩で行ける距離、小学校も中学校も高校も同じ、さらに来年度からは大学も同じとくれば、蒼也となまえの距離も自然と縮まっていく。こうしてどちらかの家に遊びに行き、静かな時間を過ごすことも少なくなかった。同性の友人や家族と過ごす時間とは違う、相手が特別な幼馴染だからこその心地良さが、そこにはあった。

炊きたての白米に、味噌汁、野菜炒め、鶏腿肉の照り焼き。冷蔵庫の中身と、スマートフォンに表示されたレシピとをあれこれ見比べながら、二人がかりでどうにか作り上げた夕食は、それなりに満足のいく味に仕上がった。食事中はそれなりに会話も弾んだが、終わってしまえばまた雨音だけが部屋を満たしてゆく。雨脚はどんどん強まっているようだ。これ以上酷くなる前に、そろそろ帰る? なまえがそう声を掛けようとしたタイミングで、蒼也のほうが一瞬早く、口を開いた。

「葬儀の日を思い出すな」

数年前のことなのに、まるで昨日のことのように思い出せる。兄を失った蒼也は涙ひとつ見せず、静かに現実を受け入れているようだった。なまえにとっての進は、歳が離れていることもあり「幼馴染の兄」と言い表すのが適切な関係性ではあったが、それでも身近な人間の死は涙なしでは受け入れられなかった。その日柔らかかったはずの雨脚は徐々に強くなり、地を穿つ弾丸のように降り注ぐ。身を守るために皆が広げた傘は真っ黒で、雨雲に覆われた空は灰色で。ただひとつ、肩を震わせて涙を流すなまえの手を握り、何も言わずに隣に立っていてくれた蒼也の瞳の赤だけが、なまえの記憶の中で色付いていた。

だが、蒼也の口からその話題が出たのは、恐らく葬儀以来初めてのことで、なまえは戸惑いを隠せないでいた。心の奥底に癒えぬ深い傷を残しながらも、それを敢えて見せないように気丈に振る舞ってきていたことを知っている。悲しみに暮れるのではなく、悲しみを乗り越えたその先を見据えて。蒼也はそういう人間だと、なまえは思っていた。

「進くんのことは……」
「いや、兄の話じゃないんだ。俺が……」
「蒼也くんが?」
「俺が、兄の真似事でボーダーに入ったはいいが。もう高校を卒業するのに、大して結果も残せていないと思ってな」

兄が、文字通り命懸けで熱心に打ち込んでいたボーダーとは何なのか。兄が得ようとしていた力、見ようとしていた景色は何なのか。それを身をもって知りたくて飛び込んだ世界は、楽しくも厳しいものだった。蒼也よりも年下の隊員が、後に入ってきた隊員が、華々しくA級や遠征部隊へと駆け上る。自分の実力不足が原因だとはっきりわかってはいる。わかってはいるが、色のない過去を想起させるようなこんな雨の日には、兄に近付くための道のりの遠さを嘆きたくもなる。

そんな胸の内を、なまえに初めて明かした。なまえは少しの驚きを持って目を見開いて、それから腕を伸ばして蒼也の頭をそっと撫でた。砂の城を崩さぬように、赤子をあやすように。

「蒼也くんが、弱音を吐くなんて」
「そういうときもある」
「もちろん。蒼也くんは頑張り屋さんだから、他の人の前ではなかなかこんな姿を見せられないでしょう。でも私の前では遠慮しないで、話してほしい」
「それは、俺が幼馴染だからか?それとも……」

蒼也は立ち上がり、なまえの隣に歩いて行くとぴたりと身体を寄せる。椅子に座ったままのなまえが見上げた蒼也の赤は、鋭く真っ直ぐになまえを捉えていた。そのまま互いの瞳に吸い寄せられるように、そっと二人の唇が重なった。

「……悪い。こんな、情けない姿を見せるつもりじゃなかった」
「ううん、嬉しいよ。もっと頼って、甘えてよ」
「それは、俺が、」
「幼馴染だけど、私は、蒼也くんとずっと幼馴染のままでいたいとは、思っていないから」
「……なまえも、俺と同じ気持ちでいてくれるのか」

なまえは、返事の代わりにもう一度蒼也にキスをする。蒼也の首元に腕を回して、何度も可愛らしく啄ばむように熱を確認する。蒼也もそれに応えるように、なまえの背を腕で支える。相手に恋愛感情を抱いていることを自覚するのも、伝えるのも、抱き締めるのも、キスをするのも、二人にとっては初めてのことだった。しかし、全てが初めてとは思えないほど、ごく自然な流れで、甘く確かな愛を交換していく。二人が微かに奏でる水音は、雨音にかき消されていった。

玄関のドアの鍵がそっと閉まる音がして、なまえは目を覚ました。目が覚めたら身体を起こして腕と背中を思いっきり伸ばす、毎日のルーティンを無意識のうちに実践しようとしたものの、身体は鉛のように重くベッドに沈んでいて起き上がることが出来なかった。そうだ、あの後、蒼也と――。下着も何も身に着けていない身体を布団の中で捩れば、隣に寝ている蒼也の肌と肌が触れ、思わずなまえの心臓は跳ねた。逸る鼓動を抑えるために深呼吸。伸ばした腕の先に見つけたスマートフォンを掴み、画面の明かりに視線を移すと、もうすぐ日付が変わろうとしているところだった。

「……なまえ、起きたのか」

愛しい声がなまえの名を呼ぶ。蒼也の瞳は相変わらず鋭く真っ直ぐだが、幾分か柔らかく、優しさを帯びているように見えた。想いが通じ合ったからなのか、甘く熱い行為を経た後だからなのかはわからないが、いずれにしても、単なる幼馴染としての関係は既に終わりを迎え、新しい関係が始まっていることを示唆していた。

「蒼也くん、ごめん、起こしちゃった?」
「いや、おばさんが帰ってきた音で起きた。大丈夫か?」
「……蒼也くんと一緒にごはん食べて、そのまま私の部屋で寝ちゃったから今日は泊まるみたい、って寝落ちる前に連絡しておいたから。大丈夫だよ」
「助かる。……いや、俺の心配は、なまえの身体のことなんだが」
「あ、ああ、だるいけど大丈夫だよ」
「優しくしてやれなくて、すまなかった」
「ううん、優しかったよ。嬉しかった」

そうか、という返事の代わりに、蒼也はなまえに柔らかなキスを落とす。それから布団の中で向かい合って抱き締める。二人の間には余計な言葉がないが、心地良い余白の中に、信頼や愛情や恋心や尊敬や、いろいろな気持ちが詰まっていることを互いに知っている。

「……大丈夫だよ、蒼也くん。努力は必ず実る」
「……ありがとう、なまえ」

相変わらず窓ガラスを叩きつけて止まない雨に紛れて隠れるように、素肌を寄せ合いながら、眠気に任せて意識を手放そうと目を閉じた。明日になれば、きっと、雨は止んでいるだろう。
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -