A級一位部隊の隊長、狙撃手の東春秋。隊員、射手の二宮匡貴。東くんと知り合ったのはまだ互いが学部生の頃だったけれど、知り合う前から、私は彼らのことを知っていた。当時、就職先の第一候補として、ボーダーという組織に非常に興味を持っていた。気になるものは徹底的に調べ上げて追及したくなる性質の私は、組織そのものについては勿論のこと、正隊員の簡易的なプロフィールや顔写真、インタビュー記事での発言、テレビ番組で放送された一瞬の戦闘シーンに至るまで、一般市民として得られる情報はほぼ完璧に脳内にインプットされていたと思う。だから、所属ゼミが同じになった東くんに、私の知り得る東くんの情報を伝えたところ、私の予想以上に驚かれた――正直に言えば、かなり引かれていたと思う。

就職面接では、ゼミでの研究内容と、ボーダーの技術者としてやってみたいことを正直に話した。すると、職員として働きつつ是非研究も継続してほしい、との熱い要請を受けたので、開発室職員、兼、大学院生となった。ゆっくりと頭を休めながら考えられる時間はほぼ無く、ボーダーでも大学でもタスクに追われる日々は目まぐるしくて、つらかった。そんな私を見かねてか、東くんはゼミ終わりによく寿寿苑に連れて行ってくれるようになった。焼肉が大好物になったのは、この頃だった。

ある日の寿寿苑で、特に深い意味は無かったのだが、ふと「二宮匡貴くんという人は元気にしてる?」と聞いたことがあった。「東隊の皆は元気にしてる?」と聞けばよかったのだが、そのときはどういう訳か、二宮くんの顔がぱっと頭に浮かんだのだ。すると、もうA級一位の東隊は解散してしまっていて、かつての部下はそれぞれ二宮隊、加古隊、三輪隊の隊長として活躍していることを教えてくれた。みょうじのことだからとっくに調べ上げていると思ったよ、と笑いながら言われ、自分の多忙を理由に、かつてあれだけ熱心だった正隊員チェックが疎かになっている事実を突き付けられ、ショックを受けた。

トリガーの保守開発を専門とする同僚が、開発室でもランク戦のログが見られることを教えてくれた。業務の区切りのよいタイミングや休憩時間など、僅かでも空き時間があれば見るようにした。どの隊も個性が出ていて面白いが、きちんと隊員の実力を発揮できている隊がB級上位、プラスアルファで突出した技術や戦術やチームワークを持っている隊がA級なのだなと、見れば見るほど皆納得できる動きをしている。そのうちに、無意識のうちに二宮くんの姿を目で追っていることに気付く。圧倒的なトリオン量に基づく大きなキューブが美しく分割され、相手を確実に仕留める。試合中だというのに二宮くんはいつでも冷静で、ポケットに手を入れたまま残酷な攻撃を放つ。まるで芸術、一瞬で心を奪われてしまった。睡眠時間と引き換えにログの閲覧に夢中になったため、目の下にクマを作ったまま大学に行くことも多く、その度に東くんは笑っていた。

私が二宮くんに特別に興味を持っていることに気付いたのか、東くんはよく二宮くんの話をしてくれるようになる。酔った東くんに一度だけ「二宮は色恋沙汰には疎いから、焦る必要はないぞ」とも言われたが、それは私の欲しい情報ではなかった。私が二宮くんのことを一方的に気に入って、一方的に観察させてもらっているだけだ。一般職員で、大学院生で、五歳も年上で、東くん以外の正隊員とは接点なんてまるでない私のことなんか、二宮くんが知る機会も知る必要もないのだから。

それからは大きな変化もなく、多忙だが平穏な日常が続いていた。しかし、運命の分岐点というものは本当に突然、気まぐれな風のようにやって来る。寿寿苑で偶然二宮くんに出会い、二宮くんに顔と名前を覚えてもらい、二宮隊が遠征部隊に選ばれて、二宮くんがわざわざ開発室まで私を訪ねに来てくれて、二宮隊が遠征部隊から外されて、二宮隊の狙撃手が隊務規定違反で解雇されて、二宮隊がB級に降格して、暫く経った、梅雨のある日の深夜のこと――私は二宮くんに、抱き締められていた。



「二宮、くん……」
「……こうしていても、いいですか」
「……いろいろ、つらいことがあったもんね」
「……すみません」

突然のことで何が起きたのか全く理解できておらず、思考回路は完全に壊れてしまったようだ。暴れる心とは裏腹に身体は至って冷静で、優しい慰めの言葉も自然に出たし、遠慮がちに私に身体を預ける二宮くんの大きな背中にそっと腕を回すこともできたし、二宮くんの首元に顔を寄せることもできた。この時期特有の雨と土と草の匂いに交じって、二宮くんの柔らかい匂いがする。うん、五感も正常。だけどやっぱり、何が起きたのか全く理解できない。

開発室での作業が思わぬひらめきで軌道に乗り、夢中でパソコンに噛り付いていたら、気付いたときにはもう深夜になっていた。明日は休日なので、研究のことは一旦忘れて久しぶりに自宅で羽を伸ばそうと思っていたのだが、この長雨の中、今から帰る気分にはなれない。一晩本部に泊まって、明日の朝帰ろう。手早く宿泊室を予約したところで、腹の虫が大きな音で存在を主張してくる。そういえば今日は朝食のトーストを食べたきり、昼食も夕食もすっかり忘れていた……。一度空腹を認識してしまった身体は簡単には眠りに落ちてくれないので、近くのコンビニへ夜食を買いに行くことにする。小走りで外へ出て、本部玄関の屋根の下で傘を差そうとしていると、ちょうど今本部へ戻ってきたらしい二宮くんと目が合った。二宮くんは酷く疲れ切った顔をしていた。「こんな時間に大丈夫?」そう声を掛け終わる前に、徐々に近付いてきていた二宮くんの腕がそっと伸びてきて、私の身体を包んだ。

どれほどの時間、そうしていたのかはわからない。真夜中なので私たち以外にここを出入りする人間はいなかったし、どこからか車の走行音は時折聞こえたけれど、世界は穏やかな雨音だけに包まれているようだった。

「……すみません、みょうじさん」

二宮くんの声で、止まっていた時計の針が再び動き出した。自然と二人の間に距離が生まれ、二宮くんの熱と匂いが失われていく。驚きと緊張とで訳のわからない時間がようやく終わり安堵した一方で、二宮くんが離れてしまって寂しいと思ってしまった。

「突然こんなことをされて、不快だったでしょう」
「まさか。私でよければ、話も聞くし、甘えていいよ」

出会ったのは数か月前のことだけれど、私は二宮くんのことを、二宮くんが高校生のときから知っている。そして恐らく、好きだった。あのときの高校生が、大人になって、つらい思いをして、この時間に家ではなく本部へと帰って来るくらい忙しくしていて、疲れていて、私を見つけると思わず抱き締めて、こうしていたいと言って、――そんな、そんな可愛いことをしてくれるなんて、信じられなかった。そう思ったら、考えるより先に言葉が出てしまっていた。二宮くんは心の底から驚いたというような表情をして、それからほんの少しだけ笑って「ありがとうございます」と言った。

「……みょうじさん、こんな深夜まで、お仕事お疲れ様です。引き留めてしまってすみません。宜しければ、家まで送らせてください」
「ううん、もう遅いから本部に泊まるつもり。で、お腹が空いたから、夜食を買いに行こうとしてたの。ありがとう」
「カップ麺でよければ、うちの作戦室にありますから、食べて行ったらどうですか」
「二宮くんこそ疲れてるでしょう。こんな深夜まで、付き合わせるわけにはいかないよ」
「俺が、そうしたいんです」
「……ええと、」
「今、一緒にいたいんです。甘えさせてください」

二宮くんはきっと、他人に自分の弱みを見せたり、頼ったり甘えたりするのが苦手なタイプだ。だから、二宮くんの事情を知っていて、日常的に顔を合わせる機会がなく、共通の知り合いも東くん以外にはいない、年上の女性である私が、一夜を共にする対象としては最適なのだろう。それは恋愛感情ではなく、子供が母親に抱く感情に近いものであることは明確だ。そう理解してはいるものの、こうもはっきりと好意を向けられたのは随分と久しぶりのことで、胸が締め付けられるような切なさと嬉しさを感じていた。

作戦室は宿泊には不向きということで、私の予約していた宿泊室に二人で入る。とにかく空腹だったので、二宮隊作戦室から頂いたカップ麺を味わっている間に、二宮くんにシャワーを浴びてもらう。交代で浴室を使う。泡立てた石鹸で素肌を撫でていると、この後起こり得ることをいやでも想像してしまうので、無理やり考えることをやめる。もうなるようにしかならない。それでいい。よし。

部屋に戻ると二宮くんはソファーでうたた寝をしていたので、「一緒に寝よう」と言いながら手をとってベッドに誘った。シングルベッドに二人分の身体を収めるには、必然的に距離を詰めなければならず、ベッドの中で向かい合ってゆるく抱き合う格好になる。二宮くんの腕が私の背中を撫で、それから頭を撫でる。心臓を落ち着かせるためにやや多めに鼻から息を吸い込むと、先程感じたものと同じ二宮くんの匂いがした。柔らかくて、甘くて、太陽を浴びた布団のようないい匂い。私の好きな匂いだ。そんなことを考えているうちに、瞼が重くなってきて、――結局、何も起こらなかったのだった。

「二宮くん、ごめんね」

気付いたときにはもう空が明るくなっていた。慌ててベッドから起き上がると、ちょうど部屋に戻ってきた二宮くんと目が合う。作戦室で着替えてきたらしい。

「昨日みょうじさんと一緒にいられて、俺は嬉しかったです。久しぶりによく眠れました。謝られるようなことは何も」
「うん、寝ちゃってごめんね……でも、その、したかったんじゃないの?」
「何をですか」
「……セックス」
「……は!?」

二宮くんが顔を真っ赤にして狼狽えている。成人男女が同じベッドで一晩を過ごす、イコール、そういうことが起きる、という暗黙の了解が当然あるものだと思い込んでいたが、二宮くんの反応を見るにどうやらそのつもりはなかったらしい。もうすっかり大人になってしまったとばかり思っていたのに、考えてみれば二宮くんの誕生日は数か月先だった。つまり、まだ未成年。申し訳なさでいっぱいになって、私の体温も急激に上昇していく。

「そういうことをしたくて、一緒にいたいと言った訳では……まあ、甘えさせてもらったのは事実ですし、そういうことをしたくないと言ったら、それは嘘になりますが」
「え、えっと」
「俺は、恐らく、みょうじさんのことが好きなんです」
「…………」
「恋人や、他に好きな人がいないのなら、俺と付き合ってください」

運命は気まぐれな風と言っても、限度ってものを知らないのだろうか。未だ私は眠りの中で、都合のいい夢を見ているのではないか、そんな気分にさせられる。しかし、これは紛れもなく現実で、真っ直ぐに私を見つめる二宮くんはいつになく真剣な表情で、その瞳に嘘偽りが宿っているとも思えない。ならば私も、嘘偽りのない正直な気持ちを伝えるほかない。

「恋人は……いません。好きな人は、二宮くん……」

羞恥に耐えてやっとの思いで言葉を絞り出す。もう、もう無理。勘弁して……。年甲斐もなく照れて恥じらっている様子を見られたくなくて、二宮くんの胸元に顔を寄せて、表情を見られないようにする。それから二宮くんの腕が私を包むけれど、昨夜の遠慮がちな抱擁とは全く異なり、しっかりと力を込めて抱き締められた。正直に言えば、嬉しさ半分、恥ずかしさと戸惑いが半分といったところで、私は暫く顔を上げることができなかった。
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