研究室へは午前中のうちに向かおう。そう思いながらのんびりと朝食をとり、新聞を読み、テレビは適当な情報番組をつけておく。時計の針は既に十を指そうとしている。こうして慌ただしさの皆無な、優雅な朝の時間を過ごせるのは大学生の特権だと思う。わたしはこのモラトリアムをもう二年得た。勿論その代償という訳ではないが、終電に間に合わせようと駅まで全力疾走したり、研究のために大学に泊まり込んだり、なんてことはざらにある。好きで選んだ進路だから、充実した毎日を送っていることには変わりない。ただ、

『――皆さんの暮らしをより安全・安心なものにするための情報を、スタジオにお越し頂いているボーダーの嵐山隊の皆さんに、教えて頂きましょう。本日はよろしくお願いします――』

こんなニュースが耳に入ってきた日には、少しだけ胸の奥に寂しさが残るのだった。

わたしは大学卒業を機にボーダーを辞めた。理由のひとつは、わたしがいなくともボーダーは上手く回ると思ったから。ボーダーには青春を捧げたと言っても過言ではないくらい長く所属していたが、やはり新しく入ってくる中高生の実力の伸びは目覚ましく、わたしはどんどん追い抜かれた。わたしも負けじと訓練に励んだが、年齢には勝てなかった。わたしよりも若く強く頭の良い隊員がたくさんいることを自覚したのと、大学卒業・大学院進学が丁度良いタイミングで重なって、わたしの背中を押してくれた。

もうひとつの理由は、折角大学院にまで進むのなら、研究者として研究に情熱を注ぎたいと思ったから。ボーダー隊員だったおかげで近界民についての知識はそれなりにあるが、あくまでもそれはボーダー視点でのもの。玉狛に近界民の技術者がいたことを知ってから、近界とはなにか?近界民は絶対悪なのか?近界民と人間との共存は不可能なのか?――近界民に関するあらゆる疑問を、ボーダーとは異なる視点から知りたいと思った。わたしの中では、実はこちらの理由の比重のほうが大きいのだけれど、かつてのボーダーでの仲間たちには誰にも言わなかった。相談しなかった。今もなお危険を顧みず戦い続ける仲間たちに、「近界民を絶対悪とするボーダーの考え方とは違う視点で研究を続けます」なんて、わざわざ言う必要もあるまい。そうしてわたしがそっとボーダーを去ってから、もう三か月が経っていた。

ボーダーを辞めたことに対する後悔の念は全くないけれど、ひとりだけ、きちんと話をしておくべきだったと思う相手はいる。風間蒼也――彼は大切な後輩で、仲間で、ライバルで、そしてわたしの好きな人。きっと彼も私に対して同じ気持ちを抱いていたと思う。しかし互いに互いの気持ちに気付いていながら、一度もそれを言葉に出来ないままだった。送別会はわたしの希望で、所属隊の隊員だけの小規模なものにしてもらったから、彼と別れの挨拶を交わす機会もなかった。最後くらい、またふたりで居酒屋でも行けば良かっただろうか。ボーダーを辞めたその日にわたしは連絡先を変えてしまったから、誰からも、彼からももう連絡が来ることはないだろう。こんな気持ちになったときには、わたしの携帯電話には未だに残る彼のメールアドレスをぼんやりと眺める。消すことも、メールを送ることも出来ないアドレス。研究に専念したいから、と自分に言い訳し、このアドレスの処遇について判断を先送りにし続けて、三か月が経っているということでもある。

『――えー以上、嵐山隊の皆さんにお伝え頂いた訳なんですけれどもね、ボーダーの皆さんというのは本当に良く活動してらっしゃる。ほとんどが若いのにね、命を賭してね、街を守ってくれる。素晴らしいですね――』

ふと視線を新聞からテレビへと移すと、嵐山隊は既にカメラの前にはおらず、コメンテーターがボーダーについて好き勝手に持論を展開しているところだった。基地付近で行われたらしい今月の対近界民戦の様子が、ダイジェスト映像のように編集されて流れる。こんなに前線にまでカメラが入るようになったのかと少し驚いた。テレビに映るのは嵐山隊、三輪隊、東隊、来馬隊――三か月しか経っていないけれど、皆変わりない姿で活躍している。画面がぱっと切り替わって、映ったのは風間隊。蒼也。

「…やっぱり、全然、変わりないな」



画面越しに、しかも一瞬ではあるが久し振りに見た彼の姿が、どうしても忘れられなかった。もしもちょうど今日彼が本部にいて、防衛任務も遠征予定もなく時間に余裕があるようなら会いたい。そう思ったわたしは、研究室行きの予定を後回しにして、ボーダー本部へと足を運んでいた。大通りまで出たら交差点を右に曲がって、次は住宅の裏道を左。しばらく直進して、ふたつ目の交差点を右。毎日通っていたはずの本部への道も、三か月ぶりとなると懐かしく暖かなものに感じる。

ところがいざ本部を目の前にすると、わたしは無性に帰りたくなった。わたしは誰にも相談せずにひっそりとボーダーを辞めたのだ。それだけでなく、連絡手段の一切も絶ってしまった。わたしがいなくなってから、彼や他の仲間たちはきっとわたしに一度は連絡を寄越しただろうが、その全てがエラーで送信出来なかったということに想像を巡らせると、とてもではないが皆に会わせる顔がなかった。それに、今本部に入ったとして、彼がもし非番だったらわたしはどうすればいいのだろう。本部に入らなくとも、わたしは彼のメールアドレスを未だに持っているではないか――

「おい」

不意に背後から掛けられた声に驚き、わたしは思わず変な声をあげてしまった。慌てて振り返ればそこにはわたしが会いたがった人物がいた。最後に会って話をしたのは三か月以上も前のことだが、いま顔を合わせた瞬間に時計の針が高速で回転して、それまでの空白を埋めていくような思いがした。年上の先輩であってもわたしだけには敬語を使わないところは相変わらずで(これだけ仲良くなったのだからそうしてほしいと頼んだのはわたしだ)、ほっとしたわたしはそっと笑みを零した。

「何してる?」
「本部に行くか迷ってたんだけど…」
「もうトリガーは返上しただろう?なまえは入れない」
「あ、そっか…確かに」

トリガーを持つ隊員でなければ本部には入れない。そんな当たり前の規則がすっかり頭から抜け落ちてしまっていた自分に落胆する。しかし、もう本部に入れなくとも何の問題もない。わたしが本部へ向かった目的は、あなたに会いたかったからなんだ。微かに緊張が走り強張る唇でそう告げると、彼はわたしの腕をとり、本部とは反対の方向へ歩き出す。

「…話があるんだが、ちょっとだけ時間をくれないか?」

修辞疑問。もう歩き出しているのに、「時間をくれ」と言わないところが彼らしい。一応年下の後輩だしわたしより背は低いけれど、わたしの前を歩く彼は間違いなく男らしく、格好良く、大きく見える。この道を行くのなら、目的地はいつもの公園だろう。訓練や任務が終わると、コンビニで買ったおやつを片手に、よくふたりで話をしに行っていた場所だ。

「蒼也は平気なの?時間」
「暇だから本部で鍛錬しようと思っていただけで、今日は非番だ。大学も休み」



彼に連れて行かれたのはやはりいつもの公園だった。公園の一番奥にあるベンチにわたしたちは腰を下ろす。これもいつも通り。しかし、ふたりで座るには少々幅の狭いこのベンチを使うのも久し振りだったから、すぐ近くにある彼の顔や身体に、わたしの心は揺り動かされるばかりだった。少し手を動かしただけで彼に触れられるし、少し顔を横に向けただけで彼の顔が近くなる。わたしは前を向いたまま、彼が投げ掛けてくる三か月分の質問に答えていく。

わたしはボーダーを辞めるに至った経緯とその理由を正直に話した。それから、彼が興味を持ったので、今書いている論文についての話もした。ボーダー管轄外の土地に残る近界民の痕跡についての研究だ。彼からの連絡を全て絶ってしまったことについても詫びる。

彼に会って、きちんと話しておくべきだと思っていたことは、ほとんど伝えられたはずだ。突然彼の前から姿を消したことについて、もっと怒られたり悲しまれたりするかと予想していたが、意外にも彼は「なまえの決めたことだから」と納得し、それ以上詮索してこなかった。

「…まあ、正直に言えば」
「うん?」
「なまえにとっての俺は、連絡を絶っても構わないただの仲間のひとりに過ぎなかったのか、と思ってしばらく落ち込んだけどな」
「ごめん…それは本当にごめん」
「でも、こうして会えたから。会いに来てくれた」

優しい声色の彼。きっと今顔を上げて彼のほうを向いたなら、わたしですらあまり目にすることのない、穏やかな笑みを浮かべているのだろう。胸の奥がざわつく。この歳になってまで、恋だの愛だので心が動かされてしまうなんて。三か月ぶりに感じた、胸がきゅっと締め付けられるようなときめきは切なくて嬉しくて、わたしの好きな感覚だったことを思い出す。

と同時に、わたしはもう彼のライバルですらない、という事実が唐突に重くのしかかる。一緒に防衛任務に出たり、模擬戦で互いの技術を磨いたりすることは、もうないのだ。わたしは単なる大学院生、一般市民で、時折テレビ番組に映し出される彼の姿を眺めることしか出来ない。突然一切の連絡を絶ったのはわたしだ。こうして彼がわたしを理解し、話をしようと誘ってくれなければ、一生会うこともなかったかもしれない。彼という大切で大きな存在を、自ら手放そうとしていたのだった。

しかし、わたしの好きなこの時間、この空間の柔らかさを思い出してしまったから、そんなことは出来ない。手放したくない。彼のことは言い訳をつけて先送りにし続けてきたが、結論を出すのは今しかない。わたしは小さく息を吸い込み、覚悟を決めた。

「蒼也、」
「…?」
「折角また会えたから、今言うね。わたし、蒼也のこと」

好きなんだ。そう言うつもりで、彼のほうへ顔を上げた瞬間、彼はわたしにキスをした。何が起きているか理解するまで、しばらく時間がかかった。彼の唇が、舌が、わたしのそれを何度もなぞる。ここは誰も来ない、公園の一番奥まった場所、とはいえ今はまだ真昼間だ。羞恥心からわたしは逃げ出そうとするが、後頭部に回された彼の力強い手のせいで、動くことが出来ない。薄目を開け横目で公園の様子を確認すると、人の気配は微塵も感じられなかったので、わたしは彼の背にそっと腕を回し、大人しく彼の熱く優しいキスを受け入れることにした。

どれほどの時間そうしていたのかはわからない。彼のキスから解放される頃には、すっかり息も上がってしまっていて、顔も、耳も、身体も、全てが熱を帯びていた。

「蒼也…!」
「言わせない。俺が言う」
「え…」
「好きだ。なまえさえ良ければ、これからもずっと一緒にいたい」

彼の鋭く赤い目が真っ直ぐとわたしを捉えて離さない。こんなに熱い告白をされて、断れる女性はいるのだろうか。断るつもりなんてないけど。「わたしが先に言おうと思ってたのに!」、「俺が言おうと思ったら連絡を絶ったのはそっちだ」、そんな子供じみた言い合いも嫌いじゃない、と思えるほど、わたしはこれ以上ないくらいの満ち足りた気持ちに包まれていた。

互いの気持ちを言葉にするのが、少し遅くなってしまったけれど。違う道を歩んで行っても、彼となら、いつまでも幸せな毎日を過ごせそうな思いがした。

「今朝、テレビで蒼也を見たよ。格好良かったよ」
「…なまえも、しばらく会わない間に、随分きれいになった」
「蒼也が人の容姿を褒めた!凄い、そういうこと言えるんだ」
「うるさい。今から褒め殺しにするぞ」
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