室内に入り障子を後ろ手に閉める。突き刺さる敵意と首に纏わりつく怨念と肌を焼く熱気に僅かに目が眩んだ。気は失ってやらん。
布団に横たわっている人物、松永弾正久秀を認める。体から出る薄い靄。どうやら久秀の婆娑羅が滲み出ているらしい。どうしてか布団は焦げていない。月光に照らされた久秀の影。異形のものの形。手早く済まそう。彼のやつれ方が切迫を表していた。
『ご機嫌麗しゅう。そちら御加減は如何でしょう?』 「う、うぅ…」 『其処は狭いっしょ。ちょいと此方に出てきんさい。』
おいでおいでと手招く。それに吊られて影が揺れる。 狭かろう人の中は。辛かろうその男の中は。求めるものは其処には無いのだろう?出ておいで。望むものをあげるから。案ずるな、恐ろしい事など。 そう、そう良い子だね。なんてお上手。
部屋の中いっぱいに黒い靄が広がる。久秀の、炎の婆娑羅に乗って現れる。よくもまぁこれだけのモノが入っていたものだ。そりゃ苦しかろう。腰に下げた荷の中から煙管と刻み煙草を取り出す。ぎゅっと火皿に押し込む。婆娑羅のお陰で火種も無く火が点く。おおなんと便利な。 この時代にはライターはもちろんマッチも無いから。吸い口に唇を付けて煙を吸い込む。ああ随分と長い間吸っていなかったように思う。
我慢しようと思えば出来るけど、したくないと思うのが人であろう。肺いっぱいに溜め込んだ煙を靄に向けて吹き掛ける。さすれば忽ちに靄は山犬のような悲鳴を上げ。のたうち回るように暴れ、おのれよくもと彼女に襲い掛かった。 落とさぬよう無くさぬよう。そして機嫌を損ねぬよう着物の合わせ目に差し込んだ銀細工の細筒を手の取る。万年筆ほどの大きさのそれ。先か後ろか。傍目には判別つかぬそれの切っ先を、己目掛けてやって来るものに向けた。
『おいで三ツ蜂』
凛とした声で何者かを呼ぶ。鮮やかな閃光が走る。靄が怯む。慌てて久秀の体に戻ろうとするも弾かれてしまう。どうした事だ。当然彼女がそうしておいただけ。誰の目にも見えない結界を張るのは苦労するんだぞ。 靄が振り返る。比喩だ。そう思えただけ。そうして同じように目を見開いた気がする。そうだろう、そうだろう。つい先程までいなかったものがいるのだから。
白毛三尾の管狐。紅い隈取りが印象的だった。
『三ツ蜂』
その者を名を、ただ呼んだだけ。これと言って命は下していない。なのに。まるで以心伝心とでも言うかの如く靄に管狐、三ツ蜂が襲いかかる。 ぎゃあやめろ!何をする獣め!咆哮がそう言っている。 どたんばたん。長逸は優秀な男だ。こんな物音が立っても尚、部屋に踏み入らない。
抵抗も虚しく、とうとう靄が床に押さえつけられた。次第に姿を取り戻していく靄。やはりあの咆哮通り正体は山犬だった。勇ましかったのであろう牙は今ではおぞましいとしか思えず、獰猛であったはずの瞳は血走っておる。見る影もないとは正にこの事。 首根っこを噛みつかれ、体躯は強く踏みつけられ身動きが取れぬ。ぐるると唸る山犬に苦笑を漏らす。膝を折って屈んだ。
『いつまでもそんなんじゃ辛いんじゃね? もうそろそろ潮時だぁよ』
そっと手を伸ばし山犬の頭を撫でる。何度も何度も。嗚呼やめておくれ、どうしてそんな。優しくしないでくれ、息が苦しい。心が、満たされていく。駄目だ駄目だ。こんな。助けてくれ、違う助けないでくれ。まだ憎いんだ恨めしいんだ。けれど。もう。女の言う通り潮時なのだろう。だって誰だったかもう分からない。それでも憎かったからこうして。
いいのだろうか、天に召されても。 いいんだよ、天に召されても。
女に問えば柔らかな声で返してくれた。そうか、いいのか。ならば。 眠るように目を閉じる。気分がいい。白い靄となって山犬が霧散した。気配が遠退いたのを感じて腰を上げる。視線を向けた先には檜皮色の、ではなく灰桜と化した茶碗が一つ。かしゃりと音を立てて粉となった。
『…恨みたくもならぁな。茶碗の着色の為に殺されるなんて。』
あの檜皮色は。
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