「あっちいな」

三門市立図書館、一階ラウンジ。自動ドアを一枚隔てた向こう側には書架が連綿と続き、静寂で独特な緊張感が張り巡らされているが、この空間が纏う雰囲気は随分と穏やかなものだった。自販機が缶やペットボトルを吐き出す音。エレベーターの昇降音。親子や友人同士で談笑している声。おれたち――おれとみょうじは、やや小ぶりのテーブルに向かい合って座り、シャープペンシルが白紙の上を走る音を聞きながら、目の前の課題と戦っていた。ボーダーの正隊員だからといって免除されることのないそれは、憎たらしい風物詩。夏休みの宿題だ。

少しずつ、ひとつずつ。朧げな授業の記憶を必死にかき集めて、課題を解いて、正誤を確認して、新学期早々に実施されるらしい試験に備える。単純でつまらない作業だが、手を動かしていれば次第に終わりは見えてくる。だが、人間には限界ってものがある。ふと途切れてしまった集中力は、簡単に取り戻せるものではない。諦めたおれは一旦ノートを閉じて、みょうじに話し掛けた。

「こんなに冷房効いてるのに。熱あるの?」
「いや外の音が暑いんだよ」
「ああ、わかるかも」

窓の外はもう馬鹿みたいに眩しくて、本日は猛暑日となるでしょう、と朝のニュースで気象予報士が注意喚起していたことを思い出す。ぎらぎらとした日差しが視界にちらつくだけでも暑いのに、加えて、ガラス越しでも明確に聞こえる蝉の大合唱。確かにこの空間は涼しいが、一歩でも外に踏み出せば、耳障りな灼熱の地獄が待っている。考えただけでテンションが下がる。もっと快適な気候の中であれば、宿題もいくらか捗っただろうに。

――というのはおれの暑さの理由の半分くらいを占めていて、もう半分は、目の前にみょうじがいること。これはもうはっきりしていた。久しぶりの一日オフ、たまには本部に行かずに過ごす日があってもいいか、だったらみょうじに会いたいと思った。出来れば二人きりで。断られても、既読無視されても、脈無しなのがわかるならもうそれでいい。半ば自棄になって勢いよく送信したメッセージには、予想に反して嬉しい返信が届いた。それが昨晩のこと。

確かに宿題は少しずつ進んでいるのだが、それ以上に、目の前にみょうじがいるという事実が嬉しくて、肝心の勉強内容は実はあまりインプットされていない。傍から見たら、これってデートじゃないのか? やべ、何かテンション上がってきた。思わず緩みそうになる頬を慌てて押さえ、平然を装う。「あのさ、」一旦途切れた会話を再び繋げたのはみょうじのほうだった。

「聞くタイミングを逃したから今聞くけど。夏休みの宿題を片付けるのに、なんで私が誘われたの? 米屋と一緒にやればいいのに」
「あいつはおれより馬鹿だから。おれが教える羽目になる」
「教えるのは別に構わないけど、私たちそもそも学校違うし。宿題違うし」
「中学の頃は三年間同じクラスだったろ」
「一高にも頭良くて教えてくれそうな人いるじゃない、三輪くんとかさ」
「細かいことはいいんだよ」

おまえと一緒に過ごしたかったから誘ったんだよ!なんて、今のおれには言える筈もなく。微妙に噛み合わない会話を半ば強引に終わらせて、再びノートを開き、シャープペンシルを走らせる。みょうじもおれに続く。さらさら、さらさら。二本分の細い黒鉛の芯が紙の上を滑る音がする。

みょうじの様子だと、嫌われてはいない、二人きりで会うのに抵抗がないレベルで仲の良い友達とは認識されているようだ。だが、男として意識されているとも思えない。はあ、まあそれでもいっか。

「みょうじ、これわっかんね」
「えーっと、……はいはい、二次関数ね」

みょうじが椅子を持っておれの隣に移動してきた。中学三年間を同じクラスで過ごしたということは、一緒に日直になって放課後の空き教室で日誌を書いたり、ボーダーの任務で欠席した分の授業内容を教えてもらったり、課外活動のグループが同じになったり、そういう思い出もそれなりの数ある。一緒に何かをするときはいつも決まって、みょうじが椅子ごとおれの隣に来てくれるのだった。懐かしいなあ、変わってないなあと思う反面、よく見ればみょうじは随分大人っぽくなったなあとも思う。髪を染めて、薄く化粧をして、爪もきれいに整えられている。私服も可愛いけれど、甘すぎないおれ好みな感じですごくいい。

みょうじの教え方はさすが進学校の優等生といった感じで、とてもわかりやすい。大学生になったら、塾講師のアルバイトとか向いているんじゃないか。でも、一生懸命解説してくれているところ大変申し訳ないが、おれの耳にはもうほとんど入っていない。おれの頭の中は、みょうじとこんなに近い距離にいられて嬉しい、みょうじが好きだって気持ちでいっぱいだった。適当に相槌を打って、内容を理解しているふりをする。

机上に目線を落としているせいで、重力に従ってみょうじの髪が垂れ下がる。それをさっと耳にかけるとき、おれしか気が付かなかっただろう、ほんの僅かな風に乗ってみょうじの香りがした。

「好き」

思わず心の声が漏れてしまった。何やってんだよ、おれ! 緊張と焦りと恋心が混ざり合って、鼓動がどんどん早くなる。みょうじはどう反応するだろうか。冗談止めてよとか、暑さで出水がおかしくなっちゃった、とか言いそうだな……。暫く息を潜めて様子を伺っていたが、みょうじは表情ひとつ変えずに解説を続けてくれている。あれ、気が付かなかったのか。他の誰かの話し声だと勘違いされたのだろう。

楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。その後もみょうじと他愛ない雑談をしたり、解説してもらったり、互いの宿題に黙々と向き合ったりしていたのだが、いつしか日は傾き始め、うっすらと蜩の鳴き声が聞こえてきた。そろそろ帰るか、と言いながら腕を上げて身体を伸ばす。名残は惜しいが、何時間も二人きりで過ごすことが出来たのだ。今日は満ち足りた気持ちで良く眠れそうである。

図書館を出ると、太陽の威力は弱まっていたが、蒸し風呂のような熱気は相変わらずだった。日本の夏はどうにも湿度が高すぎる。なるべく日陰の多そうな道を選んで帰ろう。みょうじと隣同士で並んで歩く。さっきは座っていたから気が付かなかったが、みょうじってこんなに背が小さくて華奢だったか? 中学の最初の頃は、みょうじのほうが若干背が高くて、勉強も部活も何でも出来るからか、結構大きいイメージがあったのに。

「今日は一日付き合わせて悪かったな」
「ううん、私もかなり進められたから良かったよ。一人で黙々とやるより、出水とおしゃべりしながらやるほうが楽しかったし。誘ってくれてありがとう」

真っ直ぐにおれに向けられたみょうじの笑顔は、夕焼けに照らされて、とてもきれいだった。きれい。可愛い。好き。今すぐにその小さな背中を抱き寄せて、抱き締めて、キスしたい。でも、別に好きでもない、ただの友達に突然そんなことされたら嫌だよなあと思って、動きかけた腕を何事もなかったかのように戻す。そうして平静を装ったつもりでも、一度火の点いた恋心までは、口をついて溢れ出す言葉までは、止めることが出来なかった。

「みょうじってさ、彼氏、とかいんの」
「え、何?」
「彼氏とか、好きな奴とか」
「彼氏はいないけど……」

みょうじは言葉尻を濁して俯いてしまった。徐々に歩く速度が落ちて、おれとみょうじはついに足を止めてしまう。もう後戻りは出来ない。やばい。心臓が暴れて口から飛び出そうだ。

「出水、確信犯?」
「ん?」
「彼氏がいるかどうか気にしてきたり、昼間だっていきなり、す、好きとか言ってきたり……」
「あれ、聞こえてたのか……」
「隣で言われたら、聞こえるよ……もう何なの。私の気持ちを知ってて、からかってるの?」
「からかってなんかいない。おれはいつでも真剣だ」
「……出水が、もしかしたら私に気があるのかもって、勘違いしちゃうから。そういうことは、軽々しく言わないほうが良いよ」
「……軽々しく言ったつもりはないし、勘違いでもない。って言ったら?」
「そ、それって」

おれは何かを考えるよりも先に、みょうじの小さい肩に手を伸ばして、少しだけ抱き寄せて、淡く色付いた頬に唇を寄せていた。ほっぺにちゅー。一瞬肌と肌が触れただけ、なのに、全身を燃え上がらせるには十分すぎる威力を孕んでいたようだ。身体が熱い、心臓が煩い、呼吸が難しい。それはおれの身体だけに起きた変化ではなくて、目の前のみょうじにも同じことが起きていた。暫く無言で深呼吸。ちらりとみょうじに視線を移し、目と目が合うと、恥ずかしくて思わず反らしてしまう。二人して同じ反応をしているのが段々面白くなってきて、思わず笑ってしまうと、みょうじもつられて笑顔になってくれた。

「大体さ、誘った時点で気付けよな。わざわざ学校の違う奴と一緒に宿題やるとか、意味不明だろ。みょうじと二人きりになるための口実だって」
「それは私も思った! 思ったけど、さすがに自惚れかなって……」
「顔真っ赤。そんなんで、よく昼間は涼しい顔してたよな」
「必死に抑えてたの! 本当は誘ってくれて、二人きりになれて、すごく嬉しかったんだから」
「あー。まじで可愛いなー」
「い、出水だって、完全にいつも通りだったじゃない」
「嘘だろ。ずっと心臓バクバクだったのに。おれ、ポーカーフェイスの才能もあんのかな」
「そんな才能無くていいから」

想いが通じ合ったのが嬉しかった。想いが通じ合っても、今まで通り楽しく喋れることが嬉しかった。おれの言葉でみょうじが照れたり、笑ったり、喜んだりしてくれることが嬉しかった。嬉しいだらけで、不愉快な湿気が肌に纏わりついていても全く嫌じゃない。鮮やかに晴れ渡った青空に、すっきりと澄んだ空気、朝日を浴びてきらきらと宝石の如く光る川、そんな光景を見ているような気分だった。真夏の夕方だけど。昨日のおれ、よくやった!

そんなことを考えながら再びゆっくりと歩き始めていると、予想よりも随分と早く目的地に接近してしまったことに気付く。この角を右に曲がればすぐ、みょうじの家があったはず。昼からずっと一緒にいたけど、もう少しだけ一緒にいたくて、おれはみょうじの手をそっと握る。遠慮がちに握り返してくれたみょうじの手はとても細くて、柔らかかった。

「明日は一日ボーダーの予定が入ってんだけど、」
「あ、私も。家族で出掛けるんだよね」
「ならまた連絡するわ。次はちゃんともっと……こう、デートっぽいことしようぜ」
「うん。楽しみに待ってる」

優しい笑顔を交換し合って、みょうじが無事に自宅の中に入ったのを見届けてから思う。あれ、これって、付き合うってことで良いんだよな。みょうじがおれの彼女で、おれがみょうじの彼氏。だよな? そういえば、きちんとみょうじの目を見て、「みょうじのことが好きだ」と告白するのを忘れてしまった。何やってんだよ、おれ! 慌てて制服のポケットからスマートフォンを取り出し、みょうじ宛のメッセージ画面を開いて「好き」と入力したところで、入力内容を破棄する。こういう大切なことは、無機質な電子的情報には乗せないほうが良いような気がしたからだ。夏の暑さで溶けてしまったらしい二文字は、次のデートの日に開口一番に伝えることにしよう。そのときのみょうじの反応を予想しながら帰路につくおれ、どうか、この頬の緩んだ姿を誰にも見られませんように。
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