どういう訳か。今膳を共にしている男は体は肥えておるのに。顔は窶れていた。心なしか疲れているように見える。そりゃまあ。大事な跡取りがあんな様子ではこうもなろう。
清史郎の入水自殺を邪魔。基防いで早くも一晩。昨夜はばたばたしていてろくに挨拶も出来なかったからと。朝飯を共に戴く事になった訳だけども。この窶れた顔を前にしながら朝飯とは。申し訳ないが箸が進まない。とは言っても。勿体無いから食べっけど。 米粒一つまで戴くと。茶碗と箸を置き、茶を一口。うむ、美味い。やはり食後は緑茶に限る。
『ところで御主人。御子息の御体は大事ないでしょうか。』 「…っ。えぇ、お陰様で。まだ眠っておりますが直に目覚めるでしょう。」 『それはようございました。昨日川でお見掛けした際には酷く取り乱した御様子でしたので。』 「…………。」 『そう、まるでー…。何かに取り憑かれているように。』
惚けたように言ってはみるが。彼女は確信しておった。だって見たもの。あの青年の背中にべったりと。張り付いとる女の姿を。しかしこの目の前の男。清史郎の父・悟郎は見えんのであろう。それでも近頃の息子の行動の奇妙さから。何事かを感じ取ったんだろう。言うてみれば息を飲み。持っとった箸を折れそうな程。強く強く。握り締めた。それを見逃さぬ六月一日ではない。 空になった湯呑みを。ことり。膳に戻して両手を太股の上に揃えておきゃぁ。凛とした姿勢の出来上がりってね。 『何ぞ心当たりがおありのようで。』 「…内密にして下さると、御約束頂けますか。」 『無論ですとも。』 「……実は、」
昔語りを始めるかのように。男、悟郎は重い重ぉい口を開いた。曰く清史郎はある日唐突にああなったのだと。ああなる前は至って普通の。いや、良く出来た自慢の息子であった。嫡男という立場に甘えずと自ら行動を起こして。様々な物事を見て経験して学び。あまりの妙妙たる出来上がりぶりに鳶が鷹を生んだ等と密めかれたのも。今じゃ嬉しいとすら思える。親心ってやつぁ不思議なもんだね。
そぉんな自慢の倅が。いきなり可笑しくなっちまったんだから困るどころの話じゃない。妻は床に伏せってしまう程。医者に見せようも匙を投げられ。ならばと坊主に見せてもお手上げと。頭を抱えんのはそう遅くはなかった。説法も漢方も効かん。どうすりゃいいんじゃ。隠しちゃおるが町の者は姿を見せん清史郎を段々と訝しようになっちまった。病かと、見舞いに訪ねて来おる者共を追い返すんもそろそろ瀬戸際。 嗚呼。一体息子の身に何が。ようやっと嫁も見繕ろえたと言うのに。
ひたり。と彼女の視線が悟郎を捉えた。
『…その。御子息が豹変なされたのは何時頃でございましょうか。 「え? えぇっと確か…。一月とちょいと前…。そうです丁度倅に許嫁が決まった頃合いでしたかと。」 『成程。』
そうか。そうか、道理で。だからか。腑に落ちた。つまり、だ。あれは嫉妬したのだ。清史郎が他の女と、夫婦となる事に。御相手の娘さんじゃのうて。男の方に取り憑くっつーことは。男を死なせて後を追う心づもりであったか。おのれぇ。だから女は陰湿だなんだと言われるのだ。 この背後から感じるじめじめとした気配も。それを象徴するようじゃないか。えぇい何時までも人の後ろに立ちおってからに。ちょいと本体に戻ってろ。ばちっ。ぎゃひい! どうしてこういう手合いはこんな声しか上げられんのか。耳が痛ぅてしゃあないわ。そぅっと耳を撫でりゃあ悟郎が首を傾げよる。見も聞こえもせんとは誠羨ましい限りで。だけどもそれに越したことはない。その方が楽に生きていける。
へらり。口角を上げて笑顔を作った。
『もし、差し支えないようでございましたら。手前めがご助力致しましょうや。』
疲労は人の判断を鈍らせる。とはよく言ったもので。悟郎は深く考えもせず首を縦に振った。
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