トリップ編
(占星術士の全国行脚)
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店頭の式台に腰かける女に近すぎず遠すぎずを保つように正座する。無論抜かりなく茶を持ってくるよう妻に言いつけて。何てったって恩人だ。失礼があってはならない。

『顔色も随分と良くなられたようで。安心致しました。』
「左様で。その後も家内ともども恙無く暮らしを送らせて頂いとります。」
『それは何より。それで、その件の碗はあちらですかな?』
「…良くお分かりになられましたな。如何にも、あれが手前どもを悩ませた禍にございます。」

つい、と女が指差した物に忌々しげに目を向ける。本音を言えばあんなもの店に並べとうはなかった。もしも売れてしまい、その先でも怪異が起きてしまえば此方が非を見るのは目にも明らか。
あの時は憔悴しきっており兎にも角にも手放してしまいたかったが、頭を冷やしてみれば、そうだ。買い取り手の元で何かが起こらないという保証がない。

自分が買った時の商人のように町から町へと渡る者であれば足もつきにくいが己は此処に根を張ってしまっている。怒鳴り込まれれば噂は忽ち町に蔓延するだろう。食ってはいけなくなる。

然れどもこれ幸いなことにその心配はいらなくなった。
あの日あの茶屋で目の前の女が言ったのだ。

檜皮色の茶碗いっぱいに清水を注ぎ、その水に月が映るようにして一晩置き翌朝その水を捨て真っ白なさらしで丁寧に拭い。そうして更に一晩御神酒を入れた状態でまた置いておく。すると翌朝には不思議なことに酒が無くなっているから、その茶碗を店に並べるよう。
そう、煙管を吹かしながら言ったのだ。

当然の事ながら最初は半信半疑。いや、ほぼ疑のほうであった。言ったろう。彼女をけったいなのと。そう思った者をおいそれと信ずる人間が商売など出来まいよ。なのに何故それを実行に移したかと言えば、まあ藁にもすがる想いだったからに他ならない。
だがその藁は御仏から垂らされた蜘蛛の糸と同等だった。それ以後、あの奇っ怪な物音がすることは無かった。同じように女が姿を見せることも。

現代で言うところの営業スマイルを浮かべながら庄ヱ門は考える。

この女が訪問してきた理由だ。まさか助けてやったんだから金子を寄越せとでも言うのだろうか。いや、助けてもらったのだから多少は構わないが如何程包めば満足なのか。それと懸念すべきはこの恩を延々とこれ見よがしに使ってこないかという点だ。
こういう手合いはしつこくねちっこく何の得にもならない。

「それで、その…用向きはなんでございましょう?」
『いや、特に用というのは無いんですがね。近くに寄ったもので、どうなったのかと気になりまして。何も無いなら、それで。』
「はぁ…。」

へらりと笑う女に何とも言えない返事しか出来ない。なんだ、本当にそうなのか?今のうちは気を緩ませておいて後から金銭の要求をしてくるのか?自分の考えすぎかだろうか? そんな気もする。

客商売をしているとどうも利益や損得に目が行き、人を信ずるという気持ちが薄れていく気がする。真心を大事にしろとも祖父は言っていたような。ああ今日は昔を思い出してばかりだ。近く墓参りにでも行こうか。そういえば暫く行っていない。忙しいだとか色々な理由をつけてうやむやにしていた。途端に申し訳ない気持ちが湧いてくる。
それが表情に出ていたのか、女がくつりと器用に喉を鳴らして笑った。こんな風に笑う女人は初めて見た。少しだけ、見惚れる。

その間に飲みやすい熱さになった茶を一度に煽り、女は店を出ていってしまった。勘でしかないが恐らくもう女に会うことはないだろう。そしてこの勘はきっと当たる。
最初こそけったいと評した天色ではるが今後二度と拝むことも無いのだと思うと物悲しい。何とも言えぬ感情を溜め息で紛らわす。空になった湯呑みを片付けようと手を伸ばした。そういえば、

「…ついぞ、名前を伺うこともなかったなぁ。」

なんと、世話になっておきながら他人のまま終わってしもうた。いや… そもそも己は店の場所を教えていただろうか。



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