水曜日。本日最後の講義が終了すると――時刻はまもなく19時になるところだ――大学内のコンビニ横に設置されている、数十名分のイートインスペースで軽食をとるのが、嵐山の習慣になっていた。シーフードヌードルのカップに湯を入れ、着席し、小さな食事の完成を待つ間に講義のノートを読み返す。防衛任務、訓練、後輩指導、隊の運営、組織の運営、広報活動。日々ボーダー隊員としての業務に忙殺されている嵐山だったが、時間の許す限り学業にも真面目に取り組んでおり、こうして学内で過ごす時間が世間一般の予想以上に多いことは実はあまり知られていない。

そろそろ三分経っただろうか……。ノートに落としていた視線を上げたところで、何故だか、隣に座る者の気配が気になって、そちらを向く。隣に座る女性は、同じように机に広げたノートを読み返しながら、目の前のコンビニで購入しただろう菓子パンをかじっているところだった。

「また隣になったね、きみ」

嵐山の視線に気付いたその女性は、動じることなく口の中のものを咀嚼し飲み込むと、嵐山に言葉を掛けた。

「え、あっ……すまない。つい、見てしまっただけなんだ。他意はない」
「ふうん、そっか」
「……いや、また隣になった、とはどういう意味なんだ?」
「え〜。さっきの五限の講義だよ。あんなに不人気で人数の少ない講義、熱心に一番前の席で聞いてるの、わたしときみだけだよ」
「……ああ!」

出席を取らない、試験の過去問題が出回っている、メディア出演が多く有名な教授の講義である、通いやすい時間である(早起きが必要な一限や、帰りが遅くなる五限は不人気の一因である)、などの理由で受講人数が膨れ上がった講義は、大講堂で華々しく行われるものだ。大講堂での講義の後は、有名人である嵐山に勇気を出して話し掛ける者、嵐山の噂話をする者、遠目に眺める者が少なからずいる。特別鬱陶しく思うわけではない。メディアに露出して笑顔を振りまいているのは事実なのだから、仕方がないとさえ思っている。だが、先の講義はおよそ十名程度の学生しか受講していない。嵐山は、講義の内容は勿論興味深く思っているが、それ以上に、小ぢんまりとした静かな空間で勉強出来ることを魅力的に思っていた。そして、その講義で必ず隣に座る者がいることを、嵐山は思い出したのだった。

「ちなみに、この席で隣同士で夕食をとるのも、三回目だから」
「そうなのか……よく、覚えているな」
「ねえ、きみってボーダー関係者?」

女性が嵐山の机上を指さす。広げられたノート、ノートに置かれたボールペン、レジュメを詰め込んでやや膨らんだクリアファイル、全てボーダーのロゴが入った公式グッズだった。嵐山は持ち物にこだわりがなく、支給されるものを深く考えずに使っていただけだったのだが、なるほどこれでは一目でボーダー関係者、もしくはボーダーの熱烈なファンであることが丸わかりだ。

ところで女性の質問の意図は一体何だろう、と嵐山は思った。自分で言うのも気恥ずかしいが、嵐山はボーダーの顔である。テレビ番組、ネット記事、雑誌、書籍――あらゆるメディアで嵐山の姿を見ない日は無いと言っても過言ではない。故に、大学で講義を受けていても、オフの日に街を歩いていても、自分を知らない者に出会う機会はまず無かった。いつもどこでも、自分の知らない誰かが、自分のことを知っている。それが世の常識なのだと、思っていた。

「……まあ、一応」
「へえ〜。ボーダーの知り合いって皆忙しそうにしてるけど、きみは五限の講義も真面目に受けていて偉いね」
「…………」
「ボーダーでもきちんと学生出来るんだね。知らなかったよ」

この女性は、まさか、俺のことを知らないのではないか?そんな驚きと期待とが入り混じった感情に支配されていると、パンを食べ終わったらしい女性がさっと荷物をまとめて、席を立ったところだった。嵐山は思わず彼女を呼び止めようとするが、それより先に彼女が嵐山のほうへ振り返る。

「名前聞いてもいい?」
「嵐山、准だ」
「わたしはなまえだよ。じゃあまた来週ね、准くん」



翌週の水曜日。午前中は生放送のテレビ番組への出演、午後は雑誌のインタビュー記事の取材と撮影の仕事が入って、嵐山は一日の大部分を自主休講することとなった。だが、予想以上にスムーズに進み、予定の仕事が全て終わったのは17時前。このまま本部で書類仕事を片付けるか、大学へ向かい五限の講義を受けるか。嵐山は一瞬だけ迷ったが、すぐに大学の方向へと足を運んだ。

二十分ほど遅刻してしまったことを心の中で謝罪しながら、嵐山は小さな教室のドアを静かに開けた。教室の中はいつも通り、淡々と喋り続ける教授と、真面目そうな学生がおよそ十名程度。一番前の席にはなまえが座っている。嵐山は定位置に着こうとするが、やはりこの静かな空気を乱したくないと思って、ドアに一番近い、教室の一番後ろの席にそっと座った。

「准くん、来てたんだね」

講義が終わり、教室を出て、コンビニに向かう道すがらなまえが嵐山に話し掛ける。隣に誰もいないのは初めてだったからなんだかそわそわしちゃった〜。間の抜けた、女性にしてはやや低めの落ち着いた声色で、なまえが微笑みながら言う。

「きみってさ、割と有名人だったんだね」
「えっと、まあ……」
「知らなかったんだ。わたし、テレビとか見ないし」
「……俺は、なまえさんみたいな人がいることを、知らなかったよ」
「あはは、ごめんって。なんでわかったかと言うとさ、昨日、そういえば明日准くんに会えるな〜と思って、お名前で検索してみたの。そしたらもう、わあ〜って」
「はは、何だそれは、どういう意味だ?」
「記事も写真もめっちゃ出てくるじゃん。しかも赤いジャージ着てるじゃん!って。ボーダーと言えば赤いジャージってのは、なんとなく知ってたんだけど、それがまさかきみだなんてさ」

笑い合いながら、二人は気付けばコンビニの前に来ていた。特にこの後の予定を約束したわけではないが、嵐山もなまえも、迷いなくコンビニで軽い夕食を探し、いつもの定位置に着席した。先週と同じだ。

「ところでさ准くん、聞いてもいい?」

なまえが身体をやや嵐山のほうへ向けて質問する。嵐山は表情を変えずに、なんだ?と返事をしたものの、内心やや穏やかではなかった。「ボーダーの顔である嵐山准」に向けられる、いやというほど聞き飽きた質問が、彼女からも投げ掛けられるのではないか。嵐山はほとんど無意識のうちに身構えていたが――

「さっき最後に教授がぽろっと漏らした共通点うんぬんの話だけど、あれ、比較対象としていまいちじゃない?国内の状況が似ていたから、確かにぱっと思いつくのはこっちかもしれないけど、だったら統治体制が全く同じ15世紀の場合と比べて考えたほうがいいんじゃないかなあ〜。いま歩いてるうちに、急に気になってきちゃってさ。まずは准くんの意見から聞いてみようと思って」

――それは杞憂に終わったようだった。



その翌週の水曜日は、どういう訳かなまえは姿を見せることなく、嵐山ひとりで最前列の席に着いた。淡々と喋り続ける――恐らく、大多数の学生からは「つまらない」「眠気を誘う」と評されてしまいそうな――教授の話を真剣に聞き、必要な情報はノートに確かに記録する。やっていることは普段と何ら変わらない。だが、隣になまえがいないというだけで、嵐山は心の片隅に小さなざわつきを覚えた。(そういえば、なまえさんのこと、俺は何も知らないな)連絡先だけではない、名字も、所属学部も、学年も。ただひとつ言えるのは、嵐山が今までの人生で出会ってきた人間の中で、一番変わっていて、一番気になる存在だということだけだった。

そのまた翌週の水曜日は、嵐山が不在となる番だった。(あれっ、今週こそは会えると思ったのに。ボーダーのお仕事かなあ)なまえも何だか心が落ち着かなかった。なまえにとっての嵐山の第一印象は、とっても真面目な男の子。講義を真剣に受け勉学に励んでいるという意味では、なまえも十分真面目な部類に入るのだが、なまえは本能に従いゆるく生きているような雰囲気を纏っていた。気ままな野良猫タイプ。対して嵐山は、講義中の姿も、コンビニの横でカップ麺を啜る姿も、帰路に着く前にテーブルの位置をきっちり元に戻す姿も、端麗な容姿も、はきはきとした話し方も、どこをとっても模範となるような優等生タイプ。(四六時中優等生の演技してて、疲れないのかなあ)それがなまえの興味を十分にそそるのだった。

不運にもすれ違いが続くこと、およそ一か月。久しぶりの再会の舞台に選ばれたのは、いつもの小さな教室ではなかった。夕焼けの紅に染まりゆく、三門市内の大通りの交差点。信号待ちをしていた見覚えのある小さな背中に、嵐山は思わず声を掛けずにはいられなかった。

「なまえさん!?」
「あっ……れ、准くんだ。まさかこんなところで会うなんて」
「テレビ局での仕事が終わって、今からボーダー本部に向かうところなんだ。なまえさんは?」
「おっ、忙しくしてるね〜。わたしはね、面接の帰りだよ」

そこで嵐山は、なまえの姿が普段とは全く異なることに気付いた。薄いベージュのトレンチコートに黒いスーツ、黒い鞄、黒いパンプス。化粧の色が控えめになっている気もする。

「就活生……四年生、だったのか」
「あれ、言ってなかったっけ」
「てっきり、同い年かと……いや、幼く見えると言いたいわけでは、ない、んですが」
「あはは、今更敬語なんて使わないでよ〜」
「……なまえさんがそう言うなら、使わないようにするよ」

信号が青色に切り替わり、人々が堰を切ったように交差点へと溢れ出す。嵐山となまえは、向かい合ってその場に立ち尽くしたままだ。嵐山は考える。就活が終われば、必要な単位を取る見込みがあれば、もう二度と大学には来ないかもしれない。真面目ななまえさんはきっと好きで自主休講することは無いだろうが、万が一ということもある。この交差点で別れたら、連絡する術もなく、もう二度と会えないかもしれない。そう思ったら、次に口をついて溢れ出る言葉はもう決まりきっているようなものだった。

「……今更かもしれないが、もし良かったら、連絡先を交換しないか?」
「いいね。次きみに会ったら、わたしもそうしようと思ってたんだ」



それから数か月。喧ましい蝉の大合唱に耳がようやく慣れてきて、風に揺れる鮮やかな緑の音と、絶妙なハーモニーを奏でている。長い休みの所為で大学の講義は暫くお休み。だが、嵐山となまえは定期的に(実は殆ど毎日)他愛もない連絡を取り合っていた。たまにふたりで食事や買い物に出掛けたりもした。特に何かが起きたわけではないけれど、互いに心地良い時間を過ごしていたようだった。

その日、嵐山は作戦室でのミーティングを終え、溜まっていた書類仕事と向き合おうとしていた。机に向かうよりも、身体を動かす訓練や任務のほうが好きなのに……。逃避行の言い訳が頭に浮かぶ度に、なまえの隣で机に向かっていた時間を思い出して、何とか意識を奮い立たせる。ぶるり。隊服のポケットに入れっぱなしだったスマートフォンが震える。受信したのは、今まさに脳裏に浮かんだ人物からの、短いメッセージだった。

" やっと内定もらえたよ〜!(;ω;) "

普段の嵐山の姿を知る者には到底想像出来ない速度で、てきぱきと効率良く書類が処理されていく。予定より早くボーダー本部を後にして、向かうのは――大学内のコンビニ横に設置されている、数十名分のイートインスペースだ。

「なまえさん、おめでとう!本当に、長い間よく頑張ったな」
「あはは、ありがとう〜。なんか照れちゃうよ」
「でも、本当にここで良かったのか?俺はまだ酒は飲めないが……もっと、お洒落なレストランとかでも良かったのに」
「准くんがお祝いしてくれるって言ったら、やっぱここでしょ」
「……はは、随分嬉しそうな顔だな。なら、ここにして良かったよ」

折角の特別なお祝いなので、嵐山は洒落たディナーでもと意気込んでいたのだが、なまえが希望したのはいつもの場所だった。大学の講義は休みでも、サークル活動等で学生の出入りは多いため、コンビニも通常通り営業している。日が暮れても蒸し風呂のような空気はちっともましにならないが、ここは適度に冷房が効いて気持ち良い。

「どこに決まったんだ?」
「出版社。いろんな業種に手を出したけど、やっぱり、物を書く仕事っていいなと思ってね」
「そうか。なまえさんにぴったりの仕事だと思うぞ」
「わたしさ、准くんに本当に感謝してるんだ」
「それは……」

嵐山となまえは恋人として付き合っているわけではないし、明確に恋心を自覚したわけでもないが、互いのことをもっとよく知りたいと思っていたし、次に会える時間を楽しみに日々を送っていた。だから、毎日の連絡が励みになったとか、たまのデートのおかげで息抜きできたとか、そういう台詞が続くと思ったのだ。しかし、なまえのことである。彼女は嵐山の想像をいつもはるかに超えてくる。

「面接に行ったらさ、控室の壁に大きいポスターがたくさん貼ってあったんだ。雑誌の表紙写真を使った販促ポスターでさ、バックナンバー分も全部ずら〜っと」
「……?」
「で、その中にめっちゃ笑顔の准くんがいたんだよ。超眩しかった〜。あれは去年のお仕事なのかな?なんか高校生っぽい感じがした。とにかく、それでわたしは緊張の糸がほぐれちゃったんだ。准くんが隣にいるよ、なんだ、いつもとおんなじじゃんってね」

あはは、と鈴を転がしたような笑い声がイートインスペースに響いた。撮影の仕事は数多く、いつどのタイミングでの仕事かすぐに思い出すことは出来なかったが、過去の自分が今も出版社の壁を彩っているだなんて思いもしなかった。いやそれよりも、なまえさんの笑顔のほうが、超眩しいんですけど。嵐山はそんなことを考えながら、暫しの間なまえに見惚れてしまった。胸の内を悟られないよう、小さな咳払いをひとつ。

「……何だか気恥ずかしいが、それで緊張が解けて、面接で上手く話せたと」
「そうそう。それでとんとん拍子に上手く行って、最終面接まで進めたんだけど、ここで明暗分かれる!と思うと、さすがに緊張しちゃったよ〜。どうしようかなあと思ってたら、面接の前に、人事の人が編集部を案内してくれたのね。職場の雰囲気を見てくださいってさ。そこで編集部の入り口にさ、何が置いてあったと思う?」
「うーん。ポスターじゃないとしたら……何だ?」
「准くんの等身大パネルだよ!わたし笑い堪えるのに必死でさ、もうこれは緊張してる場合じゃないぞって。てか、准くんのせいで、せっかくのオフィス見学もほとんど覚えてないし」
「なまえさん。そんなに笑わなくても……」
「え〜だって。きらっきらの等身大の准くんが、爽やかポーズでこっち見てるんだよ?わたし俳優さんでも何でも、等身大パネルにされた人なんてほとんど見たことないよ。あのパネル、何?あはは」
「あれは……一冊まるまるボーダー特集の本が出版されたときに、表紙の写真を使って、多分あちこちの書店にも配られた販促用の……そんなに笑われると、はは、俺まで楽しくなってくるな」

今度は二人分の笑い声が空間を満たす。営業用スマイルを装備したボーダーの顔としてではなく、ごく平凡な大学生としての、幸せな頬の綻び。あ〜久しぶりに笑いすぎてお腹痛い、そう言いながらなまえは滲む涙を拭い、改めて嵐山のほうに身体を向ける。

「まあ、とにかく、最後まで傍にいてくれてありがとうって、言いたかった」
「……俺は、これからも傍にいたいと思ってるんだが、どうだ?」
「わお。すごい口説き文句だね」
「こんなことを言えるのは、なまえさんにだけさ」

少しだけ真剣な眼差しで、真剣な声色で嵐山はそう告げる。この嵐山の覚悟を決めた告白に対しても、きっとなまえは、もちろんいいよ〜。と、特に深く考えもせずどこか間の抜けた返事をするのだろう。だが嵐山の予想はまたしても外れてしまった。嵐山の網膜に焼き付いたのは、驚きで目を見開き、頬と耳を真っ赤に染めたなまえの顔で――少しだけ開かれた柔らかそうな唇に、ほとんど無意識に吸い寄せられるように、嵐山はそっと触れるだけのキスをした。ある夏の夜のこと。奇しくも今日は、水曜日だった。
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