きゅ、と細められた瞳に体が強張る。
どういう事だ、ただ見つめられているだけだというのに。晴信を見つめる妖はただジッと枝に座り花びらを唇に挟んでいるだけだというのに。初陣でも感じ得なかった得体の知れない恐怖と緊張が晴信を襲った。しまった、どうやら調子に乗りすぎたらしい。話しやすいからと臣下や民に接する時のように口を聞いたのが不味かったか。
思い返してみれば実に自分勝手な誘いだった。
己が楽しいからと面白いからと声を掛けて。そして断られれば腹を立てる。まるで子供ではないか。童と言われても仕方がない。
言い表せぬ圧迫感と己の行いを恥じて押し黙れば、フッと溢れていた気がなくなり。弾かれるように顔を上げれば、牡丹は明後日の方向を見つめていた。どうしたと声を掛けたいが、申し訳なさが胸に使え言葉が出てこない。

『…どうやら迎えが来たようだな』
「…?」
『お前を捜しに人が来ている』
「 ! あ奴ら…」
『行くなら早くしたほうがいいぞ。この辺りには俺以外にも妖はいる。人喰いのな』
「 ! 」

脅しにも聞こえるそれは、晴信には確かに身を案じているように聞こえた。
見えるのだろうか、晴信を捜しにやってきた臣下たちを眺めるように時折目を細める牡丹。それとない優しさを見せるこの妖が、どうにも妖離れした存在にしか思えない。彼の口から不穏な言葉を伝えられ、グッと手綱を強く握る。戻るべきなのだろう。己を追って、こんな森の中まで踏み入ってきたのだから。その挙げ句に妖に喰われてしまったとあっては…。申し訳ないではすまされない。けれど、と後ろ髪引かれるのが牡丹の存在である。初めて会った人外の生き物。この短い間でその恐ろしさも親しみやすさも知ってしまった。今更無かった事には出来ない。
でも、けれど、しかし。
ほんの数秒ではあれど晴信はじっくりと考えた。己は何を大事にすべきなのかを。1人の人間として武田の嫡男として。その結果得た答えは、

「…牡丹よ、どうやらここでお別れのようじゃ」
『そうか』
「ワシは人の世に戻ろう。成さねばならぬ事がある故。」

跨がる馬の手綱を引き、方向転換する。
帰るべきと判断したのだ。成すべき事を成す為に。
その為には臣下の元へ帰らねば。己1人では何も成すことが出来ぬと。彼との別れはとても残念だが致し方あるまい。くっと顎を引き、前を見据え牡丹に背を向けた時だった。

『晴信』

不意に名前を呼ばれ立ち止まった。
何だと返答する前にぽとりと、晴信の膝の上に真っ赤な椿が落ち。艶のある実に美しい椿だった。

『やる。魔除けだ。それを持っていれば、少なくとも森を出るまでは襲われまいて』
「…………。」
『返事はするなよ。そのまま、振り返ることなくお戻り』

その言葉に背を押されるように勝手に馬が歩き出す。出来るなら振り返り“また会えるか”と問いたかったが、出来なかった。目に見えぬ力に押さえられているようで。まるで夢現のような一時だった。
だが手に掴む椿がそれが現実だと証拠づけていた。


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