世界は絶望と憎悪が渦巻き混沌としていた。魔族を率いる終焉の者と、民衆を導く女神との争いも佳境にあり、双方とももうこれ以上の犠牲は出せない状態にあった。夥しい量の血と涙で潤う大地を踏み締めれば、この戦争で泡沫のように消えていった命たちの叫喚が聞こえる。
ギラヒム――終焉の剣に宿る精霊でありながら、魔族を束ねる存在である彼は、焦っていた。冷静に戦況を鑑みると、幾分か魔族側が劣勢なのは明らかだ。彼が仕える主人は悲願達成の為に文字通り命を懸けて戦っており、部下が手を抜くことは決して許されない。しかしこれ以上優秀な魔族を失ってしまっては、例えこの戦争で勝利を掴んでも、世界を統治するのは不可能になってしまう。ギラヒムは苦慮し、熟考した。そして、自身の右腕とも言える一番の部下を呼び付けて、こう命じた。
「なまえ!」
「どうしたの、ギラヒム」
「なまえ、そろそろ時間が無くなりそうだ。あの司令官を捕らえて、軍を崩せ」
「あの、司令官」
「……なまえが望むなら、牢に繋ぐだけでも構わない。奴の戦力を封じろという命令だ。いいな」
「……了解」
女神ハイリアに仕える軍隊の存在は、魔族側の脅威であった。女神への忠誠心による軍の団結力も然ることながら、最も魔族が恐れたのは、軍を束ねる司令官。見た目はまだ若い青年だが、闘志を宿し燃えるような青い瞳で、細い金髪を風に靡かせながら勇猛果敢に戦う。緑色の軍服は先頭に立つ者の証。その姿は勇者そのものだ。なまえは、その司令官の事が気になっていた。
戦前、トライフォースを狙う終焉の者に命じられて、なまえは女神の軍に接近した事があった。魔族と言えどもなまえの容姿は人間と変わりない。怪しまれずに市民の振りをして、兵士達と言葉を交わす事も容易に出来た。そこでなまえは容姿端麗な若き司令官に出会い、彼の女神への想い、そして大地を愛する気持ちを知った。自身の欲望にのみ突き動かされる魔物とは違う、となまえは思った。心優しく、強き意思を持った彼は、魔族に囲まれて暮らす彼女にとって青天の霹靂であった。
(魔族と人間、なんて変な区別さえ無ければ、皆仲良く出来るのにな)
魔族に生まれながら、人間と変わらぬ容姿と心を持つ。それ故になまえは葛藤していた。
残酷な運命に翻弄され、人間と対峙しなければならない状況に置かれても、なまえはこれまで人間の命を奪った事はない。怪我をさせてしまう事はあっても、殆どが魔力で眠らせるのみであった。なまえは人間を殲滅させるつもりなど毛頭ない。早くこの戦争を終わらせ、魔族と人間が共存出来る世界が訪れるよう願っていた。
(いた……)
なまえは、軍隊からやや離れた場所に司令官の姿を見つけた。彼女が司令官に接近するのに配慮して、ギラヒムが魔物の襲撃を抑えているのだろう。この空間に響くのは風に鳴る葉の音だけだった。
なまえは彼の背後に回り込み、彼に催眠術をかけようとする。しかし、なまえの気配を鋭い感覚で察知した彼は、流星のように瞬く間に剣を引き抜いて構え、なまえに差し向けた。もう彼の瞳には、かつてなまえが感じ取った優しさは宿っていない。別人と呼んでも過言ではない。戸惑うなまえを置き去りにして歯車は回る。
「何だ君は!人間じゃないな、」
「お願い、わたし貴方を傷付けるつもりは無いのよ、」
「どういうつもりだ!」
「捕虜になってくれれば、うっ!」
激しい戦闘。なまえが魔族であると認識すると、司令官は容赦なく剣を振り続ける。五月雨の如く流れる切先がなまえの肌を幾度も掠め、その度に魔力で生み出すなまえの剣と盾が消滅していく。なまえは隙を作らないように、魔力を消費し続け応戦するが、相手は全く疲労の色を感じさせない。
彼は軍人としてなまえを追い詰める。彼はなまえを殺す気だ。彼の大切な仲間である人間や大地の在るべき姿を無残に奪い去った、魔族のひとりであるなまえを。
このままでは、私の命が危ない――。
「ちょっと、やめてよ!」
強烈に降り注ぐ切先の雨を晴らそうと、なまえが司令官に向かって叫んだ瞬間。彼女の魔力は意に反して暴発した。凄まじいエネルギーの放出は人工兵器が生み出すものよりも大きな爆発を伴い、爆風と粉塵が周囲と自身を遮断する。暫くしてなまえの視界が徐々に晴れてくると、彼女は現実に直面することになる。
(…………!)
暴発した魔力が作り出したなまえの強力な剣は、彼の身体を貫いていた。
「なまえ、何があった!」
「ギ、ギラヒム」
「…………」
予想外の爆発音を聞きつけてなまえの下に駆け付けたギラヒムは、目の前に広がる現実に二の句が継げなかった。木々の緑、彼の軍服の緑を塗り潰すような鮮血の赤。それだけならこの戦争で見慣れてしまった光景だが、倒れているのはなまえが懇意にしたい、どうしても生きてほしいと願った男だ。
なまえは涙を流しながら、自分が命を奪ってしまった司令官への謝罪の言葉を繰り返す。ごめんなさい。ごめんなさい。震えの止まらない彼女の身体を、ギラヒムは抑え込むように力強く抱き締めた。
「……なまえ、」
「ごめんなさい」
「……話は後で聞く。とにかく今はここから逃げよう、早くしないと軍が来る」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「…………」
ギラヒムとなまえがその場から姿を消すと、魔力の弱まったなまえの剣――司令官の身体を貫いた剣は消滅した。しかし、彼はもうその場から動くことはなかった。