朝露に濡れた草木から。ぽたり。水滴が一粒落ちる。地面に敷かれた落葉に音もなく吸い込まれ。何とも言えぬ感情が生まれよった。 良いなぁとぼんやり思う。終わりゆく秋の庭。秋時雨に濡れる柊。何時もより鈍い鹿威し。こういうのに触れる度。日本に産まれて良かったと考える。
吐く息が白い。もう冬が足元まで迫ってきとる。着とった羽織の襟を握って。少しでも暖を取らんと首もとへ寄せる。旅はまだまだ続くんだ。体を壊すんは避けたいね。
「うぅ…。朝ともなるともう大分寒いですね…。息も真っ白です。」 『そうだねぇ。もう霜月も終わっから。』 「もう、ご出立なされるんですか?」 『えぇ。何分先を急ぐ旅だかんね。雪に降られんのは困る。』
雪が降りゃぁ。どうしたって行く手を阻まれ。足が遅くなっちまう。この時代。平地でだって一定の積雪が見込まれる。平地でそんなんなら山なんて。近付くなんざ以ての外。遭難しちまう。故に経路を省略するこたぁ出来ん。参ったねぇ。だが春になるのを悠長に待ってなどおれぬ。期限のある旅じゃなし。とは言うが二年三年と居るつもりなど。
待ち人なぞ居やしない。然れど長く居れば居る程。此方に染まっちまいそうで。今んとこ。何もかんも手前の足で移動せにゃならん。それが一番億劫。しかしそれ以外にゃ不満はあらず。己は生きて行けるのだ。何処ででも。環境適応力が高いと言やそうなんだがね。でもそれはまるで薄情者みたいじゃないか。執着するもんがなぁんにも無くって。偶に自分の性格が嫌になる。まぁ、偶にだけどね。
最後になるであろう。二人きりのゆったりとした時間。鶴姫の履く朱色の袴が枯れ葉と相俟って、美しい。これも後僅かで終わりを告げることを彼女は知っている。
「寂しくなります…。鶴のこと、忘れないで下さいね。」 『勿論。姫さんとの数日はとても思い出深いものとならんした。』 「…その。他人を名前で呼ばないのは深入りしない為ですか?」
思えばそれは出会った時からであった。名乗ったのも関わらず。彼女は一度も鶴姫の名を呼ばんかった。姫さんと。それだけ。これ迄を振り返ってみても。彼女が誰かの名前をまともに呼んだことは。何てこった無ぇじゃねぇか。 余程畏まった場でありゃあ。呼んどるがそれ以外は。なぁんとも無難な呼び方しとって。それでだって世の中渡っていけんだから。楽っちゃ楽。寂しいと言う者も居るが。生憎彼女は何とも思わん。
面倒だから気付いてくれなきゃ良かったんに。返事はせず、ただ笑みを深めるだけにすりゃあ。鶴姫が小さく謝罪を口にした。 鶴姫の言葉は確かに的を得ておった。いずれ帰る身であんのだ。親密になんのも深入りすんのも避けたい。未練を残したとて帰らない。なんつー選択を選べやせんのだ。であれば分かり易く他人と距離を取れて。相手に溝を感じさせんのが、そう。呼び名である。真名でもなけりゃ徒名でもなし。呼ばぬ相手と仲良うする者もそうそう居らん。有難い。
「不躾な質問でした。忘れて下さい。」 『そうするよ。』
ここで漸く返事すりゃあ。安堵したように鶴姫は肩の力を抜く。えらい罪作りな奴だ。神仕えにこんな思いをさせおって。
さあ。残り限られた時間をこんな事で無駄にしとうない。一段と会話を重ねようと。散歩を再開すべく庭に敷かれた石の上を一歩。進みゃあ。かさりと葉の擦れる音。風によって生まれた音じゃあない。何だとそちらへ顔を向けりゃ。茂みの中から顔を出す一匹の蛇。真っ赤な瞳に真っ黒な鱗。目が合う。
こいつは良くないもんだと本能が告げおった。
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